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第3章 日野川流域の鉄穴流しにともなう水害と対応

第5節 明治期の行政機関および住民の対応 1.明治初期の治水

前節では、江戸時代末期における日野川の治水が、藩の主導による土木工事と鉄穴流し の稼業制限、流域住民の主導によって始まった川浚えを中心として行われていたことを確 認した。しかし、幕藩体制の崩壊は、新たな治水政策の確立を要することになる。

明治 4 年の廃藩置県によって成立した鳥取県は、翌年 8 月、土木工事費用について、従 来の制度に替わるものとして、竈 1 軒につき米 1 升 5 合、村高 100 石につき米 1 升 5 合ず つを徴収する「竈役」を定めた(表3-5)。ところが、翌年 8 月には河川事業の統一的 な法規としての大蔵省番外達「河港道路修築規則」が出された。これに対応すべく、県は 同 8 年 10 月に、工事費の官民割合を 7:3 とする二等河に日野川を、5:5 とする三等河に法 勝寺川をそれぞれ定めた。これによって、治水工事に対する国と地元町村の費用負担の割 合が明確になったのである。

しかし、鳥取県は、同 9 年 8 月から同 14 年 9 月まで島根県に編入された。島根県は、同 11 年 4 月に旧鳥取県域に対しても土木工事費を地価および戸数に応じて課すことにした。

しかし、その 1 ヵ月後に、河川・堤防の修築費を地方税の支弁項目とする太政官布告「地 方税規則」が出された。そこで、島根県は同 12 年 7 月に「河港道路橋梁修築支給規則」を 定めたものの、官費支給の割合をめぐる調整は難航した。島根県会は、同 13 年 7 月に、土 木費には主として地方税を、一部に国からの補助金を充当し、災害時には従来の慣行にも とづいて労働者を集めるよう同規則を改正した。

ところが、同年 11 月、府県土木費に対する官費下渡金を廃止する地方税規則の改正と、

河港道路修築規則の廃止が決定された。そのため、同 14 年 7 月以降、同 29 年 4 月の「旧 河川法」の公布まで、政府による河川に関する統一的な法制度は未整備のままで推移する

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表3-5 明治前・中期における鉱業・河川行政と水害への対応

年月[太陽暦] 政府による鉱業・河川行政と県・住民による水害への対応など 出典 1872(明治 5)年 3 月

同 年 8 月 1873(明治 6)年 7 月 同 年 8 月 1874(明治 7)年 1 月 同 年 6 月 1875(明治 8)年 10 月 1876(明治 9)年 8 月 1878(明治 11)年 4 月 同 年 5 月 1879(明治 12)年 7 月 1880(明治 13)年 7 月 同 年 11 月 1883(明治 16)年

同 年 4 月 1884(明治 17)年 2 月 同 年 4 月 1885(明治 18)年 4 月 同 年 7 月 同 年 8 月

同 年 9 月 1886(明治 19)年 同 年 9 月 1888(明治 21)年 1 月 同 年 1 月 1889(明治 22)年 4 月 1890(明治 23)年 6 月

同 年 1891(明治 24)年 12 月

1893(明治 26)年 3 月 同 年 4 月 同 年 10 月 同 年 10 月 同 年 12 月 1894(明治 27)年 6 月 同 年 8 月

政府 太政官布告「鉱山心得」によって、鉱物の政府所有を規定する。

鳥取県 「棟役(二十日役)」(竃1軒につきのべ 20 人の出精を義務づける)を廃止して、「竃 役」(竃1軒につき米1升 5 合・村高 100 石につき米 1 升 5 合ずつを徴収して土木費に充てる)

を課す。

政府 太政官布告「日本坑法」によって、砂鉄採取に際して申請と課税を義務づける。

政府 大蔵省番外達「河港道路修築規則」を出す。

政府 河川行政を担う土木寮を内務省へ移管する。

鳥取県 小規模の堤防修繕は官費を要求せずに「村繕い」で対処し、修繕の方法は地主に任せ るなど、8 ヵ条からなる布達を出す。

鳥取県 日野川を「二等河」として工事費の官費:民費の割合を 7:3、法勝寺川を「三等河」

としてその割合を 5:5 とした。

鳥取県は、1881 年 9 月まで、島根県に編入となる。

島根県 民費の徴収方法を、因伯両国の地価および戸数に応じて課すことを決める。

政府 太政官布告「地方税規則」によって、地租の 5 分の 1 以内および営業税・雑種税・戸数 割を課す。これによって、河川・堤防の修繕費は地方税の支弁項目となった。ただし、修繕費 については、府県会の決議があれば「旧慣」にもとづいてもよいと翌年に改正された。

