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文法化の観点から見た日本語逆接表現

ドキュメント内 九州大学学術情報リポジトリ (ページ 45-49)

第 3 章 文法化理論について

3.5 文法化に関連する研究の概観

3.5.2 文法化の観点から見た日本語逆接表現

文法化の観点から日本語を分析した先駆的な研究にはMatsumoto(1988)、Onodera(1995、

2004)、Ohori(1998)などがある。逆接の接続表現に言及したのは Matsumoto(1988)と

Onodera(1995、2004)である。

Matsumoto(1988)は、日本語の接続表現を分析し、文法化の一方向性に反する日本語の

例を挙げた。具体的には、逆接接続助詞「が」、「けど」など接続助詞から接続詞に変わる 例である。

3-140

a. 太郎は若いが、よくやる。

b. 太郎は若い。が、よくやる。 (Matsumoto 1988: 340)

例 3-1aでは接続助詞として使われている「が」が、独立性が強まり、例 3-1bでは冒頭で 接続詞として使われている。似たような変化を辿った接続表現として、「けれども」、「だか ら」、「ところで」、「ところが」などが挙げられる。

接続助詞の場合、それらの表現は直接先行する動詞の活用形に付属し、同一アクセント を取る。しかし、接続詞として独立した時点で、自由形態素になり、独自のアクセントを 取ると説明される。つまり、接続助詞は独立していないのに対し、接続詞は独立性が高い と言える。

接続詞の歴史変化について考察した研究によると(第 5 章参照)、独立性の高い接続詞

「が」は、独立性の低い接続助詞から転成してきた。また、「でも」は、「それでも」とい う形式中の、指示詞の「それ」が取れ、「でも」だけで使われるようになったと言われてい る。「それでも」と比べて、「でも」は新たな機能を獲得した。その1つが、譲歩的な意味 を含まない、対照標識としての用法である。「でも」がターンの冒頭で用いられる時、話し 手は常に相手の発話に対して反駁を示している。さらに、「でも」を使うことによって、話 し手は自分の意見や考えを反映する発話を持ち出すこともできる。このような場合、先行 発話と後続発話の間に譲歩的あるいは逆接的な関連性はない。

40 原文はローマ字表記である。

「けれども」は、「けれ」と「ども」の合体から生まれた表現である。接続助詞として登 場したのは 15世紀であった。17世紀になって接続詞として使われるようになった。さら に、17-19世紀の間に、縮約形の「けど」、「けども」もみられるようになった(Matsumoto 1988)。

これらの例はみな、付属的な要素から独立的な要素へという過程を辿っている。つまり、

文法化の一方向性には反例が実際存在しているわけである。

このような変化の原因について、以下の解釈が行なわれている。まず、日本語には接続 助詞が多いという事実がある。そういった環境では、節の冒頭につなぎの言葉が求められ る時、先行する節の末に縛られている接続助詞を取ることが最適な方法だと考えられる。

Matsumoto(1988)はこのような変化が起きたことについて、2 つの要因を指摘している。

それは、日本語が膠着言語であることと、日本語がSOV言語であることという、日本語の 2つの言語特性である。膠着言語である日本語には接続助詞が多数存在している。加えて、

語順が SOV であるからこそ、接続助詞は先行する節の末についていることがほとんどで ある。以上の2つの要因により、接続助詞が接続詞に変わることが可能になったと考えら れる。

従来の文法化の狭義的な考え方では、文法化が進むと言語項目は縮小していく。しかし、

Matsumoto(1988)が考察した表現は、いずれも新しい談話機能を獲得している。これらの

表現は、発話の冒頭に使われる時点から新しい機能を果たすようになる。ターンの始まり で使われるからこそ、後続している談話の特徴をマークすることができる。

Matsumoto(1988)は、Traugott(1982)が提出した Propositional Component > Textual

Component > Component Expressiveという文法化に伴う意味の変化経路は、日本語の接続詞

の変化にも合致すると主張しているが、その妥当性はまだ詳細に検証されていない。そこ で、本研究では、それを実例を挙げながら検証する。

Onodera(1995)は、「—ても」、「—だけど」という従属節末の接続助詞が、発話の冒頭に

現れる「でも」、「だけど」という談話標識へと発達した現象を通時的に考察した。「-だけ ど」が節の末につけられる場合、Ideationalの機能のみを果たしている。それに対して、20 世紀初期、接続詞として文頭に置かれるようになった「だけど」は、Ideationalの機能に加 えて、文と文と繋ぐTextualの機能も示し始め、さらに話者の意見や態度を示すExpressive の機能にまで発達したと主張している。しかし、この解釈では、接続助詞「けど」の前置 き機能や提題用法について説明できない。

Onodera(2004)は、接続詞「でも」と「だけど」について、通時的のみならず、共時的

な面からも分析、議論している。「でも」は、通時的には、節の最後に付く接続助詞(動詞 -て+も)から、文頭に使われる接続助詞にまで変わった。「だけど」に関しては、主に Matsumoto(1988)の主張と一致している。つまり、接続詞「だけど」は接続助詞「けど」

から変わってきた。

Onodera(2004)もTraugott(1982)で提案された文法化経路を使って分析を行っている

が、その中の記述を Traugott の原文と照らし合わせてみると、記述が合わないところが2 箇所ある。1つ目は、“Textual Component”についての記述である。Traugott(1982)は、 “Textual Component”の定義を以下のように述べている。

The textual component has to do with the resources available for creating a cohesive discourse.

