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1989 年度

さらに 19 世紀になると,大蔵永常の『農具便利論』 (1822 年)や『広益国産考』 (1844 年)が刊行され,

広く全国に流布した。

このような現象から,江戸時代の農村社会では,どのようなことが起きていたと考えられるか。5行

以内で記せ。

第4問

1882 〜 1883(明治 15 〜 16)年,伊藤博文らは,ドイツをはじめヨーロッパ諸国において,憲法 や立憲的諸制度の調査にあたった。その際,彼等はしばしばドイツの政治家や学者などから,明治維新 以来日本政府が進めてきた改革は余りに急進的であり,日本がいま立憲政治を取り入れようとするのは,

必ずしも賢明なこととはいえない,とする忠告を受けたといわれる。

そこで,諸君が伊藤博文らの調査団に加わっていたと仮定し,上述のようなドイツ側の忠告に対して,

日本として立憲政治を取り入れる必要があることを説明する文章を8行以内で記せ。

解法の研究

第1問

A 設問の要求は,検非違使庁と蔵人所の形成過程。条件として史料文を参考とすることが求められている。

まず,検非違使や蔵人について知っていることを整理してみよう。

検非違使…嵯峨天皇のもとで設置され,京内の治安維持など警察の任務にあたったが,のちには衛府や弾正台・刑部省・

京職の職務を吸収し,訴訟・裁判の業務も担うようになった。→役所が検非違使庁

蔵人…平城上皇と嵯峨天皇の対立にともなう朝廷の分裂(これが薬子の変に発展)に対処するため,嵯峨天皇が 810 年に設置したもので,機密文書を扱わせ,天皇の側近にあって詔・勅の伝達や訴訟などを太政官にとりつぎ,太政官 をつうじないで天皇の命令をくだせるようにした。→役所が蔵人所。

次に,史料文を参照しよう。

先に確認したことがら以外のデータといえば,

 蔵人所について “蔵人頭は内廷以外の種々の行政にもあずかるようになった”

だけ。これを先のデータに追加して答案を完成させよう。

B 設問の要求は,検非違使庁や蔵人所などの令外官が形成される歴史的背景。

設問の「など」には一体どのような令外官が含まれているのか不明。非常に曖昧な(悪くいえばいい加減な)表現だが,

ここでは,検非違使庁と蔵人所だけに限定して,その歴史的背景を考えよう。

さて,検非違使・蔵人が設置されたのは嵯峨天皇のときだが,嵯峨天皇を含む平安初期といえば,律令体制の再編期で ある。まずそこから考えてみよう。

公民支配が動揺するなか,朝廷の財政難がますます深刻となり,それに対処するため,朝廷では官司や官人の整理・統 合が行なわれて律令政治の効率化・簡素化とともに,財政負担の軽減がはかられていた。そして,それ以前から社会の変 化に応じてさまざまな法令がだされたが,それらの法令を,律令の規定を改正するものとしての格と,施行細則としての 式とに分類・編集し,律令体制を当時の政治や社会の実情に即したものへと再編成しようとする動きも進んでいた。

こうした時代背景を考慮に入れれば,新たな令外官が設置されてそのもとにさまざまな官庁の職務が吸収されていった ことは,官庁の整理・統合(統廃合)を進め,財政負担の軽減をはかるという意味をもっていたことは察しが付くはず。

また,検非違使庁や蔵人所は天皇直属の官庁であり,さらに検非違使や蔵人は,官職に就いている者のなかから天皇が 特別に任命する職であった。たとえば蔵人頭の場合,近衛中将(左右近衛府の次官)や大弁・中弁(左右弁官の長官・次 官)という官職についている貴族が任じられ,もとの官職を兼任したまま,蔵人所を構成した(なお頭中将は蔵人頭兼近 衛中将のこと)。その結果,天皇は,検非違使庁や蔵人所を通じて律令官庁の重要機能を掌握できるようになったのである。

桓武天皇以来,天皇に権力を集中させて貴族をおさえながら,積極的に政治を改革しようとする動きが進んでいたが,検 非違使庁や蔵人所といった新しい令外官の形成はそうした動きの一環でもあったのである。

