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第1問

次の史料を読み,下記の設問に答えよ。

⑴ 興死して弟武立つ。(略)順帝の昇明二年(478 年),使を遣して上表して曰く,封国は偏遠に して藩を外に作す。昔より祖彌(父祖,または祖父の彌〔珍〕か)躬ら甲冑を擐き,山川を跋渉し て寧処に遑あらず。東は毛人を征すること五十五国,西は衆夷を服すること六十六国,渡りて海北 を平らぐること九十五国。(略)臣(武),下愚なりといへども,忝なくも先緒を胤ぎ,統ぶる所を 駆率して,天極(皇帝のこと)に帰崇し,道百済を遙て船舫を装治す。(略)詔して武を使持節都 督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王に除す。

(『宋書』倭国伝,原漢文)

⑵ 大業三年(607 年),其王多利思比孤,使を遣して朝貢す。使者曰く,聞く,海西の菩薩天子,

重ねて仏法を興すと。故に遣して朝拝せしめ,兼ねて沙門(僧侶)数十人をして,来って仏法を学 ばしむと。其の国書に曰く,「日出づる処の天子,書を日没する処の天子に致す。恙無きや,云云」

と。帝(煬帝),之を覧て悦ばず。鴻臚卿(外交を司る官)に謂ひて曰く,「蛮夷の書,無礼なる有 らば,復た以て聞する勿れ」と。

(『隋書』倭国伝,原漢文)

設問

A 史料⑴と史料⑵の間では,倭国の王の中国皇帝に対する対し方はどのように変化しているか。2 行以内で述べよ。

B 設問Aの変化をもたらした歴史的な背景を,国内・国際両面について5行以内で述べよ。

第2問

鎌倉末期から南北朝期にかけての時代には,文化が大きく変化した。次に掲げる⒜〜⒞の史料はこの 時代の世相を述べたものであるが,これらを手掛かりにして,この時代の文化の新しい傾向とそれをも たらした要因について,5行以内で述べよ。

⒜ 人ごとに,我が身にうとき事をのみぞ好める,法師は兵の道を立て,夷①は弓ひく術知らず,仏 法知りたる気色し,連歌し,管絃をたしなみあへり,(中略)法師のみにもあらず,上達部・殿上人・

上ざままで,おしなべて,武を好む人多い。

(『徒然草』)

⒝ 誰ヲ師匠トナケレドモ,アマネクハヤル小笠懸②,

事新シキ風情ナリ,京・鎌倉ヲコキマゼテ,

一座ソロハヌエセ連歌,在々所々ノ歌連歌,

点者③ニナラヌ人ゾナキ,

(『二条河原落書』)

⒞ 異国の唐物,高麗の珍物,螢のごとく霞に似たり,交易売買の利潤は,四条・五条の辻①に超過 し,往来出入の貴賤は,京都・鎌倉に異ならず,およそ御領⑤豊穣にして,甲乙人⑥富裕なり。

(『庭訓往来』,原漢文)

注① 東国の武士 ② 小規模な笠懸の遊び ③ 連歌の良し悪しを定め,評点を加える人

④ 京の繁華街として知られた町 ⑤ 土地,所領 ⑥ 貴族や武士以外の庶民

第3問

江戸時代の朝廷に関する研究は近年になって盛んとなり,江戸時代におけるその存在の意義や果たし た機能が,さまざまな側面から解明されてきている。下に掲げた年表を参考にして,江戸時代初期の幕 府と朝廷との関係の特徴を,5行以内で記せ。

1603(慶長 8)年 徳川家康,征夷大将軍に任命される。

1605(同 10)年 徳川秀忠,征夷大将軍に任命される。

1615(元和1)年  幕府,禁中並公家諸法度を定める。

1617(同3)年  朝廷,亡くなった徳川家康に,東照大権現の神号を勅許する。

1623(同9)年  徳川家康,征夷大将軍に任命される。

1627(寛永4)年  幕府,大徳寺などの僧の紫衣着用の勅許を無効とする。

1645(正保2)年  朝廷,日光東照社に宮号を勅許する。この結果,日光東照宮となる。

1646(同3)年 朝廷,幕府の要請により,日光例幣使①を派遣する。

幕府,朝廷の要望をいれ,長く中絶していた伊勢例幣使②の再興を認める。

注① 日光例幣使 日光東照宮に礼拝のため,朝廷から毎年派遣された使い。朝廷の東照宮に対する 崇敬を示す。

② 伊勢例幣使 朝廷から,伊勢神宮に毎年派遣された使い。15 世紀後半以来,中絶していた。

第4問

1873(明治6)年,大久保利通は岩倉使節団の欧米視察の経験をもとに,政府に対して政体を定め るよう建言した。次の引用文はその一部である。これを読んで下記の設問に答えよ。なお,引用文は現 代語に改め,一部は要約してある。

⑴ 政体には,君主政治,民主政治,君民共治(後にいう立憲君主制)の三種類がある。

⑵ 民主の政は,天下を一人で私せず,広く国家全体の利益をはかり,人民の自由を実現し,法律や 政治の本旨を失わず,首長がその任務に違わぬようにさせる政体であって,実に天の理法が示す本 来あるべき姿を完備したものである。アメリカ合州国はじめ,多くは新たに創立された国,新しく 移住した人民によって行われている。

