5. 海辺と荒野の民主主義
5.3. 祭司の始祖
5.3.3. 民の大祭司
103
104 その根拠の第一のものは、「神が、われわれに共通の先祖を与えることにより、この地位 を共有のものとしたから」というものである。すなわちコラとモーセとアロンは共に、一 人の族長の末裔という点において平等である、というのだ。これは部族単位に基づく機会 均等の原則である。
第二の根拠は、「ここにいる大衆のすべてが、実は同じように名誉を受ける資格をもって いる」から、というものである。すなわち、大祭司職はすべての人々のなかから選ばれる べき、ということである。そのためにアロンは財産高を問われることなく公職に就けてい る、とモーセは主張する。これはコラの寡頭制を否定する主張である。秦は適切にも、モ ーセの台詞のなかの「だれでも(トン・ホミロン・パンタ)」という語に注目し、「アテー ナイのアルコーンの選出の光景が思い起こされます」と述べる205。民主制を樹立したアテナ イ国において、アルコン(アルコーン)は財産高や生まれを資格基準とされずに「各部族 から順繰りに抽籤で任命」される(AP 55. 1)。この点でコラ物語のモーセは民主主義に傾い ている。
では、民主的な選出方法について、そして立候補制についてはモーセはどのような見解 を持っているのか。大衆の決議を経ずして大祭司が任命されることがあってはならない、
という意見にはどう応じるのか。大祭司の任命権は誰のものなのか。
ところが神は、ご自分に奉仕する祭司としてアロンを選ばれた。われわれはこの点に は何の責任も負っていない。アロンは現在の名誉ある職を手にしたが――もちろん、
それはわたしの好意からではなく、神の判断による――、今それをその職にふさわし いと思っている人に広く開放しておまえたちの選択にまかせようと申し出ている。
(中略)たとえ彼がおまえたちの決定によって、再びそれを維持することになっても
――われわれは、神が一度与えられたものがおまえたちの好意によって再び彼に与え られると信じている――、彼の願いは、その名誉を手にすることではなく、おまえた ちの不和を解消することである。
(AJ 4. 28-30、秦訳)
ここでモーセはまず、アロンの第一回目の選出(AJ 3. 188-192)が神の任命によることを思 い出させ、自らが関与していない点を強調する。そこでは大衆の意志は反映されていない ことを認める。重要な点は、コラが告発するまで、大祭司職の選出にいかなる人間も関わ っていないということである。
そこでモーセは、大祭司の再選任には、「おまえたちの選択」、「おまえたちの決定」、「お まえたちの好意」を取り入れよう、と提案する。そして、「それをその職にふさわしいと思 っている人に広く開放して」みようと言って、立候補を認める。モーセは、コラと一般大 衆の要求を受け入れているのである。ただし実際に選出するのは神である。
205 秦剛平『書き替えられた聖書』(京都大学出版会、2010年)、252頁。
105 神は再び、おまえたちに代わって神に犠牲を捧げ礼拝の儀式を司る者を指名される
(κρινεῖ)であろう。なぜなら、この聖職に野心をもつコラのために、意中の者を指 名する神の権利が否定されれば、恐ろしいことになるからだ。(中略)コラよ、おま えも神の選びの審判(τὴν κρίσιν)を受け、その判断にしたがわねばならない。(中略)
おまえはこの特権を手にしたがっているが、とにかく神の判断(αὐτοῦ ... ψηφοφορίαν)
を受けねばならない。
(AJ 4. 31-33、秦訳)
ここでモーセはコラに、神に(τῷ θεῷ)その判定を(τὴν κρίσιν)委ね(παραχώρησον)、神 が投票するのを(ψηφοφορίαν)待て(μένε)、と命じている。大祭司を指名する権利は神も 有しており、それが剥奪されることがあってはならない、とモーセは言う。第二回目の大 祭司の選出の方法の特徴は、神による判定(κρίσις)と投票(ψηφοφορία)である。神は選 挙制度に巻き込まれているのである。では具体的にそれはどのように実行に移されるのだ ろうか。
