第1問
次の文章を読み,下記の設問に答えよ。
775 年に 81(または 83)歳で没した吉備真備は,吉備地方の豪族の出身である。717 年に遣唐 使に従い留学,よく経史を学び,「日本の留学生で唐で名をなした者は真備と阿倍仲麻呂の二人のみ である」とまで称された。753 年に,多くの書物などを携えて同期の留学僧玄昉らとともに帰朝,そ の最新の知識は朝廷で重んじられた。のちの孝謙天皇の皇太子時代の教師となったのもこの頃である。
740 年には,重用される玄昉や真備の排除をめざして藤原広嗣が大宰府で反乱を起こしたが,鎮定 された。やがて藤原仲麻呂が権力を持つと左遷され,さらに 751 年には入唐副使となって再び唐に 渡った。帰国後は大宰府の次官となり国際的緊張下に筑前国の怡土城を造った。のちに京にもどった 真備は,764 年の藤原仲麻呂の乱では,兵法の知識をいかして孝謙上皇側の参謀として乱の鎮圧に 活躍した。その後,称徳天皇のもとで真備は昇進を重ね,766 年にはついに右大臣にまで上った。
設問
A 吉備真備は二度にわたり唐にわたった経験をもつ。古代の遣唐使が日本にもたらした制度や文物 について,具体例をあげながら4行以内で述べよ。
B 多くの政治的争乱がくりかえされた中で,地方豪族出身の吉備真備は,なぜ長期にわたって政界
で活躍し,右大臣にまで上ることができたのだろうか。その理由について,考えられることを3行
以内で述べよ。
第2問
次の⑴から⑸の文を読み,下記の設問に答えよ。
⑴ 1203 年,北条時政は,孫にあたる将軍源実朝の後見役として政所の長官に就任し,幕府の実権 をにぎった。この地位を執権といい,以後北条氏一族に世襲された。
⑵ 1219 年に実朝が暗殺された後,北条義時は,幼少の藤原頼経を摂関家から将軍に迎えた。
⑶ 1246 年,北条時頼が前将軍藤原頼経を京都へ追放したとき,有力御家人の三浦光村は,頼経の 輿にすがって,「かならずもう一度鎌倉の中にお入れしたく思う」と涙ながらに言い放った。翌年,
時頼は三浦泰村・同光村ら三浦一族をほぼ全滅させた(宝治合戦)。
⑷ 1266 年,北条時宗は,15 年間将軍の地位にあった皇族の宗尊親王を京都へ追放した。この事 件について,史書『増鏡』は,「世を乱そうなどと思いをめぐらしている武士が,この宮に昼夜む つまじく仕えている間に,いつしか同じ心の者が多くなって,宮自身に謀反の意向があったかのよ うに言いふらされたものだろう」と説明している。
⑸ 1333 年,後醍醐天皇の皇子護良親王は,諸国の武士や寺社に送った幕府打倒の呼びかけのなか で,次のように述べた。「伊豆国の在庁官人北条時政の子孫の東夷どもが,承久以来,わがもの顔 で天下にのさばり,朝廷をないがしろにしてきたが,ついに最近,後醍醐天皇を隠岐に流すという 暴挙に出た。天皇の心を悩ませ国を乱すその所業は,下剋上の至りで,はなはだ奇怪である。」
設問
A 鎌倉幕府の体制のなかで,摂家将軍(藤原将軍)や皇族将軍はどのような存在であったか。北条 氏と将軍との関係,反北条氏勢力と将軍との関係の双方に触れながら,3行以内で述べよ。
B 護良親王は,鎌倉後期に絶大な権力を振るった得宗(北条氏嫡流)を,あえて「伊豆国の在庁官
人北条時政の子孫」と呼んだ。ここにあらわれた日本中世の身分意識と関連づけながら,得宗が幕
府の制度的な頂点である将軍になれなかった(あるいは,ならなかった)理由を考えて,4行以内
で述べよ。
第3問
米沢藩のある医師は,1768(明和5)年に,早くも「そろりそろりと天下のゆるゝ兆し」と警告し ていたが,1787(天明7)年に,松平定信は「政務の取り計らい違いといいながら,上を見透かしぬ いたること前代未聞なり,世の衰えこの上あるべからず,誠に戦国より危うき時節と世は覚えたり」と 語ったといわれている。さらに杉田玄白は,1807(文化4)年ころに,「この時節,世まさに乱の萌し 見えたる様なり」と書いている。
松平定信や杉田玄白は,なぜそのように考えたのだろうか。当時の国内および対外情勢から,その理
由を5行以内で説明せよ。
第4問
次の⑴から⑶の文章を読み,下記の設問に答えよ。
⑴ 明治元年2月晦日にイギリス公使が襲撃される事件が発生し,3月 12 日にイギリスは太政官に,