⑶ 君主の政は,蒙昧無知の民があって,命令や約束によって治められないとき,ぬきんでた才力を もつ者が,その威力・権勢に任せ,人民の自由を束縛し,その人権を抑圧して,これを支配する政 体で,一時的には適切な場合もある。

⑷ イギリスは土地・人口の規模が日本とほぼ同じであるが,その国威は海外に振い,隆盛をきわめ ている。それは 3200 万余の人民がおのおの自身の権利を実現するために国の自由独立をはかり,

君長もまた人民の才力を十分にのばす良政を施してきたからである。

設問

大久保は諸国の政体を比較した上で,日本には君民共治の制がふさわしいと主張した。なぜそう

考えたのか。当時の日本がおかれていた条件や国家目標を考えて,5行以内で説明せよ。

解法の研究

第1問

A 設問の要求は,史料⑴と史料⑵の間で倭国の王の中国皇帝に対する対し方はどのように変化しているか。

史料⑴は倭王武で,史料⑵は推古朝の遣隋使。前者が中国皇帝に朝貢し冊封を求めているのに対し,後者が中国皇帝と の対等の立場をとろうとしている。

B 倭王武の時代には中国と朝貢・冊封関係を結んだものの,推古朝になると冊封をうけず対等外交をめざすようになっ た歴史的背景が問われている。

倭王武は,①国内の諸豪族に対する優越性の確保と,②朝鮮南部の諸国に対する軍事指揮権の確保(高句麗に対抗する ための政治的・軍事的地位の確保)を目的として中国皇帝からの冊封をうけたのだから,推古朝に冊封をうけなくなった 理由としては,①②のそれぞれを実現するうえで中国皇帝の権威をよりどころにする必要がなくなったからだと推論する ことがとりあえず可能である。果たしてこの推論は妥当なのか。

① 国内の諸豪族との関係について。

倭王武=ワカタケル(雄略)の時代は,古墳文化の転換期の1つであり,近畿中央部以外で前方後円墳が小型化し,大和・

河内の勢力の他地域に対する優越性が確立しはじめる段階であった。つまり,各地の地域的な豪族連合が大和・河内の勢 力を頂点として連合体を形成するというあり方から,大和政権の盟主に対する呼称として「大王」号が成立し,各地の諸 豪族が大王との間に個別に服属・奉仕関係をもつというあり方へと,大和政権の性格が大きく転換しはじめる時期であっ た。当時,「杖刀人」(埼玉県稲荷山古墳鉄剣銘)や「典曹人」(熊本県江田船山古墳大刀銘)などと表現された個人や集団が,

それぞれ特定の職務(「杖刀」や「典曹」の部分が職務内容を指す)をになって大王に奉仕するという統治組織がすでに 存在していたことが分かっている。

こうした「○○人」制を原型とし,のちに百済の制度を参照して整えられたのが,伴造-伴-品部の統治組織(伴造制・

部民制)であり,やや遅れて国造制が導入される。このように大和政権による地方統治がシステムとして整っていったの が6世紀の継体・欽明朝以降であった。さらに,中央においても大臣・大連とそれに次ぐ地位にある有力豪族たち(大夫 という役職に任じられた)の合議制が整っていき,彼らが伴造クラスの諸豪族を統率する体制が成立していった。もっと も,継体朝に磐井の乱という九州北部勢力の大規模な離反があり,さらに大王の継承をめぐる王族どうしの対立にからん で有力豪族の権力抗争が展開されたが-それゆえに6世紀は大和政権の動揺期とも評価されるが,動揺を伴いながら統治 組織の整備が進展していった時期である-,最終的には蘇我氏による権力掌握のもと,大和政権の国内統治は安定を迎え ることになる。それが推古朝の前提であり,だからこそ実務を担う伴造クラスの諸豪族を対象に冠位十二階の制を導入す ることが可能だったのである(もちろん冠位十二階の制の導入は統治組織の新たな変化-官僚制原理の導入-の始まりで もある)。なお,推古朝の6世紀末〜7世紀初めは,前方後円墳が消滅するという古墳文化のもう一つの転換期である(近 畿中央部では大型の方墳が造成される)。

こうしたことから,推古朝では大王は独自の権威にもとづいてその地位を正当化することができるようになっており,

中国皇帝から冊封をうけ,その権威をよりどころとして諸豪族に対する優越性を確保することはもはや必要とされなく なっていたことがわかる。

② 朝鮮半島との関係について。

5世紀後半には中国皇帝から朝鮮南部(新羅や伽耶など)に対する軍事指揮権を認められたが,国内の統治組織の整備 が進んだ6世紀は,朝鮮半島から大和政権の勢力が後退した時期であった。

まず6世紀初め,高句麗の圧迫をうけた百済が南下して伽耶諸国に侵攻し,一部を領有するという事態が発生すると(い わゆる任那四県割譲問題),これを大和政権(大連大伴金村)は追認する。次いで,新羅が伽耶諸国に侵攻すると,軍勢 を派遣するものに有効な対応ができず(その過程で 527 年に磐井の乱が発生する),最終的に 562 年,新羅が安羅を領有 する。こうして伽耶諸国は最終的に消滅してしまう。欽明朝のことであった。さらに推古朝には,旧伽耶(加羅)地域に おける勢力回復をはかって新羅出兵が計画されたものの,成果をあげることができなかった。