第1問
律令制のもとでの郡司は,政治的・社会的にどのような存在であったか。次のア〜エの文章を参考に して,7行以内で述べよ。
ア 他田日奉部直神護という人は,自分の祖父も,父も,兄も下総国の郡司をつとめたので,自分も 郡司に任じてほしいと願い出た。
イ 相模国のある郡司は,貧しい人々に代って,調・庸の布 700 端余り,出挙の稲 l 万 1000 束余り を納め,また,飢えに苦しむ人々に稲 5000 束余りを支給して,表彰された。
ウ 律令の規定では,郡司は,道路でその国の国司に出あった場合,原則として馬から下りなげれば ならなかった。郡司の勤務成績は,毎年国司によって判定され,中央に報告された。
エ 律令の規定では,刑罰のうち最も軽い笞罪については,郡司が執行することが認められていた。
郡司はまた,戸籍・計帳の作製や,調・庸を都に運ぶ人夫の監督,租や出挙の稲穀を納める正倉の
管理などにもたずさわった。
第2問
守護大名と戦国大名のちがいは,室町幕府が戦国時代においても存続し,戦国大名の多くか将軍から 守護に任命され,みずから守護と称したこともあって,形式的には必ずしも明瞭ではない。下記の文章は,
『今川仮名目録』のなかの条文の一部を現代文に訳したものである。ここで,戦国大名今川氏は,みず から「守護(使)不入地」に対する位置づけの相違をとおして,両者のちがいを明らかにしている。こ れを中心にして,守護大名と戦国大名のちがいを,6行以内で述べよ。
もともと,「守護使不入」というのは,将軍が全国の支配権をもち,諸国の守護を任命していた時代
のものである。(ところで,そのような政治体制のもとでは,)守護使不入であるといつても,(将軍か
ら守謹使不入の特権を与えられた者が,)不入地に対する将軍の干渉を拒否することはできないであろ
う。(それと同じ理屈で,)現在は,一般に(大名が,)自分の力で国法を制定し,領国内の秩序と平和
を維持しているのであるから,(大名が認めてやった守護使不入地に対し,)大名の干渉をまったく許さ
ないということは,あってはならないことなのである。
第3問
1853(嘉永6)年から 1899(明治 32)年に至る日米関係の変遷を 10 行以内で述べよ。なお,解 答文では下記の語句(年次は省略してよい)を少くとも1回は使用し,最初に用いたところに下線を施せ。
日米和親条約(1854 年) 日米修好通商条約(1858 年)
改税約書(1866 年) 日米通商航海条約(1894 年)
解法の研究
第1問
問われているのは,律令制度のもとでの郡司が政治的・社会的にどのような存在であったか。
まず,資料文ア〜エの内容を確認しておく。
ア 事実上の世襲制。
イ 貧民や飢えに苦しむ人びとの保護・扶助を積極的に行った。
ウ 国司に厳しく監督・統制をうけた。
エ 地方行政の実務を担当した。
これらのうち,資料文イの内容が最も把握しづらいだろう。郡司にはもと国造クラスの伝統的な地方豪族(在地の豪族)
が任じられ,彼らは「農民に対する実質的な支配力」(山川『詳説日本史』)を持っていたというが,その「実質的な支配力」
の具体例が資料文イ。いいかえれば,地域の民衆たちの農業経営と租税負担能力を維持・保障することのできる力である。
それを基礎づけていたのは彼らが掌る神々の祭祀であり,地方豪族たちは神々の祭祀を通じて地域の民衆を共同体秩序の もとに編成し,そのことによって民衆の農業経営と租税負担能力を保障・再生産していたのである。
こうした地方豪族の支配力があってはじめて律令制にもとづく地方支配が実現しえたのであるが,郡司は国司に対して 従属的地位におかれ,その厳しい監督・統制のもとにあった。そのことによって律令政府は律令制原理の地方への徹底を はかったわけだが,伝統的な地方豪族にしてみれば,6世紀以降の有力農民の台頭という事態のなかでその支配力を低下 させており,律令国家-郡司という官職-をよりどころとすることによって地域の民衆に対する実質的な支配力を確保し えたという側面も持っていたのである。
【解答例】
郡司は,民衆に対する実質的な支配力をもつ旧国造など在地の豪族から世襲的に登用され,貧しい人々や飢えに苦し む人々の保護など在地の相互扶助活動において指導的役割をはたした。中央から派遣される国司に対して従属的地位 に置かれたものの,戸籍・計帳の作製や調庸を都に運ぶ人夫の監督,租や出挙の稲穀を納める正倉の管理など地方行 政の実務にたずさわった。このように律令制的地方支配は,郡司による在地社会の把握に依拠して初めて機能した。
第2問
設問の要求は,守護大名と戦国大名のちがい。条件として,今川仮名目録における「守護(使)不入地」に対する位置 づけを中心とすることが求められている。
問題文に「戦国大名今川氏は,みずから「守護(使)不入地」に対する位置づけの相違をとおして,両者のちがいを明 らかにしている」とある。守護使(守護大名の派遣する役人)の介入を拒否できる「守護使不入地」が『今川仮名目録』(史 料文)のなかでどのように位置づけられているのかを明確にしよう。