なお,天皇への権力集中とそのもとでの律令官庁の再編成は宇多・醍醐朝に完成を迎えるが,それを前提として摂政・

関白が制度として定着する。天皇への権力集中が進んだがゆえに,天皇個人の能力いかんにかかわりなくその権限を行使 できる体制として,摂政・関白が登場されたのである。

【解答例】

A検非違使庁は嵯峨天皇が設置し,京内の治安維持にあたったが,後には弾正台などの職務を吸収した。蔵人所は,

平城上皇と嵯峨天皇の対立にともなう朝廷の分裂に対処するために嵯峨天皇が設置し,機密文書を扱ったが,後には 朝廷内の様々な実務に関与した。

B律令制が動揺するなか,桓武天皇以降,律令政治の再編成が進められていた。嵯峨天皇は検非違使庁や蔵人所といっ た新しい天皇直属の令外官を設置し,そのもとで律令官制の統廃合を進めることで,天皇の政治的主導権を確保する と共に,財政負担の軽減を図った。

第2問

A・Bの解説は省略。

C 設問の要求は,元寇後の日元貿易。

条件として,⒜問題文をふまえること,⒝日明貿易との関連にも注意すること,が求められている。

日元貿易の内容・特徴を確認しておこう。

まず,日宋貿易に共通する特徴として

⑴正式な国交はなかったものの,

⑵民間商人による私的な貿易が活発-中国を中心とする東アジア通商圏(民間貿易のネットワーク)のなかに組み入れ られていた-

また,設問Bで問われているように

⑶鎌倉・室町両幕府も貿易船を派遣して寺院の修理造営費用を調達(建長寺船や天竜寺船など)

さらに,中国だけでなく朝鮮も対象としていたが,

⑷倭寇(日本人を中心とする海賊集団=武装商人集団)がさかんに活動 次に,条件について。

⒜問題文のデータ。

韓国沖から引き上げられた難破船は,京都の東福寺の修理造営の費用を調達するために中国に派遣された貿易船で,

莫大な中国産の陶磁器,中国の銅銭,紫檀などの貴木・胡椒などの香料を積んでいた。

ここからは,寺院の修理造営のための資金を得るために幕府・朝廷が貿易船を派遣したというデータ(→⑶)以外に,

⑸中国から陶磁器や銅銭などを輸入していた

という日元貿易の内容に関するデータを引き出すことができる。これは日明貿易に共通していることがわかる。

⒝日明貿易との関連。

“日明貿易との対比” ではないから “相違点” を指摘するのではなく “共通点” を指摘しておきたい。

まず⑵に関連して。

日元貿易は私的な貿易であるのに対し,日明貿易が国家間の公的な貿易であるという相違点はあるものの,日明貿易も 民間レベルでの活発な貿易活動・中国を中心とする東アジア通商圏を前提としている点では共通している。

次に⑶に関連して。

建長寺船や天竜寺船は寺院の修理造営費を調達するために派遣されているが,その内容として新たに次の2点を指摘で きる。

○幕府公認の貿易船(公許貿易船と称される)

○民間貿易の利益に着目した(民間貿易の利益を吸収しようとした)

これに対して日明貿易は

☆中国への渡航船を日本国王=将軍派遣の遣明船に限定(中国皇帝から与えられた勘合を所持)

☆そのことを通じて幕府が貿易の利益を独占

という特徴をもち,建長寺船のような公許貿易船の延長線上に日明貿易があることがわかる。

なお,⑷の倭寇は “私的な貿易が活発” の一例として挙げてもよい。

【解答例】

A銅・刀剣(・硫黄)

B建長寺船

C元寇後も元との正式な国交はなかったが,僧侶や商人がさかんに往来し私的な貿易が活発だった。鎌倉・室町両幕 府も貿易の利益に着目して公認の貿易船を派遣し,中国産の銅銭や陶磁器を輸入したが,こうした貿易の延長線上に 日明間の勘合貿易が展開する。

第3問

設問の要求は,農書の流布・普及という現象から,江戸時代の農村社会でどのようなことが起きていたと考えられるか。

農書が農業技術の普及を目的として出版されたことを考えれば,農書が広く流布・普及した背景に,新しい農業技術を 摂取しようとする百姓の積極的な姿勢が存在したことがわかるだろう。つまり,“百姓が新しい農業技術を摂取しようとし た背景” を考えていけばよいのである。その際,⑴百姓がどのような状態にあったか(経営のあり方・特徴),⑵農書には

