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アレオパゴス会議の歴史

ドキュメント内 第一例:『バッカイ』と人民寺院 (ページ 48-52)

4. ゲルーシアの物語

4.1. アレオパゴス会議の歴史

『アテナイ人の国制』のアテナイ国の民主化の歴史は、王制が貴族制に道を譲ることで 始まる138。民主化に至るプロセスは同書第41章にて十一回の変化として要約されている(本 稿3.1 参照)。変化の回数が重なるにつれ、アテナイ国は民主主義の色合いを強めていく。

その推進役として、クレイステネスやエピアルテスという民衆指導者が登場する。民衆指 導者はアテナイ国制史のあらゆる段階に姿を現し、民会や民衆裁判所の設置などを手段と して民衆に権力を供給しつづけ、「今日まで続く国制(τὴν νῦν οὖσαν πολιτείαν)」(AP 41. 1)、 すなわち民主国家の最終形態を達成する139。こうした民衆改革者の働きにより、民会の決 定が権威を持つようになる。

民衆は自分たちの権限を大きくし、第42章に到達するために、いくつかの障壁を乗り越 えねばならない。たとえば、四〇〇人政府の寡頭制や(AP 32. 1-2)、三〇人政府の僭主制が それである(AP 34. 2; 35. 1, 4)140。また民衆はアルコン集団や五〇〇人会議の大きな権限 も克服しなければならない141。そしてアレオパゴス評議会(ἡ τῶν Ἀρεοπαγιτῶν βουλή)もま たそのような民主制の対抗馬の一つなのである。

同評議会はアテナイ国の最初期の国制(ἡ πρώτη πολιτεία)の構成要素の一つである(AP 3.

1-6; 4. 1)。ソロン登場以前の時代のアレオパゴス評議会の権限については次のように書かれ

ている。

アレオパゴス評議会は、諸法が守られているか監視するのが本来の職務であったが、

国事のうち大部分のまたもっとも重要な事柄を(τὰ μέγιστα τῶν ἐν τῇ πόλει)管掌してお り、秩序を乱す者すべてに専権により懲らしめかつ刑を科していた。というのもアル コンは名門で富裕な者から選任されており、アレオパゴス評議員はこのアルコンから 任命されたからである。それゆえこの役職だけは唯一現在でも任期終身のままである。

(AP 3. 6、橋場訳)

アレオパゴス評議会は法の番人であり(φύλαξ ἦν τῶν νόμων)、役人が法に従って職務を 遂行するよう監督した。不正を受けた者は、どの法に反して自分が不正をこうむった かを示せば、アレオパゴス評議会に弾劾裁判を起こすことができた。

(AP 4. 4、橋場訳)

これらの節ではアレオパゴス評議会の権限の大きさが強調されている。「アレオパゴス評 議会とは、ローマでいえば元老院にあたる貴族の長老会議である。(中略)貴族政時代から

138 Rhodes, A Commentary of the Aristotelian ATHENAION POLITEIA, p. 107.

139 J. J. Keaney, “The Structure of Aristotle’s ATHENAION POLITEIA,” Harvard Studies in Classical Philology, vol. 67 (1963), pp. 138-139.

140 Ibid., p. 134

141 Ibid., pp. 130-131.

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「法の番人」と称して役人の違法行為や国事犯を裁く権利などを掌握していた」142。アレオ パゴス評議員の資格はアルコン出身者であったと書かれているが、それがアテナイ国の民 主化の過程にとってどのような意義を持つかについて、橋場は次のように解説する。

アルコン(執政官)はやはり貴族以来存続する九人の最高位の官職で、(中略)筆頭 アルコンとポレマルコス、およびバシレウス(宗教行政担当官)と六人のテスモテタ イ(司法担当官)からなる。彼らは、当時まだ社会の上位身分からしか選ばれていな かった。だからそのOB会議であるアレオパゴス評議会は、いきおい少数貴族の政治 的拠点として隠然たる勢力を誇ったのだ。これを潰さなければ、真の民主政の実現は 永久に望めない。143

