4. ゲルーシアの物語
4.2. ゲルーシアへの従順
4.2.2. ゲルーシアと国事決定権
63 174)。
モーセはこう答えた。娘たちが同じ部族の者と結ばれれば、遺産を持って夫のもとへ 行く。しかし娘たちが他の部族の者と一緒になれば、遺産は父の部族に残される、と。
こうしてモーセはそのとき、各人の遺産は自分の部族に残すべきであると規定した。
(AJ 4. 175、秦訳)
モーセの国制には、「各人の遺産は自分の部族に残すべきである」という大原則が存在す る。その原則を揺るがすことなく、家父長を失った女子の権利とその家の財産を守るには どうしたらいいのか。この問題にモーセ自身が取り組んでいる。ルツの縁者のような遺産 目当ての人間の強欲によって彼女らの権利と財産が侵害されることがあってはならない。
こうして、「娘たちが同じ部族の者と結ばれれば、遺産を持って夫のもとへ行く」という規 定が作られる。
アルコンが、寡婦の権利を守ることをその職責とするように、ルツ物語のゲルーシアは 寡婦の権利を守ることを目指している。
『アテナイ人の国制』第 3 章によれば、アルコン、ポレマルコス、バシレウスが分け持 つ諸権限はかつては王にまとめられていた。したがって、それぞれの役職の司法権は、王 の司法権が継承(devolution)された結果なのである166。それゆえ、同書第42章以降で描か れる、民衆政を確立したアテナイ国においてアルコンが女子相続人や孤児に関する訴訟を 扱うとき、それは太古の王の役割の側面を再演していることになる。
それと似て、ゲルーシアの司法権もモーセに遡り、ゲルーシアはモーセがかつて裁定し た遺産訴訟の原則を踏襲する。それだけではなく、ゲルーシアは女子相続人に対するモー セの関心も継承しているのである。先に進んで見るように(本稿 5.1.1 参照)、荒野のモー セは王としての役割を負っている。ボアズがベツレヘムでゲルーシアの代理として、ある いはゲルーシアとしてルツの訴訟を扱うとき、彼は、荒野の裁判官としてのモーセの役割 を再演しているのである。ゲルーシアは荒野の王モーセの遺産なのである。
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4.2.2.1. 条約締結
ゲルーシアには、他の国との契約の成立を承認する権限がある。エリコに潜入したイスラエル人 のスパイたちが、そこの住人とある契約を取り交わした後に、幕舎に戻ると、「ヨシュアは間諜たちが ラハブとの間に交わした誓約を(τὰ ... ὀμοθέντα)大祭司エレアザルとゲルーシアの長老たちに(τῷ ἀρχιερεῖ Ἐλεαζάρῳ καὶ τῇ γερουσίᾳ)報告した(φράζει)。両者はこの誓約を(τὸν ὅρκον)承認した
(ἐπεκύρουν)」(AJ 5. 15)。スパイの報告はヨシュアに提出されるが、ヨシュアはその誓いの効力を 独断で認めるのではなく、大祭司とゲルーシアにそれを提出している。そして最終的にその誓いは 大祭司とゲルーシアによって承認される。ヨシュアだけでは、重大な決定を下すことができないの だ。
また、ギベオン人がイスラエル人と友好関係を結ぼうと、接触してきたとき、ヨシュアが彼らを信じ て(πιστεύσας) 、同 盟条 約を結 ぶ 。そして、「大 祭司エ レアザ ルとゲルー シアの 長老た ちは
(Ἐλεάζαρος ὁ ἀρχιερεὺς μετὰ τὴς γερουσίας)、今後彼らを友人あるいは同盟者として扱い、彼らに いかなる不正も企まないという誓約を与え(る)(ὄμνυσιν)」(AJ 5. 55)。しかしこれで手続きは完了 せず、最後に、「人びと(τοῦ πλήθους)もそれを承認した(ἐπισυναινέσαντος)」(AJ 5. 55)。ここではヨ シュアと大祭司とゲルーシアに加えて、大衆も意思決定に参与している167。国事決定はゲルーシア と大祭司とヨシュアによって独占されているのではない(本稿4.2参照)。
しかし後になってギベオン人が嘘をついていたことが判明する。「このためヨシュアは大祭司エレ アザルとゲルーシアの長老たちを集めた(συνγκαλεῖ)」(AJ 5. 57)。先に結んだ条約と、立てた誓約 の有効性を問うためである。ゲルーシアの判断は、「誓約は誓約としてあくまで尊重し、ギベオン人 を奴隷として生かしておこう」というものである(AJ 5. 57)。ここでゲルーシアは誓約を破ることのない よう、かつ助けを求めてきた外国人を救済できるよう、知恵を絞っている。そして、「ヨシュアは人び との意見を尊重して彼らを奴隷にした」(AJ 5. 57)。ヨシュアは彼らの決定(δικαιούντων)を実行に 移すのである。ここでもやはり、ヨシュアは単独で裁定を下すのではなく、ゲルーシアと大祭司の合 意と承認を得ている。
4.2.2.2. 土地の配分
土地の分割の会議は、ヨシュアと「大祭司エレアザルとゲルーシアの長老たち」そして
