第1問
弘仁・貞観期から摂関期にかけての文化の展開を,文芸・宗教・生活などの各分野の動向に触れなが
ら,7行以内で述ベよ。
第2問
下の文章とグラフを読み,設問A,Bに答えよ。
治承4年(1180),源頼朝が伊豆国に,義仲が信濃国に兵を挙げた。早速,平氏は追討使を東国に 派遣するとともに,奥州の藤原氏,越後国の城氏と連絡をとり,彼らに頼朝・義仲の追討を託した。
やがて城氏は信濃に入り,義仲と戦って敗れるが,以後,東国は全くの戦乱状態に陥った。元暦元年
(1184)になると,頼朝は北陸道にまで支配圏を伸ばし,所々に鎌倉から地頭を送りこんでいった。
グラフは,城氏の根拠地の一つであった摂関家の荘園,越後国白河荘の作田数の変化を,建久8 年(1197)に荘官が荘園領主ヘ提出した報告書から作成したものである。作田数とは,荘園領主が 年貢・公事を収納する基準となる田数のことで,治承4年に限って報告のないのは,城氏がすベて兵 糧米にとってしまったからである。
越後国白河荘の作田数の変化
設問A 朝廷は治承5年に養和,翌年に寿永と改元したが,報告書では治承の年号がそのまま使われ ている。それは何によると考えられるか。2行以内で答えよ。
設問B グラフから荘園と東国武士団との関係を読みとり,そこに見出される武家政権の成立の意義
を考え,5行以内で記せ。
第3問
以下の江戸幕府法令を読み,その農民政策の基調と農民観とについて5行以内で述ベよ。
①寛永20年3月の代官に対する法令から
一,身上よき百姓は田地を買い取り,いよいよ宜しくなり,身上成らざるものは田畑を沽却(売却)
せしめ,猶々身上成るべからざるの間,向後(以後)田畑売買は停止たるベき事。
一,身上ならざる百姓は,諸代官精を入れ,万事差し引き致すベし,その上にても続きがたきものに は,見合いに食物の類これを貸し,身代もち立て侯ように念を入るベき事。
②慶安の御蝕書から
一,公儀御法度を恐れ,地頭(領主)・代官の事をおろかに(おろそかに)存ぜず,さて又名主・組 頭をば其の親と思うベき事。
一,耕作に精を入れ,田畑の植えよう,同じく拵えように念を入れ,草はえざるように仕るべし,草 をよく取り,切々作の間ヘ鍬入れを仕り候えば,作もよく出来,取り実も多くこれ有り。
付けたり,田畑の境に大豆・小豆など植え,少々足りにも仕るベき事。
一,朝おきを致し,朝草を刈り,昼は田畑耕作にかかり,晩には縄をない,俵をあみ,何にても,そ れぞの仕事,油断なく仕るベき事。
一,家主・子供・下人等迄,ふだんは成程(でざるだけ)粗飯を食うベし。但し,田畑をおこし,田 をうえ,いねを刈り,一入ほねおり申す時分は,ふだんより少し食物をよく仕り,たくさんに食わ せ,つかい申すべく候。その心づけあれぱ,精を出すものに候事。
年貢さヘすまし候ヘば,百姓ほど心やすきものはこれ無し。よくよくこの趣をこころがけ,子々
孫々まで申し伝え,よくよく身持ちをかせぎ申すべきもの也。
第4問
第一次大戦の際の日本をめぐる国際環境と第二次大戦の際のそれとを比較し,その相違点を,5行以
内で述ベよ。
解法の研究
第1問
設問の要求は,弘仁・貞観期から摂関期にかけての文化の展開。条件として,⒜文芸・⒝宗教・⒞生活などの各分野の 動向に触れることが求められている。
まず弘仁・貞観期と摂関期(10 世紀半ば以降)の違いから確認しよう。
弘仁・貞観期の文化(弘仁・貞観文化)
⒜文芸 漢詩文がさかん(貴族・官人の教養として漢詩文の素養が重視された)
⒝宗教 天台宗・真言宗という修行を重視する新仏教が伝来…密教
⒞生活 それまでの風習に多くの唐風の儀礼を取りいれて宮廷の儀礼が整備された 摂関期の文化(国風文化)