モーセは、コラの仲間二五〇人に対し(AJ 4. 21, 25)、集会(ἐκκλησία)への参加を呼び 掛ける。そこでは資格審査(δοκιμασία)が行われ(AJ 4. 54)、大祭司が一人選出される。そ の集会には大祭司職の係争者たちだけではなく、それを見物する大勢の人々(τό πλῆθος)
も参列する(AJ 4. 35-36)。
明朝この場所へ集まったら、すべての民の見守る中で(ἐν φανερῷ παντὶ τῷ λαῷ)薫香 を た き な さ い 。 そ し て 、 神 が も っ と も 喜 ば れ る 薫 香 を 犠 牲 と し て 捧 げ た 者 が
(θυμιωμένων ὑμῶν οὗπερ ἂν τὴν θυσίαν ἡδίω κρίνειεν ὁ θεός)おまえたちの大祭司に選 ばれるのだ(οὗτος ὑμῖν ἱερεῦς κεχειροτονήσεται)。
(AJ 4. 34、秦訳)
これを聞いて「人びとはようやく騒ぎをおさめ、彼にたいする疑惑をといてその提案に同 意した」(AJ 4. 35)。
秦訳は後半部のヒューミーン(ὑμῖν)を「おまえたちの」と訳し、この資格審査で選ばれ る大祭司が、民に所属する、あるいは民のために職務を行う大祭司となる、という意味を 伝える訳文としている。Thackerayもそれをyourと解し、he shall be your elected priestと訳す
206。 Feldman訳はそれとほぼ同じ意味でfor youと解し、he shall be eleceted for youと訳す。
ここで私はそれらの訳を若干改め、「おまえたちによって....
(by you)」と訳すことを提案し たい。するとこの文は、神に承認された薫香を捧げた者が、すなわち民によって選ばれた 大祭司となるだろう、という内容となる。神の審査が民による挙手選出の代わりとなる、
206 Thackeray trans., Jewish Antiquities, Books I-IV, p. 493.
106 ということである。
なぜ私がこの訳の可能性を指摘するのかというと、これより前に、コラが民全員の総意 による選出を提言し、民がそれに同調し、モーセもそれを受諾し、民の決定にもとづく大 祭司選出を行おうと約束しているからである。それでもしここでのヒュミンを「おまえた ちによって」と訳すことが許されれば、神権制とも呼べる神の審判を民主主義的な選出へ と翻訳しよう、あるいはすり替えようというモーセの苦肉の策が強調される。そのように 理解するとき、これより前に人びとが「ようやく騒ぎをおさめ、彼にたいする疑惑をとい てその提案に同意した」、という説明の筋もとおるであろう(AJ 4. 35)。人々は、モーセの 論理、ないしは方便に説き伏せられ、民を主体とする選出方法がヘブル人の国制に採り入 れられたと安堵しているのである。
しかし、依然としてモーセは民に投票権、選出権を委ねない。「神は再び、おまえたちに 代わって」大祭司を指名する、とモーセは言う(AJ 4. 31)。コラは――他の人びともそうで あるが――「神の選びの審判を受け、その判断にしたがわねばならない。自分が神よりす ぐれているなどと思い上がってはいけない」(AJ 4. 33)。モーセは大衆の判断を信頼してい ないように見える。
だがモーセは民主主義を否定しているのではない。そもそも「ここにいる大衆のすべて が、実は同じように名誉を受ける資格を持っていると思っている」と宣言したのはモーセ である(AJ 4. 25)。モーセは民に、自分たちが自ら大祭司を選出したのだという達成感を提 供しなければならない。民の自立心の芽を摘んではならない。モーセは強いられてではあ るが、ヘブル人の国を少しずつ民主制へと導いているのである。
