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第5章 山内の立地とたたら製鉄への従事状況

第2節 鉄山労働者の社会的性格

1.隷属性・閉鎖性に対する批判的再検討

つぎに、前節にてその立地状況を検討した山内に居住し、鉄の生産に従事した専業的労 働者について考えてみたい。第1章で指摘したように、隷属性・閉鎖性に求められてきた

7 明治 6 年「鉄山村議定書之事」岡山県西粟倉村大茅公民館保管文書、(鳥羽 1997 374-375 所収)

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鉄山労働者の社会的性格に対しては、1980 年代以降、多くの異議が唱えられている。本節 では、鉄山労働者の隷属性と閉鎖性を指摘してきた見解の根拠を再検討し、その問題点を 指摘する。その上で、専業的労働者の存在形態に関する若干の展望を試みる。

まず、向井(1955)が労働者を隷属的なものとしてとらえた根拠は、労働者に対する前 貸し銀の未進と累積する貸銀の存在などであり、借金奴隷的にみなす確たる根拠は示され ていない。一方、今井(1955)は、経営者の異なる山内へ移動する際に必要な「放シ手形」

に、移動先の経営者がその労働者の負っている貸銀を肩替りする記載があることを借金奴 隷とみなす根拠としている。さらに、今井は『鉄山必用記事』(下原 1784)の「鐵山師相 勤むるべき心持の事」の項にある「山子、月に米三斗も請さる者は、用に立てず也。」およ び「小炭焼、月に米一斗五升も請さる者、用いず也。」という記載をもって、債務奴隷的状 態に労働者を置くために、経営者がより多くの米を貸付けようとしていたとも論じた。し かし、同項には、経営者自らが質素倹約の姿勢を労働者たちに示し、労働者の借金をなる べく抑えることが必要であると記されている。借金を累積させ、労働者を借金奴隷の状態 に追い込んだとする見解との矛盾はあまりに大きい。今井の引用した部分は、山内に木炭 を売り込んでくる村方の住民のうち、製炭量の少ない者とは取り引きすべきでないことを 指摘していると理解すべきである。

つぎに、労働者を経営者に所有される奴隷と論じた武井(1957)の根拠のひとつは、労 働契約の証文に「孫々に至るまで永代御召し遣い下せらるべく候」と記載されていること にある。この見解に対する宗森(1988)の指摘は、「前貸しを踏み倒して逃亡する欠落人の 続出のみられたことを考え合わせると、鉄山師としては、あえてこのような文言をもって、

労働者の確保につとめなければならなかったのではないか」との一文に集約されている。

武井の見解にしてもその論拠は乏しい上に、第1章で述べたように、同氏はのちに別の見 解を示している。

一方、山内と労働者の閉鎖性も、多くの研究者によって指摘されてきた。ところが、そ の史料的根拠が厳密に示されることはあまりなかった。そのような中、広島藩による嘉永 元年(1848)「鉄山格式」8の「諸商人山内入込させ申させざる事御条目にも之れある通り」

および「地下近所の場所たりとも地下人を山内へ引込み申さず、また山内の者地下へ出で 申さざる事」といった記載は、鉄山の閉鎖性を指摘するものとしてよく紹介されてきた。

しかし、『鉄山必用記事』の「條目の覺」には「願わず他行禁制の事、持参到家歩行等にて

8 嘉永元年「鉄山格式」、(向井 1954b 所収)

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も。」、「親類者たり共、二夕は泊めさせ申す間敷き事。」、「酒賣商人一宿叶わず事。附たり、

