2.1 日韓両国語の命題とモダリティをめぐって
2.1.1 日本語の陳述論からモダリティまでへの道程
上述したように日本語においてモダリティと命題は共に文を構成する 2 大要素である。
元々は英語学(一般言語学)で用いられる概念であったモダリティは、日本語研究史を辿ると、
山田孝雄の「陳述」、時枝誠記の「詞・辞」、三尾砂の「主観的表現・客観的表現」、芳賀綏「モ ドゥス」、寺村秀夫・三上章「コト・ムード」、渡辺実「陳述・叙述」、仁田義雄「言表態度・言 表事態」などがモダリティと類似の概念だと判断される。その中でも山田孝雄が提示した
「陳述」という用語と概念を契機として、「文」とは何か、どのようにして文が成立し・認識 されているのか、「文」の定義はいかにあるべきかなどについて、大久保(1968:257)が「陳述
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論争」と命名したほどに、多くの学者の間で論争が起こることとなった。いわゆる陳述論争 は、日本語のモダリティの特徴を理解し、我々の所与の議論にあたって不可欠であると考え るために、以下に纏めて概観する。
山田「陳述論」
山田(1936)によると、文の本質は述語の統合にあると定め、その職能により語を体言、
用言、副詞、助詞に4分類する。その中でも用言はすべての品詞の中でもっとも重要なもの であり、用言の用言たるべき特徴は統覚(統一)の作用、即ち「陳述の力」をもつこと、つまり 述語になれることであるとして、以下のように述べている。
「一の語又は語の数多の集合体が、文とするを得る所以のものはその内面に存する思 想の力たるなり。惟ふに思想とは人の意識の活動にして種々の観念が、ある一点に於 いて関係を有し、その点に於いて結合せられたるものならざるべからず。而してこの 統一点は唯一なるべし。意識の主点は一なればなり。この故に一の思想には必ず一の 統合作用すべきなり。今これを名づけて統覚作用といふ。この作用これ実に思想の命 なり。この統覚作用によりて統合せられたる思想の言語といふ形にてあらはされたる もの即ち文なりとす。」(山田 1936:901)
山田(1936)の陳述の概念を纏めると、述語のあらわす「陳述」とは思想上、主位概念と賓 位概念との対比により存立することを先在の条件として、その二者の関係が異か同かを明ら かにするための精神的作用の言語的発表であり、文には単一なる思想が必要であると主張し ている。この単一なる思想とは一の統覚作用によって統括されるもので、陳述作用とは話し 手の判断・断定であり、一の句は一回の統覚作用が行われるということを示す。
山田は「文」構成の単位として「句」を設定し、単文は一つの句であり、一回の統覚作用に より組織された思想の言語上の発表である(1936:917)としているが、山田の句は文の成立す る素を意味するものであるため、山田の「陳述」は文ではなく句レベルの問題になり、句と文 の違いが明確に規定できていないことになる。
さらに「句」を「述体の句」と「喚体の句」に分け、述体の句は命題になれる二元性を有する 句、述格を中心に構成されたもの、例えば「山田は学者だ」であり、喚体の句は直感的な一元 性の句、情意を投射する、呼格を主成分としてたてるもの、例えば連体格の「妙なる笛の音 かな」といったものである(1936:936-938)と規定したが、後に時枝(1937)、三宅(1937)、三 尾(1939)からの批判の種になる。
19 橋本進吉の「文の外面的形態」
橋本(1934:18,22)では、「言語は音聲によって、思想を表はすものである。一定の音聲 に一定の思想が結び、その音聲が思想を表はす符號となり、その音を聞けばその思想を浮か べ、その思想が思ひ浮かべばその音を發し得るといふやうになって初めて言語が成立つ」と 音声を思想の投影とした。さらに文においても音を重視し、以下のように述べている。
①文は音の連続である。
②文の前後には必ず音の切れ目がある。
③文の終わりには特殊の音調が加はる。
橋本の「文」の定義は山田が文の内面的意義について語った点と対比され、文の外面的形 態に重点を置いていると言える。
時枝誠記の「言語過程説・詞辞非連続説」
時枝(1937)においては、言語は分裂総合によって展開する思想の流れを、これに対応す る音声あるいは文字を媒材として、これを文節的に線條的に外部に表現する所の心的過程の 一形式であり、思想の外部的表現である人間の言語は何等かの統一的表現を目指していると、
文の統一性を強調した。また、文の本質は、意味内容と意識作用との合体融合からなる思想 の表現で、思想は概念過程を含む「詞」と概念過程を含まない「辞」の相互結合により表現すべ き異質の要素であると述べた(時枝 1937:1772)。しかし時枝の所謂「詞辞非連続」でいう概念 過程を経たか経ていないかのような二者択一の考え方は、命令形「行け」のように詞と辞が共 存するようにみえる中間物の位置づけが困難になり、後年に至り三宅武郎・大野晋・渡辺実 により「詞辞連続説」に発展する。
時枝は山田文法の文においての統覚(統一)作用に賛成しつつも、山田文法でいう喚体句 に対する概念(呼格助詞に陳述作用を与えたこと)、述語としての用言においての「属性」と
「陳述」の関係の問題(時枝は陳述は「零記号の辞」を含む辞によって担われるとし、用言に陳 述はないものと考えた)を挙げ、「陳述論争」を引き起こした。
時枝(1937a,b)は文の条件として①具体的思想の表現であること、②統一性があること、
③完結性があることの三つを挙げている。
三宅武郎の「詞辞連続説の先駆者」
三宅(1937:77)では、山田(1936)の「陳述論」でいう用言の連体形においての陳述の力につ いて、「完全に陳述をなせるものにあらず(三宅 1937:77)」と述べ、「花咲く樹」または「花の
