第1問
次の文章を読み,下記の設問 A,B に答えよ。
大化改新の詔の第2条(『日本書紀』大化2年正月1日条)には,「およそ郡は四十里をもって大 郡とせよ」と,646 年に郡の設置を定めた記事が見える。一方,藤原宮(694 〜 710 年)から出土 した木簡にも,地方制度の成立過程を示すものがある。すなわち,藤原宮以前の時期のものも含めて,
地方から中央政府に貢進された租税などの物資に付けられた荷札の木簡である。それらのいくつかに は次のように記されている。
1.癸未年[683 年]七月三野[美濃]大野評阿漏里 2.辛卯年[691 年]十月尾治[尾張]国知多評入家里 3.庚子年[700 年]四月若佐[若狭]国小丹生評木ッ里 4.< 表 > 尾治国知多郡(後欠)
< 裏 > 大宝二年[702 年]
設問
A 上に掲げた文章を参考にして,律令国家の地方制度の成立過程について,4行以内で述べよ。
B 木簡が,7〜8世紀の歴史の研究に果たす役割について,3行以内で述ベよ。
第2問
次の文章を読んで,下記の設問に答えよ。
1333(元弘3)年,後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒して一身に権力を集中し, 「天下一統」を実現した。
平安時代以来,貴族社会では,「先例」に従うことが正しい政治のありかただとする考えが支配的で あった。天皇は, 「今の先例も昔は新儀だった.私の行う新犠は未来には先例となるだろう」 (『梅松論』
という言葉に示されるような意気ごみで,つぎつぎに目新しい政治改革を打ち出した。この急進的な 改革に対しては,領地の所有に不安を抱いた武士だげでなく,貴族のなかからも批判があった。政権 の中枢にいた北畠親房は,「一統の世」の実現をふり返って,「今こそ積年の弊を一掃する好機だった のに,それどころか,本所の領地でさえもことごとく勲功のあった者に与えられ,由緒ある家がほと んど名ぱかりになってしまった例もある。こうして勲功を鼻にかけた者たちが天皇の政治を堕落させ た結果,皇威もますます軽くなるかと見えた」(『神皇正統記』)と記している。
設問
A 後醍醐天皇がこの政治改革でめざしたものは何か。3行以内で述べよ。
B 北畠親房は,天皇の政治に対して,どのような立場からどのような批判をもっていたか。3行以
内で述ベよ.
第3問
近世中期,18 世紀半ばから 19 世紀初めにかけての藩政改革の特色は,藩が木綿・塩・紙などの特
産物の生産を奨励し,それを独占的に購入して他ヘ販売する専売制度の実施である。藩は専売制度によっ
て領内の生産や流通に対する統制を徹底し,窮乏した財政を建て直して藩権力を強化した。しかし,こ
れを藩経済の自立ということは困難である。それはなぜか,幕藩体制の下での都市や商品流通のあり方
を視野に入れて,5行以内で説明せよ。
第4問
明治維新を通して権力を撃握した藩閥政府は,欧米諸国を範とする近代国家の建設を進めた。その一 つの到達点が 1889(明治 22)年に制定された大日本帝国憲法であり,翌年憲法の規定にもとづき帝 国議会が開設された。衆議院では民党か多数を占め,政府と激しく対立した。そこでの争点の最大のも のは地租問題であったか,条約改正もまた大きな問題であった。議会開設前後から初期議会期を通じて,
条約改正をめぐる議論が展開された。その際,政府と民党との間に,改正の内容や方法について,どの
ような論点をめぐる対立が生じたのかについて,5行以内で説明せよ。
解法の研究
第1問
A 設問の要求は,律令国家の地方制度の成立過程。条件として,説明文を参考にすることが求められている。
説明文からデータを抽出する。
⑴ 646 年大化改新の詔第2条(『日本書紀』)で郡の設置が規定されている。
「およそ郡は四十里をもって大郡とせよ」
⑵地方制度の成立過程を示す木簡が藤原宮から出土。
683 〜 700 年の木簡(1〜3) →国・評・里 702 年の木簡(4) →国・郡(後欠)
次に教科書レベルの知識として
改新直後には評が設置され,大宝律令の施行により郡へ改称された
ことは知っているはず(1999 年に難波宮跡から発見された木簡からも改新直後に評が設置されていたことが確認され た)。評は国造の支配領域を再編成して設置されたもので,国造をはじめとする地方豪族がその役人に任じられた。
ところで,説明文のなかに引用されている改新詔第2条では郡とともに里の設置も規定されているが,果たしてその時 期に里が設置されたのだろうか。50 戸で1里を構成するという律令の規定を念頭におけば,戸が編成されていない段階 では里が設置されているとは想定しにくい。最初に(全国的な)戸籍が作成されたのは 670 年の庚午年籍なのだから,支 配の最小単位である戸が編成されたのは天智朝のことで,里の編成はそれ以降ということになる(木簡1から判断すれば 天武朝ですでに里が設置されていたことがわかる)。
B 設問の要求は,木簡が7〜8世紀の歴史の研究に果たす役割。