島根県 県会で詮議の上土木費を支給する「河港道路橋梁修築支給規則」を定めたものの、そ の後の調整がつかず、「官費」による土木費については「慣例」によって支給することにした。

島根県 「河港道路橋梁修築支給規則」の改正に応じて、法勝寺川の修築費用については地方 税を支給し、「官費」をもって一部を補助することにした。

政府 「地方税規則」を翌年 7 月に改正し、府県土木費に対する官費下渡金の廃止を決める。

この改正と同時に、1873 年の「河港道路修築規則」も消滅することになった。

政府 「区町村会法」を改正して、水利土功会の設立を認める。

鳥取県 「土木費支弁及町村土木補助費支給規則」を制定する。この規則は、日野川の土木費 を地方税負担とし、法勝寺川の土木費の 6 割を町村土木補助費、4 割を地元負担と規定する。

政府 太政官布告第 3 号によって、鉱物土石採取にともなって支障が生じた場合、その事業を 中止させることがあるとした。

岡山県 岡山県会議長の三村久吾が県会に、高梁・旭・吉井川で稼業中の砂鉄採取のうち、土 砂流出の抑制策をとらないものを停止させようとする「砂鉄営業ノ儀ニ付建議」を提案し、可 決された。

8 日に雪解けにともなう増水のため、日野川東岸堤防が決壊する。

1 日に古豊千村の日野川東岸堤防が決壊し、日吉津村などの 6 ヵ村が被災する。

鳥取県 臨時県会は、先月の水害に要する土木費 101,576 余円のうち、半分を地方税から、の こりを国庫補助申請によって支出する決定をした。町村費による土木費は、57,800 円余りと された。

政府 鳥取県の国庫補助申請に対して、40,000 円の補助を行う。

政府 1884 年の岡山県の建議を受けた農商務省は、鉄穴流しの新規営業を認めないこととし た。

24~25 日に兼久堤防と水浜村内の堤防が決壊し、尚徳低地や米子町、日野川東岸が被災する。

政府 鉄穴場への砂留設置や跡地への植林などを義務づけた「砂鉄採取営業取締規則」を施行 する。

住民 会見郡榎原村内の法勝寺川堤防を維持・管理するために、米子町 33 ヵ町と榎原村など尚 徳低地の 12 ヵ村が「法勝寺川堤防修築会議」を開く。

鳥取県 堤防工事の費用補助申請の際、まず所轄郡長または戸長が、町村会または水利土功会 の決議と設計を行い、土木課または所属土木区事務所の検査を経るとある「町村土木施行順序」

を定める。

政府 「水利組合条例」を制定する。これによって、府県営治水事業の地元費用負担を担い、

事業を実現・推進する水害予防組合の設立が法的に初めて認められた。

住民 米子町 2,800 戸、成実村(宗像・日原・長田・石井・奥谷・西大谷・陰田)219 戸、尚 徳村(榎原・兼久)20 戸、五千石村 10 戸が、「兼久堤防水害予防組合」を設立する。

政府 帝国議会において鉄穴流しなどの稼業条件を整備する「砂鉱採取法案」の審議を始める。

政府 「砂鉱採取法」を発布し、4 月に施行する。

鳥取県 町村土木事業河川の法勝寺川に関わる土木費の 6 割を、地方税補助とする。

14 日に兼久堤防が決壊し、日野川扇状地東部の佐陀・精進川なども氾濫する。

住民 兼久堤防における水防活動や、砂鉄採取業の停止および日野川治水費用の国庫支弁請願 などを目的として、米子町住民が「米子町治水会」を設立する。12 月には「日野川砂鉄採取 停止陳情書」を内務省・農商務省へ提出し、砂鉄採取業の停止を訴える。