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咲く樹」においては主位概念と賓位概念の対立統合や陳述の力が行われていないのではない かと疑いを示した。また三宅は、「行く。」「行く?」「行く!」の用例からこれらが違った意味 を表せるのはイントネーションによるものだと指摘し、陳述の範囲を用言からイントネーシ ョンにまで拡大させた。さらに三宅は、節(山田でいう句)に陳述の力が加わって文になる、
陳述は節より上の、文を成立させるものであるとした。
三宅は動詞の語幹が属性概念(意義)の宿るところ、語尾が陳述の力の宿るところとし、
辞(主体表現)に当たるサマは、助詞にも副詞にもあらわれるが最も顕著なのは用言の活用語 尾にあらわれるサマとし、このような用言の活用語尾にあらわれるサマを「ムウド」(現代で 言う「ムード」)と呼ぶ。このような考え方は時枝の「詞辞非連続説」に対する批判「詞辞連続 説」の先駆となる。
三尾砂の「断定作用」
三尾(1939:66)は、山田(1936)の陳述作用なる概念の中に二つの相違なる概念(「陳述作 用」と「陳述の力」)が混在していることを批判した。つまり山田の「統一作用=陳述作用」とい う概念について、「統一作用」と「陳述作用」は別個の独立的作用であるとし、さらには用言一 語のみ統一作用を担うことに疑いを持ち、「統一作用は瞬間的に一語にのみ宿るものでもな ければ、一文に於いて所々に断続して働くものでもない。最初より最後まで連続する流れで ある。仮に用言が統一作用に最も多く関与するとしても、それと、用言にのみ統一作用があ るとする事とは別である(三尾(1939:72)。」とした。このように三尾は統一作用は単語と単 語の分離、連携においても有効であると認めたのである。
三尾は陳述作用を判断の本質をなすもの、即ち断定作用でなければならないとした。
さらに三尾は判断の形勢において、①個々の概念を統一し、統一された全体を形成する 統一作用、②事態と事実の両領域に関わる高次元の統一作用、③成立した事態が対象そのも のの事実に基づくことを断定する断定作用の三つに分けている。統一作用の力を文全体の要 素に拡大したこと、さらに陳述作用を事態と事実関係の断定とすることにより、現代日本語 のモダリティの概念に近い概念として解釈したと言える。
金田一春彦の「不変化助動詞」
金田一(1953:1)は「不変化助動詞の本質」で陳述論、中でも「主観的表現」と「客観的表現」
について論じている。ここで金田一は、時枝文法で言う「詞」と「辞」の概念を否定し、主観的 表現に用いられる語は文の末尾以外に立ち得ないとし、終止形の「う、よう、まい、だろう」
のみが話者の意志・推量を表す主観的な表現になり得る(1953a:10)とした。また「た、だ、
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ない、らしい」のような助動詞は「客観的表現」を表す助動詞であると論じている。そして、
用言が客観的表現のほかに主観的表現をも兼ねるという山田の用言の「陳述作用」を批判し、
命令形以外の用言は事態を純客観的に表現している(1953a:17)と規定した。更には時枝文法 で高い評価を得た丁寧形「です、ます」においても、聞き手に対する敬意を表す助動詞という より社交的場面に用いられる文語体であり、客観的表現である(1953b:31)とみている。金田 一の以上のような主張は現代日本語においては事態(命題)を客観的なものとし、それ以外の 副詞、文末表現、終助詞などを主観的と認めているのと比べ、多少隔たりを感じる。
松下大三郎の「感動詞」
松下(1928:625)では、日本語には「ね」、「な」をつけるような「了解の共鳴に関する感動 態」があるとし、「言語から感動態を除いて談をしたならばそれは全く片言である。到底聞く に堪えないとし、文法学の目からみると欧州語にはそういう嫌いがある。この点に於いて日 本語は人情語兼知能語であって欧州語は専ら知識語である、この「感動態」こそ日本語の特色 である」と述べた。
松下(1930:49)においては、日本語の品詞を名詞、動詞、副詞、副體詞、感動詞に5分類 し、「あゝ」、「おや」、「おい」、「はい」の類を感動詞と称した。彼は感動詞以外の名詞、動詞、
副詞、副體詞の四種はみな概念を表すもので、概念は人の心意に存する主観的現象であると 同時にこれに対する客観的存在が予想されていると述べられている。彼は「おや」、「はい」の ように、自己だけで他詞の補助を受けなくても一つの断句をなすものを実質感動詞といい、
「なお」、「ねえ」などを実質的意義を概念詞(名詞、動詞、副詞、副體詞)に譲り、自己は唯形 式的意義だけを表すものとし、形式感動詞とした。文においての感動詞、終助詞の役割に目 を向けたことは讃えるべきである。しかしながら、名詞のみならず動詞、副詞にも客観性を 認めている点、彼の言う動詞が助動詞を認めず、現代日本語において助動詞として認められ ている「らしい」を特殊動助詞(接尾辞)としている点は、現代日本語のモダリティ研究におい て副詞、動詞、助動詞、終助詞などが話し手の主観的な領域に属する点において認められに くい。
芳賀綏の「モドゥス」
芳賀(1962:54)は言語記号の運用は主体的表現によってしめくくられて、はじめてセンテ ンスとなり得るとし、主体的表現を「述定のモドゥス」と「伝達のモドゥス」と名づけた。更に これらを「述定文(中核:断定・推量・疑い・意志など、外郭:感動など」と「伝達文(中核:命 令・呼びかけ・応答など、外郭:もちかけなど」に分け、文の外郭に位置するモドゥスを「包