第1問
次の文章を読み,下記の設問に答えよ。
西暦 660 年百済が唐・新羅の連合軍の進攻によって滅亡したとき,百済の鬼室福信は日本の朝廷 に援軍を求め,あわせて,日本に送られてきていた王子余豊璋を国王に迎えて国を再興したい,と要 請した。日本の朝廷はこれに積極的に応え,翌年豊璋に兵士を従わせて帰国させ,王位を継がせた。
次いで翌 662 年には,百済軍に物資を送るとともに,みずからも戦いの準備をととのえた。663 年 朝廷はついに大軍を朝鮮半島に送り込み,百済と連係して唐・新羅連合軍に立ち向かい,白村江の決 戦で大敗するまで,軍事支援をやめなかった。
〔設問〕
このとき日本の朝廷は,なぜこれほど積極的に百済を支援したのか。下の年表を参考にしながら,国 際的環境と国内的事情とに留意して5行以内で説明せよ。
612 隋,高句麗に出兵する(→ 614)。
618 隋滅び,唐起こる。
624 唐,武徳律令を公布する。高句麗・新羅・百済の王,唐から爵号を受ける。
637 唐,貞観律令を公布する。
640 唐,西域の高昌国を滅ぼす。
645 唐・新羅の軍,高句麗に出兵する。以後断続的に出兵を繰り返す。
648 唐と新羅の軍事同盟成立する。
660 唐・新羅の連合軍,百済を滅ぼす。
663 白村江の戦い。
668 唐・新羅の連合軍,高句麗を滅ぼす。
第2問
下記の⑴〜⑸の文章は,中世後期,近畿地方に発達した惣(惣村)が,みずから定めた惣掟の条項の 大意を述べたものである。これらの文章から惣の特徴を読みとり,それを5行以内にまとめて述べよ。
⑴ 宮座のメンバーが交代でつとめる神主になった者は御酒5斗を奉納しなければならない。
⑵ 寄合を行なう知らせを 2 回うけても,なお出席しない者には,50 文の罰金を課す。
⑶ 惣が所有する森林で,繁った木の葉を採取した者は村人の身分を剥奪する。
⑷ たとえ,盗みのような重罪を犯したものであっても,村人達が勝手に処罰してはいけない。惣の 乙名・中乙名・若衆が,犯罪の証拠をよく調べ,その上で,惣としての定まった処置をとるべきである。
⑸ わが村の乙名である清九郎は,地頭との間に軍事同盟を結び,惣が武力を提供するみかえりに,
惣にかかる年貢を半分に減らし,惣がその年貢の納入を請負う契約を結ぶことに成功した。このこ
とは,当所の地下人に長く記憶されなければならない。
第3問
下の図は,江戸の版元(出版社)として有名な蔦屋の店舗の情景を描いた葛飾北斎の作品である。武 士などの客が店先をのぞき,店内では店員が忙しげに書物を製本中である。また,多量の書籍や版画が 出荷を待っている。文化・文政期(1804 年〜 1829 年)にこれらの出版物は,蔦屋のような板元から,
小売や貸本屋の手を経て無数の人々の手に届けられ,数多くの作家や絵師が人気を博した。このように,
出版が盛んになった原因は何か。時代的背景にふれながら,5行以内で説明せよ。
第4問
情報の伝達のあり方がどうであったのかは,その時代を理解するうえで重要な側面である。幕末・明 治前期において,民衆が情報を得るメディアがどのように展開してきたか,下記の語を参照し,6行以 内で述べよ。
(参照すべき語)
瓦版⑴,新聞紙条例,電信⑵,別段風説書⑶,横浜毎日新聞
⑴おもに街頭で読み売られた木版印刷物。
⑵長崎・上海間に海底電信線が敷設されたのは 1871 年のことであった。
⑶幕府はアヘン戦争の時から,従来のオランダ風説書よりも詳細な海外情勢報告書をオランダ商館長
に提出させた。全国各地の幕末期史料の中には,別段風説書の写しがよく見られる。
解法の研究
第1問
設問の要求は,660 年の百済滅亡の際,日本の朝廷はなぜ積極的に百済を支援したのか。条件として,⒜年表を参考に すること,⒝国際的環境と国内的事情とに留意することが求められている。
条件のなかに “国内的事情に留意すること” が含まれているが,年表は国際関係だけに限定されている。自分の知識で 補わなければならない。
国際的環境について。
まず年表の内容をチェック。
扱われている時期は,612 年の隋による高句麗遠征から 668 年の高句麗滅亡まで。隋・唐という中国に新たに出現し た統一国家による朝鮮半島への軍事侵攻の過程である。
列挙されているデータは以下の通り。
隋が高句麗遠征を行ったこと 唐が律令を整備したこと
高句麗・新羅・百済が唐から冊封をうけたこと 唐が西域へと領土を拡大したこと
唐が新羅と同盟を結んで高句麗・百済を攻め,滅ぼしたこと
唐は律令法による中央集権国家を整備しながら西域や朝鮮へと領土を拡大していき,そしてその過程で百済が唐(と新 羅の連合)により滅ぼされた,とまとめることができる。
とはいえ,こうした事情だけでは “百済が日本に支援を求めた理由” の説明とはなっても,“日本の朝廷が百済を支援し た理由” の説明にはならない。
そこで,律令国家の国際認識,つまり “新羅・渤海を朝貢国(従属国)と位置づけ,中国皇帝とは独自の立場から君臨 しようとした” -唐にならった中華帝国の形成をめざした-を念頭において考えよう。
隋・唐の軍事侵攻により朝鮮半島の緊張が高まり,そのなかで高句麗や百済が外交政策の必要から倭との協調関係を強 く求めるようになれば,倭が高句麗や百済を朝貢国(従属国)と位置づけて君臨することも可能である(たとえば天武・