藤原宮から出土した木簡によって “改新直後には評が設置され大宝律令の施行により郡へ改称されたこと” が判明した ことは知っているはず。つまり,後世に編纂された『日本書紀』の記事を修正して史実を確定するうえで重要な役割を果 たしている。
【解答例】
A大化改新で公地公民が宣言され,国造の支配領域を再編成して評が設置された。さらに天智朝に庚午年籍が作成さ れて人民の戸への編成が進み,天武・持統朝に国・評・里の行政区画が整った。そして大宝令の施行により評が郡と 改称され,地方制度が確立した。
B日本書紀や続日本紀は後世に編纂された国史で,潤色を含む可能性がある。それに対して木簡は当時のもので,史 書の内容を確認・修正する根拠となると共に,生活の実態を知る手かがりともなる。
第2問
A 設問の要求は,後醍醐天皇が建武新政という政治改革でめざしたものは何か。
まず,問題文をチェックしよう。
◦「鎌倉幕府を倒して一身に権力を集中」
もともと鎌倉時代は朝廷・幕府による公武二元支配であり,鎌倉幕府が滅亡したことにより朝廷の全国支配が復活 するとしても,後醍醐天皇個人に権力が集中するとは限らない。「一身に権力を集中」させるとはどういうものかを明 確にする必要がある。次の文章を参照しよう。
◦「平安時代以来,貴族社会では,「先例」に従うことが正しい政治のありかただとする考えが支配的であった。天皇は,
「今の先例も昔は新儀だった.私の行う新儀は未来には先例となるだろう」(『梅松論』)という言葉に示されるような 意気ごみで,つぎつぎに目新しい政治改革を打ち出した」
後醍醐は,公家社会に支配的な「「先例」に従うことが正しい政治のありかただとする考え」を否定するような政治 改革を実施したという。となれば,先例,いいかえれば公家政治の慣習とは何なのかを考え,そのうえで後醍醐がやろ うとした政治改革を特色づけする必要がある- “天皇親政” との表現では特色づけがやや曖昧-。その際,後醍醐が院 政や摂政・関白を否定したことを思い起こそう。
B 設問の要求は,天皇の政治に対し,北畠親房がどのような立場からどのような批判をもっていたか。
北畠親房が後醍醐天皇による建武新政に批判的だったという事実を初めて知る受験生が多いと思う。そうなれば,問題 文を参考にするしか対処法はない。
『神皇正統記』からの引用
◦「今こそ積年の弊を一掃する好機だったのに」
「由緒ある家がほとんど名ばかりになってしまった例もある」
後醍醐の「急進的な改革」への貴族のなかの批判の一例として北畠親房『神皇正統記』からの引用が紹介されてい るのだから,北畠親房が「由緒ある家」を重視する立場,「「先例」に従うことが正しい政治のありかただとする」貴族 社会に支配的な考えに立っていることが推測できる。
◦「こうして勲功を鼻にかけた者たちが天皇の政治を堕落させた結果,皇威もますます軽くなるかと見えた」
後醍醐天皇の政治改革がかえって天皇の権威を低下させてしまったと批判している。
【解答例】
A後醍醐天皇は中国の宋の政治運営に影響をうけ,院政や幕府を否定すると共に,公家政治の慣習を無視して摂政・
関白を廃止し,絶大な権力をもつ天皇の下に公武を統一した新たな政治をめざした。
B北畠親房は,公家政治の慣習を重視する立場から,勲功を優先した恩賞給付や家柄を無視した人材登用が公家中心 の身分秩序と政治を混乱させ,かえって天皇の権威低下を招いたと批判している。
第3問
設問の要求は,藩営専売によっても藩経済の自立が困難な理由。条件として,幕藩体制下での⒜都市のあり方や⒝商品 流通のあり方を視野に入れることが求められている。
まず,藩経済の “何からの自立” が問題になっているかを確認することが必要である。
問題文では “何からの自立” なのかが明記されていないが,幕藩体制下であることを考えれば “幕府の統制” からの自 立であることは想像つくだろう。そのことを念頭において条件⒜⒝の内容をチェックしよう。
まず,条件⒝幕藩体制下の商品流通のあり方
大坂・江戸といった中央市場に流入する商品流通のパターンといえば,⑴大名ルートの蔵物の流通,⑵民間商人ルート の納屋物の流通という2パターンがあった。
まずはそれらの流通のあり方を確認しておく。
⑴蔵物の流通
大名の収入源は年貢だが,石高制にもとづいて米納が原則であり,参勤交代や都市消費生活の費用をまかなうには年貢 米の換金が不可欠となる。そこで大名は, 17 世紀後半に河村瑞賢により整備された東西廻り航路を通じて江戸・大坂に年 貢米を廻送,蔵屋敷に保管し,蔵元を通じて売却した。
⑵納屋物の流通
17 世紀後半以降,小農経営が安定して農業生産が発達するなか,農村部では商品作物の栽培がさかんになり,その結果,
さまざまな商品が民間商人の手によって大坂・江戸へと集荷されていく。
この2つのパターンは大坂・江戸という中央市場への商品の移入(流入)のあり方であるが,大坂から江戸への商品の 移出,大坂・江戸という中央市場から全国各地への商品の移出のあり方といえば,民間商人ルートの流通に一本化される。
このような形で商品流通をになっていた民間商人が組織していた同業者組合を仲間という。それに対して幕府は,享保