7. まとめ
7.1. 指導者との離別
131 を下すべきか判断に窮したときは」、モーセではなく、「大祭司、預言者、そしてゲルーシ アの長老たちが合同して審理し、適当と思われる判決を宣告しなければならない」と規定 される(AJ 4. 218)。モーセは民に自分の権限を委譲しながら徐々に政治から退場するので ある。
アテナイ国の原初の国制が王制であったように。モーセが国制をもたらす前の荒野での ヘブル人の国は、王たるモーセの単独支配体制下にある。エジプト脱出後間もないヘブル 人にとって、指揮官はモーセだけである。『ユダヤ古代誌』第2巻において、幼児のモーセ は、エジプトの王から「王冠をもぎとり、(中略)それを地面にたたきつけ、両足で踏みつ けてしまった」(AJ 2. 233)。それは「エジプトの王国が転覆する」予兆である(AJ 2. 234)。 その予兆の通り、モーセはエジプトの王によって象徴される王制と独裁制を転覆させる。
それは単にエジプトの王を海に沈めることによってではなく、自らの権威を民に分与する ことによってである。モーセは自ら王位を退くのである。
132 ろう、という意味の文を作っている225。神の配慮は今後も示されるという安心を与える言葉 である。しかしもし「制限する」を字句通りに訳し、「確立する」という肯定的な意味に解 するなら、この一文はどうなるであろうか。神はここに至って――少なくとも現時点では
――ヘブル人に対する配慮を確かなものにするつもりはない、という文へと変換される。
神の直接的な保護を今となってはもう期待することはできない、という悲観的な内容であ る。モーセは別の箇所で、カナンの地に入る民に対して、神が「今後もおまえたちのため になお心遣いをして下さる(μελήσει)」と保証するが(AJ 4. 318)、しかし心遣いすること
(μέλω)と配慮を確立することとは異なるであろう。
私はここで正しい訳文を決定するつもりはない。しかしモーセとの離別に伴い、神の保 護も今までのように期待できないとする展開は、これまでの物語の進行に矛盾しない。な ぜなら荒野においてモーセと神は二人三脚で民を指導してきており(AJ 4. 317)、モーセな くして神の直接的な介入は望めないからである。
Attridgeによれば、摂理という単語は『ユダヤ古代誌』においては神だけでなく、モーセ
をはじめとする「人間の指導者たち」を主体としても用いられる(AJ 2. 329; 3. 13)226。し たがって、神とモーセの指揮が一体であるとき、神とモーセの摂理もまた一心同体である。
旅の終わりとともに、ヘブル人はモーセと神という二人の指導者の保護を同時に失うので ある。しかし(ἀλλ’...)人々が徳を追い求めるならば、神はたとえ今までのように直接に統 治はしてくれなくとも、配慮(προμήθεια)は示してくれるであろう。
神の直接的な関与の終わりを示唆するモーセの発言はこの他にもある。
貴族政治とその下で送る生活こそ最上のものである。おまえたちは他の統治形態の政 治を望んだりせずに、律法を指導者とし(δεσπότας)、すべての行動を律法で律しなが ら、この統治原理に満足しなければならない(στέργοιτε)。神もおまえたちの統治者 たることに満足されているからである(ἀρκεῖ γὰρ ὁ θεὸς ἡγεμὼν εἶναι)。
(AJ 4. 223、秦訳)
この発言の前半部では人々の自律の必要性が説かれている。そして最後の一文において そうすべき理由が説明されている。それは、神が民を統治することに満足しているから、
というものである。
引用箇所の後半部に現れる語、「満足する」と訳しうるアルケオー(άρκέω)には、それ で打ち止めとするというニュアンスが込められる(AJ 1. 163, 307; 138)。何かが飽和してい
225 Thackeray tarans., Jewish Antiquities, Books I-IV, p. 565は “God … will not at this point set a term to His providence”と訳し、Feldman trans., Judean Antiquities, Books I-IV, p. 394は“God … will not limit His providence up to this point”と訳す。H. Clementz trans., Jüdische Altertümer: Völlständige Ausgabe (Wieswaden: Marix Verlag,
2018), p. 175も「神は(中略)おまえたちからご自身の保護を取り上げることはないだろう( “Gott ... wird
euch seine Fürsorge nicht entziehen”)」と訳す。
226 モーセが『ユダヤ古代誌』第3巻第13節で「心遣い」に言及するとき、それが神によるものなのかモ ーセによるものなのかあいまいであるという。Attridge, The Interpretation of Biblical History, p. 71.
133 る状態を表すのである(AJ 3. 106)。したがってこの一文は、神は民を統治することに飽き 飽きしている、という内容に解すことができる。それゆえに人々は律法を自らの主人
(δεσπότης)とし、その下で各人は自らを統治(πράσσω)しなければならないのだ。神は これまでのように人々を直接に統治してくれない(かもしれない)からである。ヘブル人 はモーセからだけでなく、神からも自立しなければならないのだ。
Feldmanは、ヨセフスが貴族制と言うとき、それは最も優秀な者の支配と同義であり、そ
れゆえに神による支配、すなわち神権政治(theocracy)を含むと解釈する227。Attridge もヨ セフスの言う貴族制とは「神を王とする法による支配」だと解釈する228。たしかに『ユダヤ 古代誌』のモーセにとって.......