⒜文芸 かな文字の確立→和歌・かな物語が隆盛
⒝宗教 極楽浄土への往生を求める浄土教(浄土信仰)が普及
⒞生活 宮廷では年中行事が発達し,貴族はタブー(禁忌)にしばられた生活を送った。寝殿造(白木造と桧皮葺)・ 服装の和風化。
ただし,このような単純な対比で終わってしまっては,答案としては不十分だろう。
第一に,設問では「文化の展開」が求められている。
弘仁・貞観文化と国風文化を対比して相違点を指摘にするだけでなく,連続している点(継承・発展という側面)につ いても記述することができるかどうかがポイントとなる。
⒜文芸 漢詩文は摂関期においても貴族の教養として重視され,勅撰漢詩文集こそ編纂されなかったが,『和漢朗詠集』
などが編纂されている。また,『古今和歌集』は漢詩の形式にならいつつ和歌の形式を確立しようとする目的意識から編 まれたものだとされ,『源氏物語』にしても『白氏文集』に対する教養が1つのベースになっていると言われる。つまり,
漢詩文の教養を基礎として,その吸収のうえにたって文化の国風化が進んだのである。
⒝宗教 天台・真言の顕密仏教は摂関期においても鎮護国家の仏教としての役割を果たすと共に,現世利益をもたらす ものとして皇族・貴族の尊崇を集め,その勢力をのばしていった。また奈良時代以来の神仏習合がいっそう強まり,日本 の神は仏が仮に姿をかえて現われたものとする本地垂迹説が唱えられるようにもなった。
⒞生活 弘仁・貞観期以降,天皇を中心とする貴族社会の秩序維持のために儀礼が導入・整備されていった結果が,摂 関期における年中行事の発達であり,タブー(禁忌)の肥大化であった。
第二に,上記のような違いが生じるに至った背景を明確にする必要がある。
国風文化形成の背景を,“遣唐使廃止→大陸文化の影響が減少→文化の国風化” という図式で理解している受験生が多い のではないかと思うが,遣唐使が廃止されたからといって大陸文化の流入・大陸からの直接の影響が減少するわけではな い。遣唐使が廃止されたのは,⑴唐の混乱・衰退,⑵朝廷の財政難とともに,⑶9世紀ころから唐や新羅の民間商人が九 州に盛んに来航して大陸の文物(唐物と称された)を今まで以上にもたらすようになっていたことが原因であった。つまり,
大陸の文物が流入しなくなったから文化の国風化が進んだのではなく,大陸の文物がさかんに流入するという状況のもと で文化の国風化が進んでいたのである。
では,文化の国風化が進んだ背景はなにか。
一つには,唐の衰退=東アジアにおける唐を頂点とした国際的な政治秩序の崩壊と,そのなかでの周辺諸民族の自立化。
その日本における発現形態の1つが,かな文字の確立に象徴される文化の国風化であった。
二つには,律令国家・貴族社会の変質。律令国家の再編過程のなかで,貴族社会の編成原理が官僚制原理から天皇との 私的関係へと変質していったこと。
弘仁・貞観期(つまり平安前期)は律令国家の再編が進んだ時期であるが,その時期は天皇が強い権力をにぎって貴族 をおさえ,律令制原理の徹底(中国化の徹底)が進められた時代であった。
もともと日本の律令国家は,法(律令)による支配が導入されていたものの,貴族社会や地方豪族のもとでの在地社会 の秩序維持を神話(神々の信仰)に依存していた。そのための措置が神祇官の設置であり,天皇家の神話を軸とする諸神 話の統合(『日本書紀』や『風土記』の編纂)であった。ところが,8世紀半ばころから神話(神々の信仰)にもとづく 社会秩序は動揺を迎える。その象徴が,飢饉・疫病に直面して昂じた仏教の鎮護国家思想であり,国分寺・大仏造立事業 の展開である。それらは,もはや神話(神々の信仰)では社会秩序の維持が果たせず,仏教にその役割を期待する時代が 訪れていたことを示している。