外国人への暴行厳禁を命ずる新令を掲示するよう督促した。しかし,太政官のなかでは,そのよう な新令の掲示は外国人に屈したように見えるという意見がでて,直ちに決定ができなかった。
⑵ 明治元年3月 15 日に,太政官から呼出しがあったので熊本藩の重役が出頭すると,次の5枚の 高札の文面と前日に出された五箇条の誓文が手渡された。
Ⅰ 五倫(父子,君子,夫婦,長幼,朋友)の道徳を守ること
Ⅱ 徒党を禁止する
Ⅲ キリシタンを禁止する
Ⅳ 開国和親の政策をとるので,外国人殺害を禁止する
Ⅴ 戦乱に乗じ,本来居住すべき地から脱走することを禁止する
⑶ 太政官の高札が江戸日本橋に掲示されるのは,明治元年7月になってからである。このとき政府 が掲示を督促した高札は,ⅠからⅢの3枚であった。
設問
A 五箇条の誓文と5枚の高札の文面が同時に手渡され,しかも両者が共通して対外関係について触 れているのはなぜか。⑴で述べられている事実を踏まえて,3行以内で説明せよ。
B ⑶を手がかりに,維新初期の民衆政策のあり方について2行以内で説明せよ。
解法の研究
第1問
A 設問の要求は,古代の遣唐使が日本にもたらした制度や文物について説明すること。
制度…律令・都城制・貨幣制度
文物…儒教(儒学)・鎮護国家の仏教・漢詩文・国際色豊かな美術工芸
(儒教や仏教は,制度といった方が適切かもしれないが,とりあえず文物に分類しておいた)
B 設問の要求は,地方豪族出身の吉備真備が長期にわたって政界で活躍し右大臣にまで上ることができた理由。
設問では「考えられることを述べよ」と書かれているが,ヒントは問題文のなかにある。データを引き出して要約したい。
問題文から引き出すことができるデータは,以下の通り。
①留学・経史を学ぶ・唐で名をなした・最新の知識が朝廷で重んじられた
…唐の最新の知識に精通した貴重な人材
②二度にわたって唐にわたった経験をもつ
…国際関係に精通(←唐・新羅との国際的緊張)
③国際的緊張下に筑前国の怡土城を造る・兵法の知識をいかして乱の鎮圧に活躍
…有能な兵学者
④孝謙天皇の皇太子時代の教師・孝謙上皇側の参謀
…孝謙からの信任
これらのうち,①〜③は吉備真備の個人的能力に関するもの,④は律令制のもとでの絶対君主たる天皇との人間関係に 関するものである。
【解答例】
A律令制度が導入されて中央集権国家の形成が進み,唐にならって都城の建設や貨幣の鋳造・国史の編纂などが行わ れた。鎮護国家思想に基づく国家仏教体制が整備され,貴族の教養として漢詩文が重視された。また,さまざまな美 術工芸品やその技術が伝えられた。
B吉備真備は二度にわたって入唐した経験から唐の最新知識をもち,兵法家としても有能で,国際関係にも精通した 貴重な存在であったうえ,皇太子時代から孝謙=称徳天皇の厚い信任を受けていた。
第2問
A 設問の要求は,鎌倉幕府の体制のなかで,摂家将軍(藤原将軍)や皇族将軍はどのような存在であったか。条件として,
⒜北条氏と将軍との関係,⒝反北条氏勢力と将軍との関係,の双方にふれることが求められている。
まず「鎌倉幕府の体制」を考え,そのなかで「将軍」がどのような存在であったかを考えた上で,この設問の要求に直 接答えるとよい。
鎌倉幕府は将軍と御家人の主従関係を基礎として成り立っており(もともと幕府は将軍家のこと),幕府にとって将軍 は不可欠な存在である。そして,源氏将軍が断絶して以降,摂関家や皇族から将軍を迎え,幕府の権威付けとしていた。
次に,問題文から引き出すことのできるデータは,以下の通り。
⑴→北条氏は将軍の後見役として実権を握った
⑵→源氏将軍断絶後は摂関家から将軍を迎えた・ただし幼少(名目的な存在)
⑶→北条氏と対立した将軍は追放された・将軍は反北条氏勢力の結集点
⑷→将軍本人に北条氏と対立する意向があったかどうかに関わりなく,将軍は反北条氏勢力の結集点となっている ネックは,3行(90 字)と字数が非常に少ないことだ。以上のデータをいかに 90 字以内で書けばよいのか,頭をひねっ
てみよう。その際,問題文を単に要約していては,設問の要求にきちんと答えきれるかどうか危うい。設問の要求が “摂 家将軍・皇族将軍がどのような存在だったか” であることを忘れないように。
B 設問の要求は,得宗が幕府の制度的な頂点である将軍になれなかった(あるいは,ならなかった)理由。条件として,