神の支配は最も理想的な統治形態である。しかし、約束の地で 樹立される貴族制はもはや神を含まない。モーセが打ち立てようとしているのは神によっ ては構成されない貴族制である。たとえそれが不本意であるとしても。
荒野において神が民の直接統治を断念したということは、後に彼自身がサムエルに語る 言葉の中で示唆されている。「彼らが侮っているのはおまえではなく、わたし一人が支配者 にならないよう、このわたしを侮っているのだ。彼らは、わたしがエジプトから彼らを連 れ出したときから、このことを企んでいた」(AJ 4. 38)。神は荒野で民によって拒絶された と感じ、民を直接支配する気が失せたということである。
7.1.1. 失楽園の意味
だが、人の神の支配からの独立、離脱は荒野に始まったことではない。すでに太古の楽 園において人は神の支配から離れているのである。アダムとエバが楽園で神の命令に背い て知恵の木の実(τὸ φυτὸν τῆς φρονήσεως)を食べたとき、彼らは神の統治から解かれる。
わたしはおまえの運命を、いっさいの不幸にわずらわされず、また、おまえの魂を悩 ますような心遣いも全く必要としない、至高の生活を送れるように定めておいた。お まえにとって楽しみや喜びとなるいっさいのものは、わたしの配慮によって、たとえ おまえがそのために努力したり心を労したりしなくとも、おのずから生まれてくるは ずであり、またそのような贈り物のおかげで老年もたやすくはおまえに追いつけず、
おまえは寿命の長い生活を送ることができるはずであった。しかし今やおまえは、わ たしの命令に背き、わたしのこの目的を愚弄してしまった。なぜなら、おまえが沈黙 しているのは徳のためではなく、罪の意識のためだからである。
(AJ 1. 46-47、秦訳)
知恵の木の実を食べたアダムとエバは、神の配慮の外に置かれることになる。それゆえ に彼らは至福の生活を自己の苦労によって手に入れなければならない。
227 Feldman, Josephus’s Interpretation of the Bible, p. 145.
228 Attridge, The Interpretation of Biblical History, p. 139.
134 だがそれは必ずしも不幸や破滅を意味するのではない。そのことはその後の世代の暮ら しぶりを観察すればわかる。アダムの子アベルは「正義を尊重し、自分のいっさいの行動 には神がついていると信じてつねに徳行を心がけていた」(AJ 1. 53)。アベルの兄弟セツと その子孫の暮らしについては次のように描写されている。
彼は、育てられて分別のつく年齢に達すると、徳行の修練を心がけて卓越した人物に なった。そして彼の生き方を手本としてまねた子孫を残して死んだ。その子孫は有徳 な者ばかりで、同じ土地に住んでも不和や紛争を起こさず、それぞれが繁栄して、そ の生涯を終えるまで、運の悪い出来事に遭遇する者は一人もいなかった。(中略)七 代の間、これらの人びとは神を世界の主であると信じ続け、すべての判断は徳を基準 にしていた。
(AJ 1. 68-69, 73、秦訳)
アダムとエバの失楽園によりたしかに人類は神の直接の統治、すなわち神権政治から離 れてしまう。しかしそのことによって彼らが不幸のどん底に陥るのでも希望を失うのでも ない。彼らはそれぞれが、皆、徳のある人物となることにより幸福を獲得するのである。
彼らは神による直接の支配には服せなくとも、「自分のいっさいの行動には神がついている と信じ」、「神を世界の主であると信じ続け」る。その結果彼らの政治は成功する。「同じ土 地に住んでも不和や紛争を起こさず(後略)」と書かれている通りである。
7.1.2. 禁断の実の意味
そもそも、アダムとエバが食べた木の実は知恵の木の実(τὸ φυτὸν τῆς φρονήσεως)である
(AJ 1. 37, 42-43)。その実には「善と悪(τἀγαθοῦ καὶ κακοῦ)を識別する力(τήν ... διάγνωσιν)」 が宿っていた(AJ 1. 42)。神はアダムとエバに「もしそれに触れると、彼らの身の破滅にな る」と警告する(AJ 1. 40)。しかし『政治学』によれば、善悪を識別することこそが、人間 を「ポリス的動物」たらしめるのである。
だが、人間が何ゆえ、あらゆる蜂やあらゆる群集性の動物よりもすぐれた意味でポリ ス的動物(πολιτικὸν ... ζῷον)であるかは、明らかである。(中略)動物のうちで人間 だけが言葉(λόγον)をもっているからである。(中略)しかし、言葉は利害を、した がってまた正・不正を表明する役目をもっている。なぜなら、まさにこのこと、つま り人間だけが善・悪(άγαθοῦ καὶ κακοῦ)、正・不正(δικαιοῦ καὶ ἀδίκου)、その他を感 覚(αἴσθησιν)するということこそが、他の動物と対比される固有の特性だからであ る。そして、これら善・悪や正・不正などをまさに共有することから、家も国家(ポ リス)も形づくられるのである。
(Pol. 1. 1253a1-20、神崎訳)