第1問
日本に渡来した朝鮮・中国の僧侶や,大陸に渡った日本の僧侶は,7世紀から9世紀にかけて,仏教 の伝播と発展にどのような役割を果たしたと考えられるか。次の⑴〜⑸の文章を参考にしながら,いく つかの段階に整理して7行以内で述べよ。
⑴ 聖徳太子は,595 年に来日して飛鳥寺に住んだ高句麗の僧慧慈から,仏教を学んだといわれる。
⑵ 遣唐使に従って中国に渡った玄昉は,743 年,多くの経典をたずさえて帰国し,吉備真備とと もに聖武天皇の朝廷に重く用いられた。
⑶ 唐僧鑑真は,日本の要請に応じ,いくども渡航に失敗しながら 753 年日本に着き,人々に戒を 授け,また唐招提寺を開いた。
⑷ 804 年,最澄は天台の教えを求めて唐に渡った。同時に渡唐した空海も,青竜寺の恵果から密 教の教えを伝授された。
⑸ 最澄の弟子の円仁は,838 年の遣唐使に従って渡唐し,密教の教えや中国の浄土信仰を比叡山
に伝えた。
第2問
3 世紀におけるモンゴルの対日本戦争に対して,下記の設問に答えよ。
設問
A 二度の合戦(1274 年文永の役,1281 年弘安の役)における日本軍の戦いかたには,モンゴル 軍とくらべてどのような特徴があったか。日本の武家社会の特質と関連させて,下の語句をすべて 使い,3行以内で述べよ。語句はどんな順で使ってもよい。
恩賞 武士団 集団戦 一騎討ち
B 朝鮮半島の国高麗の政府や人民は,この戦争でどのような役割を果たし,モンゴルの対日本戦略 にどのような影響を与えたか。下の文章を参考にして,4行以内で述べよ。
⑴ 1266 年,モンゴル皇帝フビライの外交使節が,日本へ渡るべく高麗に来た。高麗の宰相は使 節にはたらきかけ,対馬を目前にひきかえすよう工作した。
⑵ 1270 年,高麗の軍隊三別抄が,モンゴルに屈伏した王室に対して反乱を起こし,海中の島を ねじろにモンゴル軍・高麗軍に抵抗し,1273 年に鎮圧された。
⑶ 1274 年と 1279 年の2度にわたって,高麗はフビライから日本征討用の軍船 900 艘の建造を 命ぜられ,人民に大きな負担を強いつつ,期日までに完成させた。
⑷ 文永の役には約 6000 人,弘安の役には約1万人の高麗軍(非戦闘員を除く)が,フビライの
命をうけて従軍した。
第3問
次の文章を読み,下記の設問に答えよ。
お奉行の名さへおぼえずとし暮れぬ
伝統的な日本の法意識では,法とは政治的支配者による命令禁止の規範であって,私的権利の体 系ではなかった。(中略)厳命厳禁ばかりを羅列した高札に向かっては,笠などを脱いで礼をするのが,
よい心掛けとされた。こうした社会では,自己を主張することなく,既存の団体秩序に密着し,同一 化するのが世渡りの方便であり,「長きには巻かれよ,太きには呑まれよ」という知恵は根深く残っ た(中略)。
上に掲げた俳句の作者は小西来山(承応3-享保元,1654 - 1716),大坂の人で,この句の前書 きには,「大坂も大坂,まん中に住みて」とある。奉行とはいわば裁判を主務とした行政官,大坂で は東西両町奉行が幕府の権威を代表した。各奉行の名は任命,着任に際して町人に触れられ,町触に はその名を連ねるから,来山も目にし耳にしたに違いない。 (平松義郎『江戸の罪と罰』)
設問
小西来山は職業的な俳人であったが,知らないはずのない奉行の名を「おぼえず」とするこの俳
句は,幕府の権威に対してどのような姿勢を表明していると考えられるか。5行以内で述べよ。
第4問
次の文章を読み,下線部 A,B,C に関する下記の設問に答えよ。
第二次世界大戦が終わってまもなく,A1945(昭和 20)年 12 月,衆議院議員選挙法が改正公布され,
