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第 2 章 先行研究

2.4 先行研究における意味構造

2.4.1 語彙概念構造(LCS)

語彙概念構造(以下LCS)は,意味構造の骨格となるテンプレートと具体的な意味内容 を表す部分によって構成されている。テンプレートで意味タイプごとの一般な性質を捉 えることができ,意味内容で個々の動詞の意味解釈を表示することができるとされてい る(影山 1996, 由本 2011, Levin & Rappaport Hovav 2011などを参照)。

語彙概念構造が生み出される背景として,語彙意味論(Lexical Semantics, Levin 1985を 参照)と呼ばれる理論がある。語彙意味論とは,動詞がどのような構文を作るのか,そし て,どのような文法的な性質を持っているのか,という統語論と関わる(grammatically

relevant)意味性質を捉えることで,語彙の意味特性を推測するものである。

由本 (2011: 22) によると,LCSでは,動詞の意味の核をなす要素として,<使役>や

<変化>,<状態>などの意味の核をそれぞれCAUSE, BECOME, BE といったプリミ ティブで抽象的な述語として表し,それらを,項を取る関数(例えば,[x CAUSE y])とし て用いることによって,出来事を表示している。例えば,由本 (2011) ではgoは[x MOVE

FROM y TO z]というように表すことができる。killのような,目的語の<状態変化>を

引き起こす<使役>を表すものは(6)のように,より複雑な構造で表されることになる。

(6) [x ACT ON y] CAUSE [y BECOME [y BE [ AT DEAD]]]

原因 結果 (由本 2011: 24)

由本 (2011) などは,このLCSを用いて複合動詞の意味合成を記述する。例えば,「泣 き落とす」のような複合動詞の場合は,(7)のようにV1とV2のLCSが合成されること によって表される。

(7) 泣き落とす:[[xi] ACTCRY] +

[[x'i] ACT ON [y'j]] CAUSE [[y'j] BECOME [BE [AT PERSUADED]]]

[[xi] ACT ON [yj]] CAUSE [[yj] BECOME [BE [AT PERSUADED]]]

BY [[xi] ACTCRY]

(由本 2011: 151)

しかし,複合動詞の分析において LCS のような簡略的な意味構造では説明できない 問題点が多くあり,中でも特に重要なものとして,「意味関係の解釈」と「複合動詞の 適格性」,そして「構成要素にない項の出現」という三点が挙げられる。

まず「意味関係の解釈」についてだが,複合動詞として結合できるV1と V2は特定 の意味関係にあることが知られている(石井1983, 寺村1984, Tagashira & Hoff 1986, 松 本 1998, 姫野1999など)。例えば,松本 (2011) によると,V1がV2の手段や様態,原 因,前提的背景,対象事象(補文)を表すものやV1とV2が並列関係にあるものがある。

我々はある複合動詞の意味を解釈する際に,一体どのような基準によって,二つの動詞 の組み合わせがどの意味関係であるのかを理解しているのだろうか。由本 (2011:

158-160) では動詞の型によってある程度の判断が可能だと述べている。例えば,V1が様態

を表す解釈となるのはV2が表す出来事が何らかの様態を特定することのできるもので あり,その最も典型的なタイプは移動を表す動詞だという。また,V1 が手段を表す場 合は,V2が状態変化を含意する他動詞のものが多い。しかし,由本 (2011: 161) で指摘 しているように,動詞のタイプを見るだけでは不十分で,動詞が表す出来事の典型的な 目的や原因,それによって起こりうる結果や影響などの情報が必要である。由本 (2011)

では具体的に説明していないが,例えば,「食べ残す」という複合動詞はV2が状態変 化を含意する他動詞だが,<食べることによって残す>という手段―目的型の意味を表 すものではなく,<食べるという行為によって物体を無くし得る状態において,(そう しないで)それを存在させ続ける>という意味を表し,本研究の背景―具現型に当たる ものである。このような例は,動詞のタイプだけではV1とV2の意味関係を理解する には不十分なものであると言えよう。

次に,そもそもなぜ「叩き壊す」は成立する組み合わせであるのに,「*撫で壊す」は成 立できないのか,つまり,実在する複合動詞とそうでないものは何によって決まるのか,

という「複合動詞の適格性」の問題点がある。LCSに含まれている情報だけでは,なぜ

「叩き壊す」が存在する組み合わせで,「*撫で壊す」や「*舐め壊す」,「*吸い壊す」

などが存在しないのか,ということを説明できない。「叩く」が表す動作は「壊す」が表す 動作を達成する手段として認められるのに対し,「撫でる」は「壊す」の手段と成りえない。

一見当たり前のようなことだが,従来の意味構造ではこの判断を支える情報が含まれて いないのが現状である。

同様に,「蹴散らす」「食い散らす」「脱ぎ散らす」などにおいて,これらのV1は

<結果として対象が散乱する>ことは論理的に含意されておらず,単に「起こりうる」結果の 一つでしかない。LCS は,論理的に含意される結果のみを含むため,なぜ「蹴散らす」「食い 散らす」「脱ぎ散らす」が存在する組み合わせで,「*握り散らす」「*運び散らす」「*こすり散らす」

が存在しないのかを説明できない。

また,語彙意味論は「項の実現(argument realization)」という,動詞の項が句構造にお いてどのようにして表されるのかということを探求することがその理論の背景にある。

そのため,影山 (1996) や由本 (2005, 2008) などで用いられている LCS では付加詞と して具現化するような情報は意味構造に含まれていない。しかし,複合動詞の項形成や 意味形成を説明するには項の情報だけでは不十分である。例えば,次のように,複合動 詞の構成要素の項ではないものが,複合動詞全体の項構造として実現する場合がある。

(8) a. 太郎は全国のラーメン屋を{食べ歩いた/*食べた/*歩いた}。

b. 太郎は仲間と三宮のバーを{飲み歩いた/*飲んだ/*歩いた}。

「食べ歩く」や「飲み歩く」などにおいて,複合動詞全体の項は構成要素の項としては 実現しないものである。

従来の語彙意味論などのアプローチでは我々人間が持っている文化や社会,世界につ いての知識を意味から排除し,統語論と関わる意味性質,いわゆる中核的意味(core

meaning)しか語の意味構造に含めなかった。しかし,本節で見てきたように,複合動詞

の結合可能な組み合わせとその意味形成について適切な説明を与えるには,ある動詞が 表す動作とそれを理解するために必要な背景知識を含む豊かな意味構造が必要である。