• 検索結果がありません。

第3章 日野川流域の鉄穴流しにともなう水害と対応

第2節 地形環境と水害の特性 1.日野川の流路変化

米子平野の地形環境と水害の特性を検討するにあたっては、まず日野川の流路変化につ いて検討する必要がある。なぜなら、空中写真の判読および現地調査などによって作成し た地形分類図(図3-2)から伺えるように、日野川の流路は頻繁に変化してきたと考え られるからである。

日野川の流路変化については、幕末に編纂された『伯耆志』7の「往古當(岸本)村の北 より東北に流れて今の今岡村中を経、佐陀川と合して海に没りしが、天文十九年戌(1550)

八月二日の洪水に堤崩れて西北に流れ、今の八幡馬場の村中より又稍東に折れて高田島田 の地方古川の村中に流れ、日吉津村の境内より海に没りしと云ふ是一轉なり。後又元禄十 五年午(1702)七月十八日の洪水に馬場村の北より四日市村(現・米子市福市)の境内に 流れ、川西の尻焼川(法勝寺川)と合して今の如く海池(皆生)村の湊に没る事となれり 是二轉なり。」(括弧内筆者注)という記述がよく知られてきた。そのため、扇頂付近か らほぼ北に流れていた日野川は 16 世紀中頃に西転し、元禄 15 年に再度生じた西転によっ て法勝寺川と合流するようになった(米子市役所編 1942 447-448)とする見解が一般化し

5 砂金・砂錫・砂鉄の採取に関する全 24 ヵ条からなる法律。1893 年 4 月施行。選鉱作業を行う、あるいは選鉱用の水路・

溜池などを開設する場合、土地所有者はそれを拒否できない(第 13 条)という条目をもつ。法案提出の理由書には、

中国山地において数十万人が従事する砂鉄採取業を保護することは、国家経済上および軍事上重要とある。なお、同 法の全文は、その成立過程を検討した加地(2007)に掲載されている。

6 明治 27 年「鳥取県日野郡鉱業所取調書」(武信 1894b所収)

7 景山粛(安政年間)『伯耆誌』 佐伯元吉編『因伯叢書・第四冊』(名著出版 1972 年復刻)

58

図3-2 日野川・法勝寺川下流域平野の地形分類

[1967 年撮影・約 2 万分の 1 空中写真の判読および現地調査などより作成]

59 てきた。

しかし、この見解には再考の余地がある。すなわち、寛永 10 年(1633)に描かれたとさ れる伯耆国絵図では、日野川は1本の河道をとりつつ、法勝寺川とすでに合流している。

そして、同様の流路は、17 世紀中ごろの正保国絵図や、元禄 11 年(1698)の国絵図にも 描かれている8。国絵図の記載にしたがえば、17 世紀前半までに法勝寺川と日野川は合流 していたとみることができる。

それでは、法勝寺川と日野川はいつごろ合流したとみなすべきであろうか。宗像の狭隘 部付近に鎮座している式内社の宗像神社は、『伯耆志』によると、天文 8 年(1539)8 月 に流失したとされる。また、八幡神社(米子市東八幡)の「八幡神社蔵棟写」には、日野 川の西転によって同 19 年に流失した社地社殿を移転させたとある(平凡社地方資料センタ ー編 1992 746-747)。これらの洪水時には、日野川の流水が法勝寺川に直接注ぎ込んだと みてまちがいない。そして、次項で指摘するように、両河川の合流時期は、17 世紀を大き くさかのぼることはないと考えられる。そこで、現段階では合流時期を 16 世紀前半頃の洪 水発生時とみておきたい。

一方、元禄 11 年の国絵図にみえる日野川は、古川村(現・米子市古豊千こ ほ う ち)の東部、現在 の日野川東岸に位置するホレコ川排水路付近を流れている。そして、元禄 15 年の水害では、

後述するように、米子町においても大きな被害が記録されており、この水害に日野川が直 接関与した可能性は高い。したがって、船越元四郎先生著作集刊行委員会編(1998 452)

や古屋(2000)なども指摘しているように、日野川は元禄 15 年水害を契機として、現流路 をとるようになったと考えられる。そして、この元禄 15 年の流路変化は、法勝寺川と日野 川の合流地点をより上流側に移動させるものであったことを見逃がしてはならない。

2.尚徳低地の地形環境

法勝寺川西岸に展開する尚徳低地は、東を長者原台地に、北・西・南を丘陵性山地に限 られ、盆地状をなす。標高 9~13m の低地内にはグライ土壌の卓越するきわめて低湿な後背 湿地が広がり、幾筋かの旧河道もみられる。このような低湿地の主要な形成要因としては、

尚徳低地を流れる法勝寺川の河床勾配が 1~1.5‰程度にすぎないため、法勝寺川は砂礫な どの粗粒物質を長期間にわたって運搬・堆積してこなかったことを指摘できる。そして、

地盤高の現況や旧河道の位置からみると、日野川が尚徳低地に直接流入するもこともしば

8 これらの国絵図は、米子市史編さん協議会編(1997)『新修米子市史・第 12 巻・資料編(写真)』同市に掲載されて いる。

60

しばあったとみられる。しかし、日野川の流入は、長者原台地や、日野川西岸の攻撃面に あたる同慶寺と兼久の土手によって抑えられてきたため、尚徳低地の表層部にはシルトや 粘土が 3~5m 程度堆積し、砂礫のような粗粒堆積物は法勝寺川沿いの微高地上のごく浅い 部分にしかみられない9。日野川起源の粗粒堆積物にとぼしいということは、日野川と法勝 寺川の合流時期が 17 世紀前半を大きくさかのぼらないことを示しているといえよう。