These include the various connectives, like but and therefore. (…) These share the property of being directly linked to the unfolding of the speech event itself. (Traugott 1982: 248)

“textual component”はディスコースの結束性を作り出すために利用可能なリソースに関

係する。“but”、“therefore”のような各種接続表現が含まれている。(中略)これらの表現は、

発話自体の展開に直接関連しているという特徴を持っている41

さらに、注8で、次のような補足説明をしている。

Cohesion is here understood to involve intrasentential as well as intersentential connectivity42. This is in accordance with Halliday and Hasan’s initial discussion of cohesion (1976: chap. I) but not with their coding scheme for cohesion, which codes intersentential cohension only (Chap. Ⅷ).

(Traugott 1982: 269)

上記をまとめるならば、“Textual Component”には、文と文の間(intersentential)の結束のみ ならず文中(intrasentential)の結束も含まれるということである。

しかし、Onoderaの説明では、この記述と合わない解釈がみられる。

The textual function is served by “the resources available for creating a cohesive discourse”. In

41 訳は筆者による。

42 下線は引用者による。

Halliday and Hasan, this text-forming function is both inside and “outside the hierarchical”

organization of system” (in terms of sentences and clauses) (1976: 27), i.e. the textual function (and

‘cohesion’) refers to both intrasentential and intersentential relations. In contrast, in Traugott’s works and this study the full-fledged textual function refers only to the intersentential linking function.43

(Onodera 2004: 15)

ここでは、Traugott(1982)によるモデルでの“Textual Component”は文中の結束関係

(intrasentential relations)を含まず、文と文の間の結束関係(intersentential relations)のみ対 象とするという、トラゴットの原文とは異なる記述がみられる。

Onodera のもう1 つの問題点は、逆接接続詞の文法化プロセスの開始段階についての理

解である。Traugott(1982)は日本語の逆接表現には全く言及していないが、6番目の例と して、英語の逆接接続詞“but”を含む接続表現の意味変遷について以下のように述べている。

Many of the conjunctives which make a text cohesive, e.g., but, hence, therefore, instead, whereas, again, originate in spatial terms and deictics (Traugott 1977; …): but comes from butan ‘on the outside’, therefore from there and for… (Traugott 1982: 250)

現代英語で逆接や対照関係を示す接続詞“but”は、もともと「…の外側」という意味を持つ 空間を表す表現であった。この変化の例について、Traugott は“Propositional”から“Textual”

まで変わった例と捉えている。

Example (6), the conjunctives, again illustrates a shift from propositional terms (spatial adverbs) to markers of textual cohesion.… (Traugott 1982: 253)

この主張からは、“but”と同じ品詞である日本語の逆接接続(助)詞「でも」、「だけど」も

“Textual component”に含まれると判断できる。

しかし、Onoderaの記述は原文の主張と噛み合わない。

The ideational44 function seems maintained throughout the course of demo’s history.

43 下線は引用者による。

44 Traugott(1982)では“Propositional”という用語が使用されている。

The textual function asises when the item first emerges in the initial positions in the 18th century.

(Onodera 2004: 111)

接続助詞「-ても」は、節と節の間に存在する“intrasentential text”を作り出す働きをしている ため、Traugottの主張に従えば、これも一種のTextualとして認められうるだろう。

加えて、Onodera(2004)は、「でも」、「だけど」は文体上の違い以外は同じ用法を持っ ていると結論づけたが、この主張にも疑問がある。尾谷(2005)が言及する接続助詞「だ けど」の前置き用法や「終助詞用法」は、「でも」の用法にはみられない。Nishida(2007:

194)も、Onoderaの主張に対して同じ疑問を呈している。Nishida(2007)は、次の「だけ

ど」の例を提示して、両者の違いを説明している。

例 3-2

もしもし僕だけど、今話せますか? 45 (Nishida 2007: 195)

このような例では、「だけど」は「でも」で置き換えできないと指摘されている。

最後に、本研究が補うべき分析として以下の点が挙げられる。Onodera(2004)は、日常 で最も使用されている接続表現ほど語用論的な機能が目立つようになると述べる。しかし、

実際の分析では、使用頻度の低いものとの比較が行われていない。そこで、それを証明す るため、本研究は使用頻度の低い「ただ」も対象に入れることによって、語用論的機能の 度合いと使用頻度との関係について実際のデータを用いて検証する。

ドキュメント内 九州大学学術情報リポジトリ (ページ 45-49)