守護大名は,その領国支配を実現するにあたって,将軍から守護職に任じられることを不可欠な要素としており,将軍 の全国支配を背景として領国支配を実現していた。つまり,地域の最高権力者は守護大名ではなく将軍であった。
史料文によれば,「守護使不入」の特権が有効なのは,そうした時代においてのことである。そして,「守護使不入」と は守護大名の干渉を拒否できる特権でしかなく,その特権を付与した将軍権力の干渉は拒否することができない。
ところが,戦国大名は自分の実力で領国(分国)支配を実現している。つまり,戦国大名が地域の最高権力者であり,
あらゆる特権を付与する主体である。
史料文でも,「自分の力で国法を制定し,領国内の秩序と平和を維持しているのである」と表現されている。そうした 段階では,旧来の「守護使不入」という特権は有効ではなく,もし「不入」の特権が改めて認められたとしても,あらゆ る特権を付与する主体である戦国大名の干渉を拒否することはできない。
つまり,両者の違いは「守護使不入」という特権を許容するか否かにあるが,そのことは「守護使不入」という特権を
付与する主体=地域の最高権力を誰が掌握しているかをめぐる相違である。
なお,戦国大名は城下町に新しく楽市を開設するだけではなく,寺内町など,すでに楽市として存在していた市場や町 を対象としても楽市令を出し,これら既存の楽市の特権を保障している。同じ話である。
【解答例】
守護大名は任国に対して地域的支配権を実現したものの,その権限は守護職への補任によって幕府から与えられたも のであり,幕府により設定された守護使不入地を否定することはできなかった。しかし,戦国大名は形式的には守護 を称すことはあれ,自己の実力で分国を形成しており,そのことを根拠に地域の最高権力を掌握し,守護使不入など あらゆる特権を付与する主体であることを標榜した。
第3問
設問の要求は,1853(嘉永6)年から 1899(明治 32)年に至る日米関係の変遷。条件として,4つの指定語句を使用し,
最初に用いたところに下線を施すことが求められている。
簡単そうに見えるが,見た目以上に難しい。
どこが難しいかというと,-指定語句でいえば-日米和親条約(1854 年)と日米修好通商条約(1858 年)については,
アメリカを主語にして記述できるのだが,それ以降について書こうとすると,南北戦争がはじまるとアメリカが対日外交 から後退してイギリスが対日外交を主導していくこともあって,アメリカと日本との関係を中心にすえて記述するのがな かなか難しくなる。その点を意識していないと,「米国が南北戦争のため対日政策に消極的になると,代わって英国が貿 易の主導権を握り,英公使パークスは改税約書を締結して税率を引き下げた」(Z会)や「幕末の貿易の中心は英国で,パー クスは改税約書を締結して関税を大幅に引下げさせた」(青本)のような文章を書いてしまう。これでは,改税約書の調 印が日米関係とは関係のない出来事として記述されてしまい(改税約書の調印にはアメリカも関与している),設問の要 求に適切に応えたことにはならない。
いくつかの段階で時期区分し,それぞれの特徴を明確化しよう。
⑴対日外交を主導
ペリー来航…北太平洋での捕鯨業の補給基地・中国貿易の中継基地を確保するために日本の開国を要求 日米和親条約…日本との国交樹立に成功
日米修好通商条約…不平等条約のもと日本を世界市場に包摂(自由貿易体制に組み入れる)
⑵南北戦争による後退→対日外交の主導権がイギリスに移る イギリスに追随…四国艦隊下関砲撃事件や改税約書
→自由貿易体制の堅持・日本市場の欧米経済へのさらなる従属化を推進 イギリスとの違い…条約改正交渉に友好的
〜岩倉遣外使節の交渉には応じなかったが,寺島の協定関税撤廃交渉には応じる(日本市場をめぐる貿易上の利害 関係が希薄だったことが背景)
⑶イギリスの日本接近
→対等な外交関係への移行…日米通商航海条約(1894 年調印→ 1899 年発効)
なお,アメリカは 1898 年ハワイを併合,フィリピン群島を領有して太平洋地域に進出し,1899 年には中国を対象と して門戸開放・機会均等主義を表明している。一方,日本は 1895 年台湾を領有,1898 年清に福建省の不割譲を約束さ せるなど,南進の動きを見せていた(その延長線上に 1900 年北清事変に乗じた厦門占領の計画がある)。このように,
1899 年ころは中国・太平洋地域をめぐって日米関係が緊張する時代が幕をあけはじめたころである。ただし,日露戦後 ほどの緊張状態は存在せず(ハワイ併合をめぐって若干の軋轢は存在したが “対立” として特記するほどのものではない),
教科書レベルでも日米関係の緊張は “日露戦後の南満州市場をめぐる対立” として初めて記述されるのが一般的なので,
そこまで答案のなかに含める必要はない。