第1問
平安時代に日本に伝来し広まった密教や浄土教の信仰は,人々にどのように受け入れられていったか。
10 世紀以降平安時代末に至るまでの,朝廷・貴族と,地方の有力者の受容のあり方について,7行以 内で説明しなさい。なお,解答には下に示した語句を一度は用い,使用した語句には必ず下線を引きな さい。
阿弥陀堂 加持祈禱 聖
ひじり寄木造
第2問
次のア〜エの文章を読んで,下記のA〜Dに答えなさい。
ア 室町時代,国人たちは在地に居館を設け,地侍たちと主従関係を結んでいた。従者となった地侍 たちは惣村の指導者層でもあったが,平時から武装しており,主君である国人が戦争に参加すると きには,これに従って出陣した。
イ 戦国大名は,自分に従う国人たちの所領の検地を行い,そこに住む人々を,年貢を負担する者と,
軍役を負担する者とに区別していった。そして国人や軍役を負担する人々を城下町に集住させよう とした。
ウ 近世大名は,家臣たちを城下町に強制的に集住させ,領国内外から商人・手工業者を呼び集めた ので,城下町は,領国の政治・経済の中心地として発展していった。
エ 近世の村は,農民の生産と生活のための共同体であると同時に,支配の末端組織としての性格も 与えられた。
設問
A 室町時代の地侍たちは,幕府・大名・荘園領主たちと対立することもあった。具体的にどのよう な行動であったか。3行以内で述べなさい。
B 戦国大名は,何を目的として城下町に家臣たちを集住させようとしたのか,4行以内で述べなさ い。
C 近世大名は,城下町に呼び集めた商人・手工業者をどのように扱ったか。居住のしかたと与えた 特権について,3行以内で述べなさい。
D 近世の村がもつ二つの側面とその相互の関係について,4行以内で説明しなさい。
第3問
次の文章は,ジャーナリスト徳富蘇峰が,1916(大正5)年,政府のロシアに対する外交政策を支 持する立場から,国民の対露感情を批評したものである。これを読んで,下記の設問に答えなさい。
明治三十七八年役の,大なる収穫あり。そは百年来,我が国民を悪夢の如く圧したる,怖露病を一 掃したること是れなり。(中略)対馬海の大海戦,奉天の大陸戦は,我が国民の自恃心を刺戟し,憂 うべきは,怖露にあらずして,却って侮露たらんとするの傾向さえも,生じたりしなり。(中略)吾 人は漫りに帝国の前途を悲観する者にあらず。されど我が国民が小成に安んじ,小功に誇り,却って 其の当面の大責任を,放却しつつあるにあらざるかを,憂慮せざらんとするも能わざるなり。
設問
A 上の文章に言う「怖露病」がもっとも激しかったのは日清戦争直後のことであったが,その国際 関係上の背景を,2行以内で説明しなさい。
B 「明治三十七八年役」の後,上の文章の執筆時において,日露両国政府の関係は,戦争前とは大
きく変化していた。その変化の内容と理由とを,4行以内で説明しなさい。
解法の研究
第1問
設問の要求は,10 世紀〜平安時代末において密教や浄土教の信仰が朝廷・貴族と,地方の有力者にどのように受容さ れていったか。
注意しなければならないのは「10 世紀以降」に限定されていることである。「平安初期には」などと書き始めてしまう と設問での時期限定を読んでいないと受け取られかねない。
こう書くと,では「密教」が説明できないではないかと思ってしまう受験生がいるかもしれないが,教科書をよく読ん で欲しい。山川『詳説日本史』でも,国風文化のところで「摂関時代の仏教は,天台・真言の 2 宗が圧倒的な勢力を持ち,
祈祷を通じて現世利益を求める貴族と強く結びついた」と書かれているように,密教は 10 世紀以降においても圧倒的な 勢力を誇っていたのである(鎌倉時代も同様)。
まず,密教や浄土教が人びとのどのような期待に応えたのかを確認しよう。
密教 ;平安初期に本格的に導入されて以降,加持祈祷により鎮護国家の役割を担うとともに,病気平癒や安産,立身 出世など皇族・貴族たちの現世利益に応えた。
浄土教;人びとの極楽浄土への往生を約束した阿弥陀如来に対する信仰で,死後における幸福(地獄に落ちることなく 浄土に往生すること)を説く
両者をまとめてしまえば,密教や浄土教は人びとの現世や死後に対する不安に応えたのだと言える。
では,そうした不安が広がった背景は何であったか。
10 世紀〜平安時代末期といえば,律令国家が大きく変質・解体して地方政治・在地の社会秩序が混乱し,そのなかで 荘園公領制成立へ向けた動きが進んでいた。一言でいえば,社会秩序の動揺・再編が進んでいた時代であった。さらには,
地震・火山の噴火・長雨などの災厄や疫病の流行があいつぎ,人びとは死と隣り合せの生活を続けていた(→それが陰陽 道の浸透にもつながる)。一方,仏教の末法思想-釈迦の死後,正法,像法を経て,修行する人も悟りを開く人もいなく なる(釈迦の教えだけが残る)末法の時代が訪れるとする思想-が普及し,当時,1052 年から末法となると信じられて いた。こうしたことが,人びとの社会不安を増幅させていたのである。
さて,密教や浄土教がどのように受容されたのか。