翌年4月,戦後はじめての衆議院議員総選挙が実施された。その結果,第一党となった日本自由党が 日本進歩党との連立内閣を組織した。B 第二次世界大戦前の最後の政党内閣が崩壊してから,14 年 ぶりの政党内閣の復活であった。1947(昭和 22)年5月に施行された C 日本国憲法により,国会 は国権の最高機関となり,議院内閣制が制度化された。こうして,政党政治は国政運営の基本として 確立した。
設問
A このときの衆議院議員選挙法の主要な改正点を2点あげよ。
B 第二次世界大戦前の最後の政党内閣の首相の氏名とその政党名を,ともに漢字で記せ。また,そ の内閣が崩壊した事情,および政党内閣が継続しなかった事情を,あわせて4行以内で説明せよ。
C 大日本帝国憲法下の帝国議会には認められていなかった権限で,日本国憲法により国会に認めら
れた主要な権限を2点あげよ。
解法の研究
第1問
設問の要求は,日本に渡来した朝鮮・中国の僧侶や大陸に渡った日本の僧侶が,7世紀から9世紀にかけて,仏教の伝 播と発展にどのような役割を果たしたか。条件として,⒜⑴〜⑸の文章を参考にすること,(b) いくつかの段階に整理す ることが求められている。
⑴〜⑸の文章をいくつかの段階に整理したうえで(推古朝・奈良時代・平安初期の3段階に整理できる),答案全体の 論旨をどのように組み立てるか-これがポイントになる。
“氏族仏教→国家仏教→貴族仏教” という推移を軸に論旨を組み立ててもよいが(その枠組みは,密教が貴族仏教-皇族・
貴族の現世利益にこたえる-であるだけではなく国家仏教-鎮護国家の役割をになう-でもある点を看過しているところ が難点なのだが),その際,(1) や (2) で仏教理論・経典の研究に関するデータが示されている点に対する配慮を忘れない でほしい。
推古朝 :氏族仏教(氏族繁栄のため・権威誇示の手段)
⑴一部で仏教理論の受容(経典研究)
奈良時代:国家仏教=鎮護国家思想にもとづく→国家の積極的な保護・統制
⑵経典の招来→経典研究の活発化
⑶仏教に関する制度・儀礼(戒壇)を整備 平安初期:
⑷天台宗・密教(新たな国家仏教)の伝来 →政府から独立した教団の形成
⑸浄土信仰の伝来…信仰の対象としての(個人救済の)仏教の導入
【解答例】
仏教は,推古朝には氏族繁栄のための呪術として普及したが,渡来僧を通して理論の受容も進んだ。律令形成期以降,
鎮護国家の立場から朝廷の保護と統制をうけ,そのもとで留学僧が多くの経典を伝え,教理研究を中心とする南都六 宗が成立すると共に,唐僧により戒律がもたらされ戒壇も整った。平安初期には留学僧によって密教や浄土信仰が導 入され,山林修行を基礎に自主的な宗教教団が成立する一方,現世利益や来世での往生を願う貴族に広く普及した。
第2問
A 設問の要求は,蒙古襲来における日本軍の戦いかたはモンゴル軍とくらべてどのような特徴があったか。条件として,
⒜日本の武家社会の特質と関連させること,⒝恩賞・武士団・集団戦・一騎討ちの語句をすべて使うことが求められている。
指定された語句をみれば,集団戦(→モンゴル軍)と一騎討ち(→日本軍)を対比させて答案を作成すればよいことが わかる。
そして “武家社会の特質” との関連が条件として求められていることから,“惣領制にもとづく軍事力編成” に関連づけ て説明する必要があることがわかる(“武家社会の特質” という問い方については 1985 年第2問も参照のこと)。
惣領制…血縁関係にもとづいて武士団を編成
<惣領が一族(庶子)を統率,所領は惣領・庶子で分割相続>