「部族長たち」とによって決められている(AJ 5. 80)。ここでもヨシュアは独自の判断を下 さない。土地の分割という国家の重大案件は、ゲルーシアを抜きにして決定されることは ない。またそれぞれの部族の代表者の存在が無視されることもない。
4.2.2.3. 内戦の阻止
ルベン族とガド族、そしてマナセ族がヨルダン川の岸に独自の祭壇を建立したとき、ヘ ブル国に内戦の危機が生じる。彼らが祭壇を築いたという知らせを耳にした残りのヘブル
167 この誓約はダビデ王の時代にも効力を維持し、サウル王がそれを破ったために、ヘブル人の国土が飢饉 で荒廃する(AJ 7. 295)。
65 人は、「それがいかなる目的で建てられたか、という真意も確かめず、反乱のためとか異教 の神々を入れるためとかいう噂だけに耳を貸し、ついにそれらの中傷を信じ込んで武器を 取った」のである(AJ 5. 101)。ここでの民は中傷を信じてしまうという点では愚かである かもしれないが、法の遵守や祭儀に対しては厳格であろうとしている。
彼らはヨルダン川を渡り、祭壇を築いた者たちを父祖たちの慣習を侵害したとして処 罰し、復讐しようとした。彼らはその人びとが近親者であることや、祭壇を築かせた 人びとの身分のことを考えず、ただ神の意志かどうか、どうすれば神の意志にかない 神が喜ばれるかを考えた。こうして怒りにかられた彼らは遠征に出発しようとした。
(AJ 5. 101-103、秦訳)
ここでは同国人に対する戦争という重大な国事行為が、何らの調査も裁判も行われずに民 衆の怒りによって決断されようとしている。
しかしヨシュアは大祭司エレアザルやゲルーシアの長老たちとともに彼らを制し
(ἐπέσχε αὐτοὺς)、話し合いで(λόγοις)兄弟たちの真意を(αὐτῶν τῆς γνώμης)確かめ
(ἀπόπειραν)、彼らの意図が(τὴν διάνοιαν αὐτῶν)悪質なものであれば(μάθωσι)、そ のときは武力に訴えるように忠告した(συμβουλεύοντες)。
(AJ 5. 103、秦訳)
この記事において、大衆は噂と中傷を信じ、ただ神の意志にかなうことしか考えない無垢な者た ちとして描かれる。彼らは法律遵守に熱心であり、神に服する意志も固い。だが思慮に欠ける。そ して激情的であり、「怒りにかられ(る)」。彼らの判断はある面では合法的かもしれない、しかし公平 性に欠けるのである。「彼らはその人びとが近親者であることや、(中略)人びとの身分のことを考え」
ない。
他方、ヨシュアと大祭司エレアザルとゲルーシアは、相手の「真意」と「意図」を汲み取ろうとする
(AJ 5. 103)。それでもなお戦争を起こそうという民の判断は保留される。ゲルーシアは杓子定規に 裁きを下すのではなく、真意をはかることができるのである。結果として、内乱は回避される(AJ 5.
114)。ゲルーシアの公平な判断がヘブル人の間にとどまるかぎり、ヘブル人は平和に暮らすことが できるのである。
ここでゲルーシア以下の指導者たちは、聞き取り調査の実行を決定しているのではなく、民にそ うするよう助言(συμβουλεύω)している。『アテナイ人の国制』において助言や勧告は、提議として何 ら か の 決 議 を 経 た 後 に 実 行 に 移 さ れ る 。 た と え ば ア リ ス テ イ デ ス が あ る 案 を 「 勧 告 し た
(συνεβούλευεν)」際、アテナイ人はこの勧告に「従(った)(πεισθέντες)」とされる(AP 24. 1-2)。勧告 する側とされる側の関係において、前者の側に決定権や権力が偏っているのではない。内戦の危 機に直面したゲルーシア以下と民の間にも同じことが言える。
66 ヨシュアの臨終の言葉を聞くのは、「町々の主だった者たちや(τοὺς ἐπ’ ἀξιώματος μάλιστα
τῶν πόλεων)、指導者たち(τὰς ἀρχὰς < ἀρχή)、ゲルーシアの長老たち(τὴν γερουσίαν)」、そ
して「大ぜいの人びと(τοῦ πλήθους)」である(AJ 5. 115)。ここでモーセの国制において規 定されている役職は二つ、すなわち統治者たちとゲルーシアである。興味深いことに大祭 司はここには含まれていない。ヨシュアの死の際にはまだ指導者とゲルーシアが機能して おり、ヨシュアが持っていた国事の裁定権はこの二つの役職に委譲されるはずである。だ が、ヨシュアの死後、この二つの役職は廃れてしまう。
以上で概観したことを踏まえると、ゲルーシアの活動が最盛期を迎えるのはモーセの死 後の時期であると言える。重要な国事上の判断はゲルーシアの承認を経て下される。ゲル ーシアは民の暴走を抑制し、内戦による国家の滅亡を水際で回避する。ギベオン人との間 の同盟条約締結の際には、大衆もその決定に参与している。ヨシュアの治世中はゲルーシ アと大衆の関係は良好である。ゲルーシアがうまく機能しているかどうかの判断の指標は、
ゲルーシアの権限で万事が決定されているか否かではなく、ゲルーシアと民がいかに協調 しているかどうかである。しかしヨシュアの死後にこの均衡のとれた両者の関係が破綻し 始める。すなわち、モーセの政治的な遺産が損なわれるのである。