住民 鳥取県 「鳥取県水災訴難会」を結成し、鳥取県下における水害復旧工事費用の国庫補 助を要望すべく、委員を東京に派遣する。

鉄山経営者 近藤喜八郎による「日野川砂鉱採取業に関する辨妄書」を近藤家の武信謙治が「日 本鉱業学会誌」に掲載し、砂鉄採取業停止の陳情に反論する。

22 日に修築中の兼久堤防が「手戻増破」し、米子町の床上浸水家屋は 1,662 戸に達した。

⑥⑦

⑦⑫

⑩⑬

① 注:水害の被害状況に関するものには,年月に をつけてある。 は対応の主体者を示す。

出典:①鳥取県編(1977)『鳥取県史・近代第 5 巻・資料編』同県 81-469 所収史料。②山本・松浦(1996)。③内田

(1994)。④岡山県編(1906)『岡山県会史・第 1 編』同県。⑤日吉津村編(1986)『日吉津村史・上巻』同村 728-861 所収史料。⑥米子市役所編(1942 1040-1044)。⑦米子市史編さん協議会編(2005)『新修米子市史・第 10 巻・資 料編(近代)』同市 431-434 所収史料。⑧本文の注 29)参照。⑨本文の注 14)所収史料。⑩船越(1950)。⑪加 地(2007)。⑫本文の注 18)352-364 所収史料。⑬表3-6参照。

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ことになる(山本・松浦 1996)。そして、県は原則として国庫補助に頼ることなく、治水 事業を行わなければならなくなった。

同 14 年 9 月に再置された鳥取県は、同 16 年 4 月に「土木費支弁及町村土木補助費支給 規則」を定め、日野川の土木費は地方税負担、法勝寺川の土木費の 6 割を地方税、4 割を 地元の町村負担とした。これにともなって、法勝寺川下流域の町村は、土木費の費用負担 をめぐる調整を求められることになった。

一方、政府は、同 17 年の太政官布告第 3 号において、鉱物土石の採取にともなって国土 保安上重要な樹木を伐採する場合、何らかの支障が生じればその事業を停止させることも あるとした。明治政府による鉱害に対する制度の整備も、始められてはいたのである。

以上のように、明治政府と県は治水・鉱害政策を確立しようと努めてはいた。しかし、

明治前・中期は治水政策の過渡期にあたり、その作業は試行錯誤を重ねた感がある。まし てや、政府による鉱害対策の制度化は緒についたばかりであった。そのような中、同 18 年 4 月には雪解けにともなう増水によって日野川東岸の堤防が決壊し、同年 7 月にも東岸 の 6 ヵ村が水害を受けている。そして、翌 19 年 9 月には、明治期最大の水害が発生する事 態となったのである(前掲

図3-4)。

2.明治中期の治水と水害への対応

同 18 年 7 月水害の翌月に開催された臨時県会は、復旧土木費の総額を 159,300 余円と計 上し、県の負担分を 101,576 円余り、地元町村の負担分を 57,800 円余りとした。そして、

前者の半額を地方税から支出し、残る 50,800 余円については政府への国庫特別補助申請を 行うことによって拠出しようとした。これに対して、鳥取県の経済状況を鑑みた政府は、

当年度限りの特例補助額として 40,000 円を鳥取県に支給している。

翌 19 年 9 月の水害では、兼久土手の決壊による被害総額が 246,338 円に達している。こ の水害に対する復旧工事や費用負担の実態は、記録に乏しく明らかにし得ない。しかし、

地元町村に対して重い費用負担が求められたことは想像に難くない。

一方、農商務省は同 19 年に砂鉄採取業の増設を認可しない方針を決め、同 21 年 1 月に は岡山・広島・島根・鳥取の 4 県に「砂鉄採取営業取締規則」29を施行した。この規則の 最大の目的は、第 1 条に「砂鉄採取場ニ於テ山面ニ在ル砂鉄ヲ含マサル土石ヲ水路ニ流サ ス、必ス土石棄場ヘ移棄スヘシ」とあるように、鉄穴場からの土砂流出を抑えることにあ

29 7 ヵ条からなる全文は、德安(2001c 374-375)に掲載してある。

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