また、支流が本流に合流する場合、一般に勾配は支流の方が大きくなる。しかし、緩勾 配の法勝寺川と、その流路に流れ込んだ急流の日野川とでは、この関係が逆になっている。

したがって、法勝寺川は日野川扇状地によって閉塞される傾向にあり、法勝寺川は日野川 との合流地点において排水不良を生じやすい。そして、水位が上昇した際には、法勝寺川 への日野川の逆流も起こり得るようになっている10

一方、法勝寺川沿いの地盤高は 11~13m 前後であり、尚徳低地の北西部にむかって高度 を減じ、宗像の狭隘部の地盤高は 10m 以下となっている。このため、低地内の農業用水路 はすべて西側の加茂川に流れ込んでいる。この加茂川は、宗像の狭隘部を経て米子町の外 濠となったのち中海に流入していた11。その結果、低地内の溢流水は宗像の狭隘部に集中 し、米子町の中心部を浸水させることになった。また、車尾く ず も村内の日野川西岸堤防におい て決壊・溢流が生じても、米子町の中心部は浸水の被害をうけたとみられる。

しかし、圃場整備実施以前には条里型土地割が分布していたように(中村 1978)、尚徳 低地では古くから水田耕作が行われてきた。その上、表層地質からみても、尚徳低地では、

静穏な堆積環境のもとにあった時期が長く続いていたと考えられる。ところが、16 世紀前 半とみられる日野・法勝寺川の合流以降、法勝寺川の排水不良は顕著になり、尚徳低地は 水害常襲地域としての性格を強めた12。そして、元禄 15 年における日野川の流路変化は、

この法勝寺川の排水不良をいちじるしく高めることになったとみられる。両河川の運搬・

堆積能力のちがいは、日野川沿岸と尚徳低地との高低差を徐々に拡大させた。そのため、

法勝寺川の排水不良は進行し、日野川の逆流と直接の流入の危険性を増していったと考え られる。

9 この砂礫は近世以降における兼久堤防の決壊時に堆積したとされ、果樹園や畑として利用されてきたことから「河原畑」

と呼ばれている(松田 1977 139-140)。

10 経済企画庁編(1967)『土地分類基本調査「米子」』同庁 地形各論 19-20

11 1932 年には、中海への放水路として、新加茂川が開削されている。

12 法勝寺川東岸の長者原台地に位置する兼久集落は、寛永年間(1624~1643)まで西岸の尚徳低地内に立地していたと する見解がある(松田 1956)。これにしたがえば、兼久の集落移動は尚徳低地の水害常襲地化と密接に関わっていた 可能性がある。

61

そのような中、日野川本流の上・中流域を中心に鉄穴流しが活発に稼業された 19 世紀に おいて、米子平野は急速に成長した。天保 4 年(1833)の日野川が縮尺 1,200 分の 1 で描 かれた実測図13によると、日野川の河口は海池村(現・米子市皆生か い け)と上福原村(同市上 福原)の村境の北方およそ 1,350m 地点に描かれている。この河口の位置を 1899 年測図の 5 万分の 1 地形図に示すと(前掲図3-1)、河口は 66 年間で 700~750m 程度(年平均約 11m)北へ移動したことがわかる。

このような流路の延長は、日野川の河床を埋積させる要因のひとつとしてとらえられる。

実際、後述するように、幕末以降、日野川の河床は砂鉄採取の動向に応じつつ、いちじる しく変動した。その結果、日野川の河床が上昇した際に、法勝寺川の排水は極度に悪化し たとみられる。法勝寺川との合流地点の上流に位置し、日野川西岸の攻撃面にあたる同慶 寺土手が決壊すると、日野川の溢流水が尚徳低地に直接流入するような状況にも至ったの である。

3.水害の特性

⑴江戸時代の水害状況

日野川の転流をともなった元禄 15 年 7 月および 8 月の水害は、米子町に対して流失家屋 70 軒、会見・日野両郡に対して収穫量半減以下という被害をあたえている(表3-1)。

流路変化後の日野川では、享保年間(1716~1736)を中心に深刻な大水害が頻発している。

浸水域は、日野川下流の両岸のほか、「酉とりどしみず」と称される享保 14 年水害のように米子 町におよんでいるものも確認できる。前項でみたように、米子町を被災させた水害は、法 勝寺川西岸および日野川西岸の堤防決壊によるものとみられる。米子町の水害対策として は、河川沿いの連続堤防とは別に、宗像の狭隘部には宗像土手が、日野川西岸の車尾・勝 田村境には勝田土手がそれぞれ築かれていた(図3-3)。しかし、「卯どしみず」と呼ばれ た寛政 7 年(1795)の水害や、享和元年(1801)の水害時にも米子町は被災している。

文化 9 年(1812)には実久村内の 2 ヵ所、兼久村内の 1 ヵ所で、兼久土手が決壊してい る。しかし、普請奉行による水害状況の報告14に、「水一面に相成り候に付き、土俵杭木 等用意致し、御山奉行、并びに下奉行罷り越し相防がせ候由、宗像土手の上の段、石垣よ り一尺計り上り候由、尤も土手筋大樋口は別條これ無し」とあるように、宗像土手によっ て米子町は浸水を免れている。

13 天保 4 年「会見郡日野川絵図」(米子市史編さん協議会編 2004 『新修米子市史・第 12 巻・資料編(絵図・地図編)』

同市 100-109 掲載

14 1940 年ごろに編纂された足立正稿本『米子付近村落史』未刊行(米子市史編さん協議会蔵)所収史料による。

関連したドキュメント