神が実質的な審査官となるものの、その審査を民が目撃することにより、民が選出の主 体となるこの審査会を、『ユダヤ古代誌』は「大祭司の審査(τὴν τῶν ἱερέων δοκιμασίαν)」と 呼んでいる(AJ 4. 54)そこで用いられている単語ドキマシア(δοκιμασία)は『アテナイ人 の国制』でも、役人の審査という意味で用いられている。同書第55章によれば、アルコン、
バシレウス、ポレマルコス、テスモテタイといった重要な公職の候補者も資格審査
(δοκιμασία)を経て就任する(AP 55. 1-5)。「なぜなら抽選(οἱ κληρωτοὶ)であれ挙手によ る 選 挙 (οἱ χειροτονητοὶ) で あ れ 役 人 に 選 任 さ れ た 者 は 、 す べ て 資 格 審 査 を 受 け た
(δοκιμασθέντες)のち役に就く(ἄρχουσιν)からである」(AP 55. 2)。
資格審査では、候補者は市民としての資格を問う質問に答えた後(AP 55. 3)、「もし誰も 異議を申し立てようとしなければ、ただちに投票にかける」(AP 55. 4)。もし異議が唱えら れれば、弁明の機会がその者に与えられた後、評議会(ἐν τῇ βουλῇ)による「挙手採決(τὴν
ἐπιχειροτονίαν)」と、民衆法廷(ἐν τῷ δικαστηρίῳ)による「投票(τὴν ψῆφον)」という二段
構えの判定が下される(AP 55. 4)。「そして以前には〔誰も異議のない場合〕一人だけが投 票していたが、今日では候補者についてかならず全員が採否の投票をするきまり……」と なっている(AP 55. 4)。
107 この制度では、三十歳以上の負債のない民衆の中から抽選で選ばれた者たちが裁判員と して最終決定権を握っている(AP 63)。『アテナイ人の国制』に記されている資格審査につ いて橋場は次のように解説する。
抽籤であれ選挙であれ、およそ公的に選任された役人はすべて、就任するまえに一種 の面接試問を受けねばならない。これを資格審査ド キ マ シ アという。(中略)重要なのは、ここ で試されたのが役人としての専門知識・技能・適性などではけっしてなく、あくまで 立派な市民かどうかということであったことだ。だから資格審査は、われわれの知る 公務員試験とはまったくことなる。(中略)一人前の市民であれば、役を務めるのに 必要な程度の教養は身につけていて当然というのが、アテネ市民の共通の認識だった のだ207。
コラ物語におけるヘブル人もまた、民衆を審査員とする資格審査によって大祭司を選出 しようとしている。この資格審査の開催に合意するのは、コラ、民、モーセ、アロンであ る。彼らの発言はいずれも、少なくとも表向きは、民衆に最終決定権を委ねることを認め ている。コラは寡頭主義者ではあるが、「人びとの総意にはか(って)」大祭司を選ぶべき とする(AJ 4. 15)。コラに煽動された民は、大祭司を「推薦する権限は人びとに与え」られ てしかるべきだと主張する(AJ 4. 23)。モーセは「ここにいる大衆のすべてが、実は同じよ うに名誉を受ける資格をもっていると思っている」と発言した上で(AJ 4. 25)、民によって 挙手選出された大祭司を生み出そうとする(AJ 4. 29-30, 34)。アロンも「その職にふさわし いと思っている人に広く開放しておまえたちの選択にまかせようと申し出ている」(AJ 4.
29)。このように、『ユダヤ古代誌』のコラ事件は、荒れ野におけるヘブル国家の民主化へ
の進展の過程に位置付けられている。
ただしモーセは民衆が大祭司を直接選出することは許さず、民による選出という名目で、
実質は神による選出を執り行う。それゆえ、この資格審査が終わった後も民の不満が鎮ま ることはない。モーセは引き続きヘブル国家の民主化という流れに向き合わねばならない。