諸商人衆、米持参仕らずは一宿叶わず事。」などとある。同様に、宝暦 13 年(1763)の播 磨国千草村天児屋山(現・兵庫県宍粟市千草)に関する史料9の一部には、

火の用心第一、山内のものの村方通り候節、くわへきせるともし火、并に火縄の火 共堅く無用の事

山内のもの用事これ有り、村方へ罷り出で候共、用事済み次第罷り帰るべき候、一 夜にても無断一宿仕り間敷く候事

伊勢参宮西国順礼并に他国遍路其外何方へ罷り出で候とも、出立の五日以前元小屋 へ願ひ出で、断書を以て村方御役人中へ御披露下され御聞き届け成し下され候

などとある。18 世紀中頃における播磨国の鉄山労働者は村方を通行し、来訪もしていた。

そして、事前の届け出があれば村方に泊まることや、伊勢参りなど他国に行くことも可能 であったことなどが記されている。これらの記載をみても、鉄山と村方の間にあるのは制 限であって、交流の禁止ではない。そして、山内の稼業にあたって経営者と村方との間に 結ばれた各地の議定書類を収集・検討しても、村方との交流を完全に禁じたものはみあた らない。

その上、石見国那賀郡雲城く も ぎ村(現・島根県浜田市金城か な ぎ)庄屋の岡本甚左衛門は、文政 3 年(1820)4 月、鉄生産による収益を原資とした同村七条原の新田開発を浜田藩に願い出 ている(金城町誌編纂委員会編 2003 379-427)。多数の労働者を召し抱え、大鍛冶の合間 に新田開発にもあたらせようというこの計画は、同年 6 月に藩から許可された。その結果、

翌年 4 月、七条原には、周辺の村方より入植した百姓と各地の山内から流入した鉄山労働 者から構成される竈数 22、人数 81(男 47 人・女 34 人)の「新開所」が形成されている。

そして、同年(1821)9 月には、七条原の百姓と鉄山労働者の両者に対して、「七条原開 地所百姓並鉄山方之申渡覚」が出されている。この 31 か条からなる申し渡しは、切支丹御 禁制や賭博御法度など、村方に出される一般的な内容を多くふくみ、鉄山労働者と村方住 民の交流を妨げるような記載はまったくみられない。新田開発を目論んだ庄屋による大鍛 冶経営という特殊な事例とはいえ、この申し渡しは村方の住民と山内の関係を見直すため の一材料として特筆すべきものである。

9 宝暦 13 年「口上一札之事」、(宇野 1966 14-17 所収)

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さらに、村方の住民が非技術系を中心とする労働に深く関与していたことは、第1章で 述べたように、武井(1972)によって実証されている。砂鉄や木炭、労働者用食料を山内 へ搬入し、鉄製品を搬出する主体も、村方の住民である。山内の周囲に設置された矢来は、

山内の閉鎖性を象徴するものとして理解される傾向にあった。しかし、1770 年代の『淘鉄 図』10に描かれた「鑪場全景」には、矢来を設置する理由は「猪・鹿・狼の難を防」ぐた めと明記されている。

以上のことを勘案すると、山内と鉄山労働者の性格を閉鎖性に求める見解は容認できな い。しかも、次項で検証するように、労働者集団は流動性を帯びたものとして認められる のである。

2.労働者集団の流動性

元禄 12 年(1699)の安芸国山県郡加計か け村(現・広島県山県郡安芸太田町加計)の蔵座山 にいた 62 人の鉄山労働者は、石見・安芸・備後・出雲の 4 ヵ国、9 ヵ所の山内から入山し ている(武井 1959)。同様に、寛政 3 年(1791)の同郡戸河内村(現・安芸太田町戸河内)

の政ヶ谷山などに従事する石見国出身の労働者の出自を記した記録(戸河内町編 1995 391-396)や、弘化 2 年(1845)の備後国奴可郡竹森村(現・広島県庄原市東城町竹森)の 鉄井谷山など(東城町史編纂委員会編 1991 518-576)、安政 4 年(1857)に近藤家が経営 した伯耆および美作国の 6 つの山内における労働者の出自(武井 1972 158-164)などをみ ても、1 つの山内が他国・他領の各地から入山した労働者によって構成されていることは 明白である。