→鎌倉幕府は惣領の一族統率権を保障,それに依拠して軍事動員を確保(所領給付も軍役賦課も惣領を通じて行う)
B 設問の要求は,高麗の政府や人民が (1) モンゴルの対日戦争で果たした役割,(2) モンゴルの対日戦略に与えた影響。
条件は,⑴〜⑷の文章を参考にすること。
まず説明文の内容を確認しよう。
⑴モンゴルの外交使節が日本に渡ることを宰相が妨害(1266)
⑵王室がモンゴルに屈伏した後も軍隊三別抄が抵抗を継続(1270 〜 1273)
⑶日本征討用の軍船を多数建造(1274,1279)→人民に多くの負担
⑷多くの高麗人民が戦闘員として動員された これらの内容をまとめれば次のようになる。
対日戦争での役割:
兵員・装備(兵船)を供給(兵站基地)
対日本戦略への影響:
服属した高麗政府ですら非協力的・高麗人民の抵抗→モンゴルの日本遠征の遅れ
なお,高麗人民の抵抗や戦闘に動員された高麗の士気の低さは,モンゴルの日本遠征の失敗の原因の1つであり,モン ゴルに第3次遠征を断念させた背景の1つでもある。
【解答例】
A鎌倉武士は惣領を中心に血縁的武士団を編成し,恩賞を求めて幕府の軍事動員に応じた。そのため日本軍は,組織 的な集団戦を行う元軍に対し,軍功を明らかにするために一騎討ちで戦った。
Bモンゴルの対日本戦略において,高麗は日本との交渉の先導役であり,兵員・装備を供給する兵站基地であった。
しかし,政府の屈伏後も高麗人民の抵抗が続き,高麗政府ですら日本への使節派遣に非協力的であったことは,日本 遠征の遅れと失敗の原因となった。
第3問
設問の要求は,大坂の職業的な俳人・小西来山の詠んだ,知らないはずのない奉行の名を「おぼえず」とするこの俳句は,
幕府の権威に対してどのような姿勢を表明しているか。
“正面きった批判・抵抗はしないものの無関心・反権威の姿勢を示している” と答えればよいのだが,それだけでは5行 という字数を埋めることはできない。
となれば,なぜ小西来山はこのような姿勢を表明することが可能だったのかを説明する必要がある。その際,平松義郎『江 戸の罪と罰』からの引用がヒントとなるのだが,難問。ポイントは,近世身分制社会(あるいは幕府・大名による民衆支配)
の基本単位がなにか,にある。
民衆支配の基本単位は村や町(百姓や町人による地縁的自治的な共同体)であり,幕府・大名は大枠において規制を加 えながらも,村や町の自治を保障し,それに依拠して民衆支配を実現していた。
したがって,「法とは政治的支配者」=幕府・大名「による命令禁止の規範であって,私的権利の体系ではなかった」。
そして村や町では,村役人・町役人の指導のもとで独自の法にもとづいて自治運営が行われており,村や町という共同 体=「既存の団体秩序」に順応しておりさえすれば,代官や町奉行のまえへ引き出されてその裁きをうけることもなく,
平穏に生活することができた。つまり,「既存の団体秩序に密着し,同一化するのが世渡りの方便」であった。それゆえ,
村役人や町役人でもなければ代官や町奉行と面識を持つことはなく,彼らの名前を覚える必要もなかった。
だからこそ,「大坂も大坂,まん中に住みて」いる小西来山は,大坂町奉行の存在を意識しながら「お奉行の名さへお ぼえず」とうそぶく・茶化すことができたのだ。
【解答例】
幕府の民衆支配の基本単位は村や町などの諸団体であり,厳しく統制しながらも村や町などの自治を保障し,それに 依拠して民衆支配を実現していた。それゆえ,既存の団体秩序をはみ出さない限り,民衆にとって代官や奉行は無縁 な存在でありえた。こうした体制のもと,小西来山は無関心を装うことで反権威の姿勢を表明した。