“どのような農業の技術・知識” が紹介されているのか,の2点に注意しよう。

⑴百姓がどのような状態にあったか(経営のあり方・特徴)。

問題文には 17 世紀末の宮崎安貞『農業全書』と,19 世紀前半の大蔵永常『農具便利論』『広益国産考』があげられて いるのだから,17 世紀末(元禄期)と 19 世紀前半(化政〜天保期)に分け,百姓の経営のあり方とその変化を考えてい こう。

◦ 17 世紀末(元禄期)

江戸時代(とりわけ前期)の農業経営は,“せまい耕地” と “小規模な家族の労働” を基礎とする小農経営を特徴とするが,

17 世紀後半,幕府・大名による小農維持策--稲作を第一とし商業的農業を抑制して没落を防止--を背景として確立・

安定した(1987 年第3問も参照のこと)。その時期は耕地の拡大がほぼ限界に達した時期でもあり,稲作中心の農業経営 を安定させるため,せまい耕地と小規模な家族の労働を効率的に活用することによって単位面積あたりの収穫高を増加さ せるかたちで,農業生産力の向上がはかられていく。具体的には,二毛作の拡大,肥料の多用,農具の改良による農作業 の省力化・集約化である。

他方,17 世紀後半に全国的流通網が整備されて商品流通が発達すると,都市での消費需要の拡大に対応して桑・麻・綿・

菜種・楮・櫨などを商品作物として栽培する動きも進む。

元禄期は,このような農業生産の発展が先進地域を中心にめざましく進んでいた時期であり,それにともなって農民が 商品経済にまきこまれ,農村では階層分化が進んで本百姓を中心とする村の共同体秩序が動揺しはじめた時期でもあった。

◦ 19 世紀前半(化政〜天保期)

享保期以降に幕府・諸藩が稲作第一の農政を転換し,商品作物の栽培を奨励するなど殖産興業政策を進めたこともあっ て-農民政策も小農維持策から地主・豪農の存在する現実を認めた農政へと転換-,18 世紀以降,農村では商品作物の 栽培を中心とする商業的農業がいちじるしく発展する。さらに,商品作物を農村内部で集荷・加工する動きも進む。手工 業はもともと都市を中心に存在していたが,農村の副業としても広く行われるようになったのである。こうして都市向け の商品生産が拡大するにつれて,それぞれの地域の特性に応じた特産物が各地に生まれていく(全国的流通網の発達を背 景とした社会的分業の進展)。

これが 17 世紀末から 19 世紀前半の間に生じた変化であり,19 世紀前半には文政金銀の鋳造で通貨流通量が増加した こともあいまって商品経済はさらに大きく発展していた。

⑵農書には “どのような農業の技術・知識” が紹介されているのか。

問題文では,宮崎安貞の『農業全書』について「中国の農書の影響を受けながらも,実際の観察と経験にもとづく農 業の知識を集大成したものと評価されている」との説明がなされているだけで,大蔵永常の『農具便利論』『広益国産考』

については説明がない。しかし,『広益国産考』が商品作物の栽培法やその加工製造法について書かれた農書であること は知っているはずだから,両者の違いは判断できるだろう。

簡潔に言えば,宮崎安貞の『農業全書』が「農業の知識を集大成」したものであるのに対し,大蔵永常の『農具便利論』

『広益国産考』は農具や商品作物といった個別の技術を専門的に扱ったものである。

より具体的に説明すると,次のようになる。

『農業全書』は新しい農業知識や栽培技術を集大成したもので,小農経営に適応した集約農業の進め方を網羅的に紹介 していたが,それをもとにしながら,会津の『会津農書』や加賀の『耕稼春秋』など,各地の農業の実情に応じた農書も 多数刊行されるようになる。そうして先進地域の農業知識・技術が各地に普及するなか,先に確認したような都市向けの 商品生産-商品作物の栽培(商業的農業)や農村加工業-が展開する。それに対応して,商品経済の進展に対応した農業 経営のあり方,より効率よく収益を高めることのできる農業知識・技術が,個別的かつ専門的に要求されるようになって