さらに、労働者が多方面から入山してくる様子は、明治前期の美作国においても見いだ せる(図5-4)。明治 5 年(1872)において、田口村(現・岡山県真庭市美甘み か も)の広ぞう り山には 29 人の、新庄村(現・岡山県真庭郡新庄村)の土用山には 36 人の労働者がそれ ぞれ確認できる。そして、鉄山かねやま村(現・岡山県真庭市鉄山)の間床山には、同 11 年に 27 人の労働者が確認できる。これら 3 つの山内における労働者の出身地は、美作・備中・備 後・安芸・石見・出雲・伯耆の 7 ヵ国におよんでいる。

他方、明治 10 年代後半の美作国上齋原村(現・岡山県苫田郡鏡野町上齋原)では、戸籍 の作成にもれた 39 人の鉄山労働者およびその家族が、経営者である川島平蔵の附籍の形で、

戸籍簿への追加登録を願い出ている。その際に提出された届11によると、労働者の「出稼

10 安永年間『淘鉄図』(東城町史編纂委員会編 1991 49-51 所収)

11 明治 10 年代後半「脱籍之義ニ付願」鏡野町上齋原・森藤家文書

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図5-4 美作国北西部の山内における鉄山労働者の出身地(明治 5 年)

[資料:森本編(1971 13-23)所収史料など]

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地」は、石見 11、備中 10、伯耆 7、備後 4、出雲 3、播磨 2、不明 2 となっている(表5-

2)

労働者が中国地方各地の山内間を広範に移動する存在として認められることは、つぎの 弘化 3 年(1846)の史料12からもうかがえる。これは、上齋原村で稼業されていた代続山 の下代である与惣治と、同村木路山の源兵衛と善右衛門が倉敷御役所に宛てた、鉄山労働 者の性格に関する報告文である。

(前略)鉄山抱えの者素姓の義は、私共召し仕え候もの①何職に寄らず雇ひ入れ候義は、

七月十二月弐季を出替と相定め申し候、②右切合に他山より召し抱え呉れ度由申し出候 節は、其者の素姓承り合ひ、並びに先給貸銀何程貸し渡し呉度段申し出候趣、能々相尋 ね候上、其者元相勤め居り候鉄山稼ぎ人え当方より引き合ひ仕り候得ば、切合出替に付 雇ひ入れ候ても故障これ無き候段、申し答え候得ば、其の砌先給貸し渡し人別引き越し 候節、算目書附差し出し候間、右の者雇ひ入れ候振合に御座候。右申し上げ奉り候③鉄 山働き仕り候ものは、中国八ヶ国の内数年来鉄山働きのみ仕り候者故、何国何村の住人 と申す訳は御座無く候、尤も④数年来召し抱え実躰正路見定め候ものは、鉄山稼ぎ人家 内人別え加え候様のものも間々御座候 (中略) ⑤馴合の鉄山へ迯げ参り足留め仕り 居り候節は、其山へ尋ね参り候節は早速相渡し呉候様に相互約定仕り罷り在り候(後略)

この報告から、いかなる職種であろうと 7 月と 12 月の二季が労働者の「出替」の時期で あること(下線部①)。この二季にほかの山内からの入山を希望する労働者は、その素姓や 前借金の希望額、従事先への借銀の状況を調べ、従事先の鉄山経営者の許可が得られれば 前貸銀を渡し(下線部②)、雇い入れること。中国地方の 8 ヵ国にわたって立地する山内で 数年間働いてきた鉄山労働者には、何国何村の住民というような規定ができないこと(下 線部③)。鉄山経営者の宗門人別に加えられる者もいること(下線部④)。欠落人は元の山 内に身柄を引き渡す約定があること(下線部⑤)などを知ることができる。

これらの記載は、ほかの山内への移動が制度として確立されていること、実際に、居村 を定められないほど、労働者が中国地方各地の山内間を活発に移動していること、労働者 のすべてが経営者の宗門改めを受けていたわけではないことなどを示している。

この「出替」に関しては、『鉄山必用記事』の「條目の覺」に、「抱人出替り二季、東は

12 弘化 3 年「乍恐以書付奉申上候」鏡野町上齋原・三船家文書

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