密教 ;朝廷→鎮護国家(護国)の法会や祈祷を行わせる 皇族・貴族の帰依→造寺造仏や荘園寄進
浄土教;市聖空也や源信,さらには各地を遍歴した民間の僧侶(聖)の活動により貴族,奥州藤原氏のような地方の有 力者や庶民に普及。
→浄土教美術の発達
阿弥陀堂建築=藤原頼通の平等院鳳凰堂,奥州藤原氏による陸奥平泉の中尊寺金色堂 寄木造の阿弥陀如来像,来迎図など
【解答例】
律令体制が解体して社会秩序の動揺・再編が進むなか,政変や疫病など災厄が相次ぎ,社会不安が高まっていたこと を背景に,密教や浄土教は広く受容された。密教は加持祈禱によって鎮護国家の使命や現世利益に応え,造寺造仏や 荘園の寄進など朝廷・貴族から保護を受けた。来世での幸福を説く浄土教は天台僧源信や空也など聖の活動により普 及し,貴族や地方の有力者によって阿弥陀堂が建立され,寄木造の阿弥陀如来像や来迎図など浄土教美術が発達した。
第2問
A 設問の要求は,室町時代の地侍たちの,幕府・大名・荘園領主への対立的な行動を具体的に説明すること。
まず,地侍とはどのような存在であるかを資料文アで確認しておこう。そこには2つのデータが示されている。
①国人たちと主従関係を結び,国人に対して軍役をつとめていた
②惣村の指導者層でもあった
そして,ここから次の行動パターンを導き出すことができる。
①→国人たちと軍事行動をともにする
②→惣村の百姓たちと行動をともにする
それぞれ具体的にはどのような行動だったのか。この設問では,幕府・大名・荘園領主との関係においてとられた行動 のうち,それらに対する「対立的な行動」を説明することが求められている(つまり協力的な行動については説明不要)。
① 国人とともに国一揆を結び,大名支配を排除して一定地域の自治を実現した。
② 惣村の百姓たちとともに荘家の一揆を結んで強訴・逃散を行い,荘園領主に対して年貢減免などを求める 広域に結んで土一揆を起こし,自ら徳政実施行動を展開するとともに,幕府に対して徳政令発布を求める B 設問の要求は,戦国大名が城下町に家臣たちを集住させた目的。
資料文イがこれに対応するが,そこでは「家臣」という語が用いられていない。したがって,まず「家臣」とはどのよ うな人々を指すのかを資料文イを使って明確化しておく必要がある。 資料文イでは「自分に従う国人たち」との表現があ るが,家臣とは「国人たち」だけを指すわけではない。「国人や軍役を負担する人々を城下町に集住させようとした」と 書かれているのだから,城下町に集住させられた家臣とは「国人や軍役を負担する人々」である。
ところで,「軍役を負担する人々」とはどのような人々なのか。
在地に居住するもので,国人以外に軍役を負担する人々といえば,資料文アで「平時から武装しており,主君である国 人が戦争に参加するときには,これに従って出陣した」と説明されている地侍を指すものと想像できる。
しかし,資料文イでは注意深く「地侍」という語が避けられている。
もともと地侍とは百姓身分でありつつ武士身分でもあった人々なのだから,「年貢を負担する者」であるとともに「軍 役を負担する者」でもある。そのことを念頭におけば,地侍のなかには「軍役を負担する者」として城下町へと集住していっ た者もおれば,「年貢を負担する者」(つまり百姓身分)として在地に留まった者もいるということがわかる。
この作業を通して戦国大名は,軍役負担を軸として領主-百姓関係を確定しなおそうとしているのであり,いいかえれ ば,兵農分離を推進しているのである。
さらに,領主として把握された「国人」や「軍役を負担する人々」(地侍)は,もともと「在地に居館を設け」(資料文ア),
あるいは「惣村の指導者層」として,百姓に対して直接的な関係をもっていた人々であったが,彼らを城下町に集住させ ることは在地から引き離すということであり,彼らの在地に対する支配力(在地性)を弱体化させるとともに,年貢を負 担する人々=百姓に対する戦国大名の直接支配を志向するものであった。
さて,戦国大名の家臣に編成された「国人や軍役を負担する人々」は,戦国大名が戦争を行うときは「これに従って出 陣した」人々であり,すなわち戦国大名のもとでその軍隊を構成した人々である。そして,城下町とは戦国大名の居城の 回りに形成された町であり,戦国大名の直接監視下にある地域といえる。
ここから,家臣を城下町に集住させることは,軍隊(家臣団)に対する統制を確保するとともに迅速な軍事動員(軍隊編成)
を可能にするという効果をもっていたこともわかる。
C 設問の要求は,近世大名が城下町に呼び集めた商工業者の扱い方に関し,①居住のしかた,②与えた特権について説 明すること。
①について。
城下町には武家地,寺社地とならんで町人地と称される地域が設定され,商人や手工業者はその地域のなかに職種ごと に居住させていた。
②について。
商人や手工業者の集住を促すため,地子銭を免除し,営業の自由を保障するなどの特権を与えた。
そして,このようにして城下町に呼び集めた商人や手工業者は,城下町に集住する家臣団に対して生活物資や軍事物資 を供給することが期待されていた。