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第2章 鉄穴流しの方法と土地開発

第3節 比重選鉱の方法と技術変化

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第6章で検討する岡山県真庭市鉄山の半田・峪さこ・篠原地区は、旭川水系鉄山川の支流で ある半田川の流域に一致する。笹ヶ山(975m)南麓から流出する半田川流域には、花崗閃 緑岩が分布している。峪地区の北部にある字内鉄穴の水田は、低い支尾根上に位置し、馬 蹄形の畦畔をもっている(

図2-5)。この鉄穴跡地は、採掘した土砂を付近の流水に流

し込み、特別な設備を用いることなく流水の中から砂鉄を選鉱した様子を彷彿させるもの であり、竪穴掘りによって出現した地形改変地として理解できる。なぜなら、この水田は、

文政 13 年の『名寄帳』によって、本田、すなわち近世初頭までに開発された水田であるこ とが判明する5。つまり、この土地で砂鉄が採取された時期は、遅くとも近世初頭までさか のぼることになるのである。当地区では同様の「〇鉄穴」という小字名をもつ本田畑が、

17 世紀中に開発されたとみられる新田畑をふくみつつ多数確認できる。内鉄穴の水田は、

既存の耕地に隣接した土地が砂鉄採取のために堅穴掘りされたのち、切り添え的に耕地化 されたと考えられる。

以上の 3 ヵ所の事例によって、近世前期またはそれ以前の鉄穴流しによる地形改変地の 地形的特色について、その一端を示した。上から下への方向をとる小規模な地形改変方法 では、すり鉢状や溝状をなす浅い小凹地が掘られることになった。そして、土砂の運搬に は主として人力が用いられ、地形改変地と比重選鉱地点は近接する傾向にあった。採掘の 対象となる地形は、自然の小河川に近接した山麓緩斜面や、風化土の豊富な分離丘陵と支 尾根の頂部などであったとみられる。

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図2-5 岡山県真庭市鉄山の峪地区における土地割と小字名

[岡山県美甘村作成 1,000 分の 1「鉄山地区ほ場整備事業平面図」、1980 年測図に加筆・縮小]

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そして、現・岡山県苫田郡鏡野町域に関する寛保 2 年(1742)の史料6では、下齋原村み つこ原山の「かんな場」として、長藤村仁王谷・原口、下齋原村大かやの 3 ヵ所、上齋原 村といが谷山の「かんな場」として、上齋原村平作原・こごろ・ほうそうた・杉小屋の 4 ヵ所が記録されている。その上で「久田下ノ原村より奥は、小かんな場何程と申す限り御 座無く、村々にて川端小川辺り山の谷数ヶ所切流し申し候て、小鉄取り仕り候、悉は承合 申し候事及び難く御座候」ともある。すなわち、吉井川上流域では、2 つのたたらに対し て 7 つの「かんな場」があったほか、河川に近い山の谷を切り流す「小かんな場」が数を 把握できないほどたくさんあったことが記録されている。7 つの「かんな場」における洗 い樋の有無は不明であるものの、「小かんな場」において大規模な地形改変と洗い樋を用い た選鉱が行われていたとは、その記述からみて考えにくい。

つまり、花崗岩類の風化土を人為的に河川に流し、川底にしずめた板状の道具の上でゆ り動かして淘汰する、あるいは莚や笊のようなきわめて単純な道具を用いる砂鉄の採取方 法が、洗い樋型鉄穴流しの成立する以前の近世において、広く行われていたと考えるのが 妥当である。筆者は、このような砂鉄採取法を「原初型鉄穴流し」と呼ぶ。それでは、洗 い樋型鉄穴流しの成立・普及期を、いつ頃とみなすべきであろうか。

近世初頭に洗い樋型鉄穴流しが普及していたという史料的根拠は、先述したようにまっ たくない7。洗い樋型鉄穴流しの稼業が史料によって確実に把握できるのは、18 世紀後半 に記述された「溝を段々に付、水上にて山を切り崩し、此の溝へ流し入れ」るという『陶 鉄図』と、比重選鉱設備を「池川」とよび「乙池」の「洗い樋の長さ三間半」と図解とと もに記す『鉄山必用記事』などである。東北地方の盛岡藩領では、文政 3 年(1820)の『萬 帳』の記載によって、「 磨みがき場所」と称する数段の洗い樋の使用が確認できる。

以上の検討にもとづいて、筆者の見解をまとめると、近世の山砂鉄採取法として説明さ れてきた洗い樋型鉄穴流しの成立・普及期は、18 世紀中ということになる。つまり、高橋

(1986・1989・1991)と窪田(1987 250-259)の見解を、大筋で支持する結果となった。

そして、洗い樋型鉄穴流しが山砂鉄採取の主流となったのちも、原初型鉄穴流しは継続し て行われてきたと考える。

6 寛保 2 年「西々條郡養野村奥津村下齋原村上才原村鉄山聞合セ書上帳」矢吹家文書、(山中一揆顕彰会編 1956 7-9 所 収)

7 土井(1983a・b)は、16 世紀末から 17 世紀にかけての史料を多数引用しつつ、元禄・享保年間(1688~1736)の段 階で、流山(鉄穴場のある山林・原野)・精洗池(洗い樋)・井手敷きなどの所持・利用を内容とした経営上の権利が 成立したと推定している。しかし、この論拠となっている史料には、精洗池の存在を示唆する記述はまったくみられ ない。

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大がかりな比重選鉱設備をもたない原初型鉄穴流しは、中世においても稼業されていた にちがいない。そして、原初型鉄穴流しでは、大量の風化土を必ずしも必要としないこと から、前項で指摘した縦方向への小規模な地形改変が広く行われていたとみられる。とこ ろが、洗い樋を用いた選鉱方法の成立に先行して、横方向への大規模な地形改変が 17 世紀 中頃から普及してきた。この普及によって、選鉱する土砂量がいちじるしく増加し、その 土砂を効率よく選鉱すべく、18 世紀中頃までに洗い樋が考案されるに至ったと考えられよ う。洗い樋型鉄穴流しにおける地形改変では、横方向への大規模なものが中心であったと みられる8

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