また役人を選ぶ権限もアレオパゴス会議は有していた。

従 来 は (τὸ ... ἀρχαῖον) ア レ オ パ ゴ ス 評 議 会 が 独 断 で 人 を 呼 び 出 し て 選 定 し

(ἀνακαλεσαμένη καὶ κρίνασα καθ’ αὑτὴν)、適任者をその年の各役職に〈割り当て〉任 命していたのである。

(AP 8. 2、橋場訳)

これらの引用箇所を読む限り、アレオパゴス評議会の権限を制限するものはないかのよ うに見える。

同書第41章においてアレオパゴス会議は、全十一回の国制の変転のうち第六番目の位置 を占めている。「第六はペルシア戦争後の国制で、アレオパゴス評議会の指導によるもの

(ἐπιστατούσης)であった」と述べられている(AP 41. 2)。同じ出来事について、「ペルシア 戦争後、アレオパゴス評議会がふたたび権限を強化し(πάλιν ἴσχυσεν)、国家の統治に当た った(διῴκει τὴν πόλιν)」とも説明される(AP 23. 1)。その結果、「アテナイ人は同評議会の 権威に服し(παρεχώρουν)、この時代にも善き政治を行った(ἐπολιτεύθησαν Ἀθηναῖοι καλῶς)」 という(AP 23. 2)。アレオパゴス評議会の権威には民衆指導者も一目置いており、民衆指導 者ペイシストラトスは、殺人のかどでアレオパゴス評議会に呼び出され、そこに出頭して いる(AP 16. 8)。

ところが同評議会は、同書第42章のゴールに向かって権力を増強していく民衆とは対照 的に、漸次的に衰退していく。『アテナイ人の国制』はアレオパゴス評議会の権力の弱体化 を叙述しているのである。同評議会の退歩に反比例するかのように、他方では民衆の勢力 が増大する。一方の衰退と他方の興隆が、『アテナイ人の国制』では展開される144

ペルシア戦争後に権力を回復させたアレオパゴス評議会は民衆の擁護者の攻撃の対象と なる(AP 23. 3)。大衆により多くの役職を分配することを企図する民衆指導者たちは、この

142 橋場弦『丘のうえの民主政』(東京大学出版会、1997年)、49頁。

143 同書、49頁。

144 Keaney, “The Structure of Aristotle’s ATHENAION POLITEIA,” p. 134.

49 同評議会と対峙せざるをえない。

さてペルシア戦争後およそ一七年間は、少しずつ堕落していったものの、なおアレオ パゴス評議員の指導する国制が存続していた。だが大衆の力が増大していった結果、

清廉で政治に公正であると評判が高かったソポニデスの子エピアルテスが民衆の擁 護者となり、同評議会を攻撃した。まず彼はアレオパゴス評議員の多くを職務遂行に 関して裁判にかけることで排除した。しかるのちコノンがアルコンの年〔前四六二年

/一年〕、国制の守護者たる地位の根拠となっていた付加的権限を同評議会からこと ごとく剥奪し、一部は五〇〇人会議に、他は民会と民衆裁判所に与えた。

(AP 25. 1-2、橋場訳)

ここで民衆指導者たちがアレオパゴス評議会の権限を策謀によって奪い、それを民会と 民衆裁判所に、すなわち大衆に分け与えている。この出来事を橋場は次のように要約する。

エフィアルテスとペリクレスは政変を起こす。そしてアレオパゴス会議から、殺人な どごく一部の事件の裁判権をのぞくすべての政治上の実権を剥奪し、民会・民衆裁判 所および五百人評議会といった民主的諸機関に分け与えたのである。あざやかな一撃 であった。政変の具体的な経緯はよくわかっていない。ともかく結果としてアレオパ ゴス評議会は、かろうじてその存続は認められたものの、以後政治の重要な場面から は姿を消したのである。この大きな事件を、エフィアルテスの改革と呼ぶ。かくして アテネ民主政は名実ともにその骨組の一応の完成を見る。いわゆる完全民主政ラディカルデモクラシー

の時代 が幕を開けたのである。145

同会議の権限を削ぎ落とした歴代の民衆指導者の名を挙げれば、ソロン、ドラコン、ク レイステネス、ペリクレス、エフィアルテスとなろう。対アレオパゴス戦線の歴史は、民 衆が万事について自ら主となるプロセスであり(AP 41.2)、それは、民衆の支配する、決議 や裁判によって達成される。