護良親王が得宗(北条氏嫡流)をあえて「伊豆国の在庁官人北条時政の子孫」と呼んだことにあらわれている日本中世の 身分意識と関連づけることが求められている。
条件に「日本中世の身分意識」との関連づけが求められていることから,91 年度の建武新政に関する出題(なかでも 設問B)が類似問題であることに気づけば解きやすいが,おそらくほとんどの受験生は「日本中世の身分意識」について の知識を持ち合わせていないのではないだろうか-山川『詳説日本史』には全く説明がないが,三省堂『日本史』には「中 世社会の身分」という項目で説明がある-。その意味で難問である。
とりあえず問題文⑸からデータを引きだそう。
「伊豆国の在庁官人北条時政の子孫の東夷ども」
「わがもの顔で天下にのさばり,朝廷をないがしろにしてきたが,ついに最近,後醍醐天皇を隠岐に流すという暴挙に 出た。」…「下剋上の至り」と評価
つまり,“在庁官人の子孫” が朝廷の政治を左右し,天皇の地位を処断することを,護良親王は “下剋上の至り” と評し ている。ということは,護良親王がもっていた身分意識は,“天皇が身分秩序の頂点” で,“在庁官人(→御家人)はしも じもの身分”,“しもじもの身分が天皇の地位を処断することなどもってのほか” というものだとわかる。
さてここで,後醍醐天皇の討幕運動の思想的な背景となったとされる朱子学の大義名分論を思い起こそう。
君臣の上下関係を基礎とする階層秩序に正義をもとめ,人びとがその階層秩序におけるそれぞれの社会的地位に応じた 行動・義務を遂行すべき,とする考え方である。
そして当時の日本には,天皇を頂点とする身分秩序が存在していた。鎌倉幕府が成立し,その勢力が拡大していたとは いえ,天皇を中心とする朝廷が京都に存続し,その支配がまだまだ効力をもっている状態では-幕府はあくまでも公武協 調の姿勢を貫いていた-,天皇を頂点とする位階・官職の体系が存続し,官位と家柄の結びついた階層秩序が社会を規定 していた。これが護良親王(や北畠親房)の準拠していた身分意識であった。
そして幕府も,朝廷の全国支配を(理念的に)前提としつつ公武協調の姿勢を貫く以上,その身分意識から自由では ありえず,将軍家は天皇家・摂関家に並ぶ家柄として意識され(なにしろ将軍家は天皇家・摂関家同様,権門すなわち荘 園領主であり知行国主であった),将軍は貴種であることが条件とされていた。在庁官人出身の北条氏が将軍となるには,
この身分意識の存在が障害とならざるをえなかった。
-もともと源頼朝は,流人という立場で挙兵して幕府を組織したため,幕府の中核となるべき強固な主従制をもってい なかった。だからこそ,頼朝は以仁王令旨や寿永二年十月宣旨など朝廷の権威を活用することにより自らの権力と御 家人制の確立を進めていた。このことを考えれば,幕府の存在が朝廷の権威,そのもとでの身分秩序を前提とするも のであることも想像できるだろう-
なお,もともと幕府の地位・権限(治安維持の機能)は朝廷の法令(新制)により規定されていたが-建久の新制(1191 年)-,1230 年代以降は朝廷側の新制では規定されなくなり,かわって幕府による弘長の新制(1261 年)以降,御成敗 式目を根拠として幕府自身の法令(新制)によって規定されるようになっていた。もともと朝廷下の軍事権門として位置 づけられていた幕府が,朝廷から独立した政権としての地位を確保するにいたったというわけだ。
そうした状況のなか北条得宗家は,惣領制のもとでの血縁的結合から離れた中小御家人(庶子家)たちを御内人へと組 織し,独自の主従制を形成しはじめていた。こうした主従制の形成は,天皇を頂点とする身分秩序を直接の媒介とせず,
それゆえに得宗はあえて将軍となる必要がなかったといえる。
さらに言えば,支配の正統性は朝廷からのみ付与されるものではなく,その統治の是非にもとずいて被治者からも与え られるものである以上,北条得宗家が支配の正統性を確立するのに必ずしも将軍になる必要はなかった。
とはいえ,すべての御家人を主従制下に編成できたわけでなく,武家政権の首長としての将軍の存在を否定することは できない。また,幕府は蒙古襲来に対応するための軍事体制の構築をきっかけに,朝廷からの権限委譲を通じて公家・寺 社の支配領域へ介入する(非御家人の動員など)ようになったが,それにともなって幕府のもつ権限の正統性の根拠とし