そうしたなかで桓武天皇以降,法(律令格式)による支配がさらに徹底される一方,儀礼による秩序維持がしだいに重 視されるようになる。弘仁・貞観・延喜3代にわたる格式の編纂,令義解の編纂が進み,さらに貴族・官人に対して漢詩 文や歴史の教養が強く求められていく一方で,弘仁・貞観・延喜3代の儀式(朝廷の礼儀作法やその次第を規定した書)
の編纂を経て,宮廷の儀礼が形成されていったのだ。
注 こうした儀礼の整備とは,いわば天皇が “神” にかわって現実世界を操作しようとする過程であり,タブー(禁忌)
をフィクション化して観念的操作の対象とし,社会の秩序維持を図ろうとする過程である(フィクションにより天皇 の身体→内裏-京という空間を浄化させていく)。
ところが,天皇への権力集中をともないながら律令国家の再編がすすめられた平安前期は,天皇が検非違使庁や蔵人所 を通じて律令官庁の重要機能を掌握できるようになっていく過程であり(1989 年度第1問を参照),それゆえに貴族社会 の編成原理が官僚制原理から次第に天皇との私的関係(個人的な結びつき)へと変質していく過程でもあった。いわば公(漢 文)への私(かな)の浸透という事態。中国化の延長としての脱中国化,それが文化の国風化だった。
【解答例】
唐を中心とする国際秩序が解体し,国内では律令国家が変質して貴族社会が成熟するなか,唐風文化の吸収の上に文 化の国風化が進んだ。文芸では漢詩文の教養が重視される一方,かな文字の確立を背景に和歌などかな文学が隆盛し た。宗教では密教が現世利益をもとめる貴族に普及する一方,神仏習合が進み,さらにケガレ忌避意識が肥大化する なかで新たに浄土信仰が広がった。生活では貴族の住宅が和風の寝殿造へ変化し,服装や調度品などの和風化も進ん だ。
第2問
設問A 設問の要求は,朝廷が治承5年に養和,翌年に寿永と改元したにもかかわらず,報告書では治承の年号がそのま ま使われていた理由。
問題文によれば,報告書は「建久8年(1197)に荘官が荘園領主ヘ提出した」ものであり,元暦元年(1184)以降,
源頼朝が「北陸道にまで支配圏を伸ばし,所々に鎌倉から地頭を送りこんで」いる。ということは,報告書を送った荘官 が御家人であるかどうかは明記されていないとはいえ,源頼朝の支配下にあることがわかるし(十月宣旨で東山・東海道 の支配権を獲得した頼朝は源義仲滅亡(1184 年)にともない北陸道の支配権もあわせて獲得していたことも想起しよう),
報告書のなかで使われている年号は源頼朝の支配地域においてその時々に使用されていた年号であるとも判断できる。つ まり,「朝廷が治承5年に養和,翌年に寿永と改元した」当時に,越後国白河荘の現地でどのような年号が使用されてい たのかについては,考慮する必要はない。
朝廷が制定した年号を使用しないこと,または別の年号を使用することは,朝廷の支配に服さず,そこから独立するこ とを意味する。源頼朝は以仁王の令旨に応じ,安徳天皇を擁する朝廷に対して反乱を起こしているのだから,朝廷による 改元(年号の変更)を認めるわけはない。
なお,平氏の都落ちにともなって京都では後鳥羽天皇が即位し,その朝廷との間で和解を果たした源頼朝は,後鳥羽天 皇を擁する朝廷が用いる年号を使用するようになる。
設問B 設問の要求は,⑴グラフから荘園と東国武士団との関係を読みとること,⑵そこに見出される武家政権の成立の 意義。
まず東国武士が荘園公領制における職の秩序のなかでどのような位置を占めていたかを考える。