ソロンによる改革では、アルコン職の選出に予選と抽籤という二種混合の選定方法が取 り入れられる。それまでアルコンは「門地と富とに基づいて」選任されていた。そのアル コンが、抽籤という民主的な方法で選ばれるようになる。アレオパゴス評議会の構成員は アルコン経験者であったため、アルコンが抽籤で選出されることで、アレオパゴス評議会 の貴族的な側面が弱体化される。

上に引用した『アテナイ人の国制』第 3 章では、アレオパゴス評議会は法律を擁護する のと同時に、「国事のうち大部分のまたもっとも重要な事柄は管掌しており、秩序を乱す者 すべてを専権により懲らしめかつ刑を科していた」と述べられている(AP 3. 6)。ところが

145 橋場弦『丘のうえの民主政』(東京大学出版会、1997年)、50 頁。

50 次章では、同評議会の権限は、役人の弾劾裁判に限定されている(AP 4. 4)。そこでは法の 存在が確認されており、アレオパゴス評議会の権限は法によって規定される146。ドラコン が「掟」を発布することにより、それまでの、際限のない貴族の政治および司法の権能が 規制されるようになったということである147。アテナイ国が民主化へ歩を進めるたびに、

アレオパゴス評議会の権限は弱体化する。

他方、アレオパゴス評議会の復権は(AP 23. 1)、民主制の進展の歯止めとなる(AP 23. 1)。 それゆえに、ペルシア戦争後のアレオパゴス評議会は、「民衆の擁護者」エピアルテスによ る攻撃の標的となるのである。

先述のように、同評議会は、エピアルテス、ペリストクレス、五〇〇人評議会といった 民主主義者の集中攻撃に遭い、「国政監督の権限を(τῆς ἐπιμελείας)奪われた…」(AP 26. 1)。 アレオパゴス評議会という足枷から完全に自由になったアテナイ国の国制は、「その後」、

「熱心に大衆扇動にいそしむ政治家たちのせいでますますたががゆるんでいった」(AP 26.

1)。「アテナイ人は国政を行うに当たり、他の点では何事も、もはや以前のように法を遵守 することをしなくなっていた…」とも記述される(AP 26. 2)。アレオパゴス評議員の権威縮 小は、扇動家を先頭とする民衆運動加速化の要因でもあるのだ。アレオパゴス評議会によ る支配の後の時代については次のように描写される。

その後ペリクレスが民衆指導者となり、若年にもかかわらずキモンの将軍職の執務審 査で告訴人を務めてはじめて名声を得ると、国制は前よりさらに民主化する結果とな った。なぜなら彼はアレオパゴス評議員から権限の一部を剥奪した上に、なかんずく 国家を海軍拡充に向かわせた結果、大衆は自信をつけ国家の全支配権をますます掌握 したからである。

(AP 27. 1、橋場訳)

アレオパゴス評議会の弱体化に伴って「大衆は自信をつけ(る)」。

以上のように漸次的に権限を民衆指導者によって剥奪された結果、最終的にアレオパゴ ス会議の権限は、かなり縮小されてしまう。『アテナイ人の国制』第 42 章以降で描かれる 新生アテナイ国におけるアレオパゴス評議会の権限は次の通りである148

殺人と傷害に対する私訴は次の通りである。まず故意に人を殺しあるいは〔殺意をも って〕傷つけた場合、その裁判はアレオパゴスで行われ、また毒を盛って人を殺した 場合、放火による場合も同様である。アレオパゴス評議会が裁く事件はこれ以外にな い。

146 K. von Fritz, “The Composition of Aristotle’s Constitution of Athens and the So-called Draconian Constitution,” p.

87.

147 伊藤貞夫『古典期アテネの政治と社会』(東京大学出版会、1982年)、66頁。

148 アレオパゴス評議員の構成員は抽籤ではなく選挙で選ばれ、往時の貴族的な側面をわず かに残す(AP 57. 4)。

ドキュメント内 第一例:『バッカイ』と人民寺院 (ページ 48-52)