持統朝では,唐との対立関係から日本へ遣使していた新羅を朝貢国(従属国)として扱い,新羅もそれを容認していた→
唐との対立が解消されると新羅は対等の立場を主張して日本と対立するようになる)。つまり,百済の滅亡は朝貢国(従 属国)の消滅である。逆にいえば,倭の支援により百済が再興されたとすれば,倭は朝貢国(従属国)を確保し朝鮮半島 への影響力を維持することができる。
次に国内的事情。
大化の改新以降,急速に進められた政府への権力集中は,有力豪族や地方豪族に不安や不満をもたらしていた。それが 蘇我石川麻呂の変,孝徳天皇と中大兄皇子の対立,有間皇子の変などの形で表面化していた。
そこで,対外戦争を遂行することにより,こうした不安・不満をそらし,一層の権力集中を図ろうとしていた。
【解答例】
隋・唐の軍事侵攻により朝鮮半島の緊張が高まり,唐が新羅と提携して百済を滅ぼすと,中国皇帝とは独自の立場か ら朝鮮諸国に君臨しようとしていた倭は,百済再興を通じて朝鮮半島への影響力を確保すると同時に,対外戦争を通 して権力集中を図り,改新政治のなかで生じた豪族の不満を解消しようとした。
第2問
設問の要求は,資料文⑴〜⑸から読み取れる惣村の特徴。
まず資料文からデータを引き出そう。
⑴鎮守社の祭祀組織である宮座が存在
→惣村の自治的運営が宗教活動と結びついている
⑵寄合への出席義務 →全員参加の寄合で村政運営
⑶惣有地を私的に利用することを禁止
→共同利用の山野を惣有地(惣有財産)として共同管理(→村政運営の財政的基盤)
⑷私的制裁を禁止→警察・裁判権は惣村が掌握(自検断),乙名など指導層が存在
⑸惣村が国人(地頭)に武力を提供する代わりに年貢の軽減と年貢の百姓請を実現
→最低限 “年貢の百姓請” を引き出す
これらのデータをまとめあげれば,とりあえず答案が完成する。
とはいえ,もう少しデータを引き出してみよう。
まず,資料文⑵⑶⑷から住民への管理・規制が強いこと(共同体としての規制が強いこと)がわかるが,それは,村の個々 の住民よりも惣村全体の利益・意思が優先されているということである。また資料文⑸では,乙名が個別にもっていた武 家との軍事同盟関係(被官関係)が年貢の軽減を実現させる手段となっていることも述べられているが,そのことからも 惣村の共同体的な規制が強いことがわかる。乙名=有力名主(地侍)層も惣村全体の利害を代表する形で行動しているの である。
なお,もともと百姓たち-とりわけ経営の不安定な小百姓-は,惣村という共同体に所属することではじめて農業経営
(家)を成り立たせることができたのであり,惣村は百姓たちが経営としての自立を果たすための手段という性格をもっ ていた。だからこそ共同体的な規制が求められていた。
他方,資料文⑸では乙名の業績が強調されている。そのことを考慮に入れれば,乙名は年貢軽減を実現させることによっ て惣村での指導的地位を確保していたこともわかる。つまり,惣村の共同体的な規制は,乙名=有力名主(地侍)層が惣 村での特権的な地位を確保・維持するための手段であったとも評価できるのである。
ここで意識しておいてよいのは,⑶や⑷では「村人」と表記されているが,⑸では「地下人」と,用語に違いがある点である。
「村人」は惣村の正式メンバー(宮座の構成員と重複)を指す言葉で,階層的には有力名主(地侍)層であった。それ に対して,「地下人」とは,身分関係のさまざまな場面において,2つの相対する身分階層のうち下位のものを呼ぶのに 用いられた呼称だが,惣村内部では有力名主(地侍)層に対してそれ以外の百姓(新興の中小名主や小百姓)を指す呼称 として「地下人」という言葉が用いられていた-なお百姓請を “地下請” とも称するが,そのときの “地下” は “荘園領主
-百姓” という身分関係における下位の階層=百姓を指す言葉として用いられている-。
もっとも,惣村を構成する百姓たちの間に有力名主(地侍)とそれ以外の百姓(新興の中小名主や小百姓)という階層 が存在していたことは教科書レベルの知識だが,それらが「村人」と「地下人」の区別にどのように関連・対応するのか は資料文からはわからないし,教科書でも説明はない。したがって,この用語法の違いまで答案に生かすのは難しいが,
惣村内部に階層や内部矛盾が存在していたことは把握しておきたい。
なお,惣村が法の制定者であり,執行者であること,さらに資料文⑶によれば,村人の身分を剥奪することが刑罰の1 つとされていること(「村人の身分」を剥奪されたからといって村の領域外へ追放されたかどうかは不明だが)から,惣 村は「村人の身分」を認定する主体であったことも推論できる。
【解答例】
惣村は鎮守社の祭祀組織である宮座を基礎に成立した地縁的自治組織で,有力名主から選ばれた乙名などを指導層と し,全村民が参加を義務づけられた寄合で運営された。秩序維持のために惣掟を定め,私的制裁を禁じて村全体で警 察・裁判権を行使すると共に,農業生産に必要な入会地などを共同管理し,年貢の百姓請を行った。
(別解)惣村は鎮守社の祭祀組織である宮座を基礎とする,広い階層の百姓による自治村落であった。地侍を指導層 とし,全村民が参加を義務づけられた寄合で運営され,自主的な地域権力を形成した。独自の財政基盤と軍事力を保 持し,私的制裁を禁じて自検断を行い,構成員の身分認定を行うと共に,領主への年貢納入を一括で請負った。