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2005 年度 第 1 問 次の平安時代初期の年表を読み, 下記の設問に答えなさい 809 年 嵯峨天皇が即位する 810 年 蔵人所を設置する 812 年 この頃, 空海が 風信帖 を書く 814 年 凌雲集 ができる 816 年 この頃, 検非違使を設置する 818 年 平安宮の諸門 建物の名称

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2005 年度

第1問

次の平安時代初期の年表を読み,下記の設問に答えなさい。

809 年

嵯峨天皇が即位する

810 年

蔵人所を設置する

812 年

この頃,空海が『風信帖』を書く

814 年

『凌雲集』ができる

816 年

この頃,検非違使を設置する

818 年

平安宮の諸門・建物の名称を唐風にあらためる

 

『文華秀麗集』ができる

820 年

『弘仁格』『弘仁式』が成立する

821 年

唐風をとり入れた儀式次第を記す勅撰儀式書『内裏式』が成立する

 

藤原冬嗣が勧学院を設置する

823 年

嵯峨天皇が譲位する

827 年

『経国集』ができる

833 年

『令義解』が完成する

842 年

嵯峨上皇が死去する

設問

嵯峨天皇は,即位の翌年に起きた藤原薬子の変を経て権力を確立し,貴族をおさえて強い政治力

をふるい,譲位した後も上皇として朝廷に重きをなした。その結果,この時期 30 年余りにわたって

政治の安定した状態が続くこととなった。古代における律令国家や文化の変化の中で,この時期はど

のような意味をもっているか。政策と文化の関わりに注目して,6行以内で説明しなさい。

(3)

第2問

次の文章は,鎌倉幕府執権北条泰時が,弟の六波羅探題重時に宛てて書き送った書状の一節(現代語

訳)である。これを読んで,下記の設問A・Bに答えなさい。

この式目を作るにあたっては,何を本説⑴として注し載せたのかと,人々がさだめて非難を加え

ることもありましょう。まことに,これといった本文⑵に依拠したということもありませんが,ただ

道理の指し示すところを記したものです。(中略)あらかじめ御成敗のありかたを定めて,人の身分

の高下にかかわらず,偏りなく裁定されるように,子細を記録しておいたものです。この状は,法令

⑶の教えと異なるところも少々ありますが,(中略)もっぱら武家の人々へのはからいのためばかり

のものです。これによって,京都の御沙汰や律令の掟は,少しも改まるべきものではありません。お

よそ,法令の教えは尊いものですが,武家の人々や民間の人々には,それをうかがい知っている者など,

百人千人のうちに一人二人もおりません。(中略)京都の人々が非難を加えることがありましたなら,

こうした趣旨を心得た上で,応答してください。

(注)⑴本説,⑵本文:典拠とすべき典籍ないし文章

   ⑶法令:律令ないし公家法

設問

A 「この式目」を制定した意図について,この書状から読みとれることを,2行以内で述べなさい。

B 泰時はなぜこうした書状を書き送ったのか。当時の朝廷と幕府との関係をふまえて,4行以内で

説明しなさい。

(4)

第3問

次の⑴〜⑶の文章を読んで,下記の設問に答えなさい。

⑴ 江戸時代,幕府の軍事力は直参である旗本・御家人とともに,大名から差し出される兵力から成っ

ていた。大名は,将軍の上洛や日光社参には家臣団を率いて御供したが,これらも軍事動員の一種

であった。

⑵ 幕府は,動員する軍勢の基準を定めた。寛永年間の規定によると,知行高1万石の大名は,馬上(騎

乗の武士)10 騎・鉄炮 20 挺・弓 10 張・鑓 30 本などを整えるべきものとされ,扶持米を幕府か

ら支給された。

⑶ 村々から百姓が兵糧や物資輸送などのために夫役(陣夫役)として徴発された。たとえば幕末に,

幕府の年貢米を兵糧として戦場まで輸送した際には,村高 1000 石につき5人が基準となった。

設問

このような統一基準をもった軍事動員を可能にした制度について,江戸時代の支配の仕組みにふ

れながら,5行以内で説明しなさい。

(5)

第4問

次の文章は,吉野作造が 1916 年に発表した「憲政の本義を説いてその有終の美を済すの途を論ず」

の一部である。これを読んで,下記の設問に答えなさい。

憲法はその内容の主なるものとして,⒜人民権利の保障,⒝三権分立主義,⒞民選議院制度の三

種の規定を含むものでなければならぬ。たとい憲法の名の下に,普通の法律よりも強い効力を付与せ

らるる国家統治の根本規則を集めても,以上の三事項の規定を欠くときは,今日これを憲法といわぬ

ようになって居る。(中略)つまり,これらの手段によって我々の権利・自由が保護せらるる政治を

立憲政治というのである。

設問

大日本帝国憲法と日本国憲法の間には共通点と相違点とがある。たとえば,いずれも国民の人権

を保障したが,大日本帝国憲法では法律の定める範囲内という制限を設けたのに対し,日本国憲法に

はそのような規定はない。では,三権分立に関しては,どのような共通点と相違点とを指摘できるだ

ろうか。6行以内で説明しなさい。

(6)

解法の研究

第1問

問われているのは,嵯峨天皇・上皇が朝廷に重きをなした時期が,古代における律令国家や文化の変化の中でもつ意味。 条件として,政策と文化の関わりに注目することが求められている。 まず,嵯峨天皇・上皇が朝廷に重きをなした時期(嵯峨期と表現しておく)が「律令国家や文化」という面でどのよう な特徴をもっているのかを,考えよう。 参考年表は嵯峨期に限定されているから,そこに掲載されているデータから,嵯峨期の特徴をつかもう。 特徴をつかむためには,それらのデータをグループ分け(特徴づけ=ラベルづけしながら)することが不可欠。 ⑴ ○蔵人所を設置する ○検非違使を設置する これらは嵯峨天皇により新設された令下官であるが,どのような特徴をもつ令下官か? それまでに置かれた令下 官と何が異なるのか? 1989 年第1問に類題が既出だが,嵯峨期に新設され,9世紀を通じて整備される蔵人所,検非違使(庁)は,それ までの令下官(参議・中納言など)と異なり,官職に就いているもののなかから天皇が特別に任命する職であり,つね に他の官職を兼ねながら蔵人所・検非違使(庁)としての職務に従事した。それゆえ,蔵人所・検非違使(庁)は,そ の職員が兼ねている本官(もともと就任していた官職)の職務を吸収するようになる。検非違使が弾正台や刑部省,京 職などの職務を吸収したというのは,そうした事態についての説明である。 さらに,この2つの令下官は天皇直属であった。それゆえ,天皇は蔵人所・検非違使庁を通じて令制諸官庁の重要 な機能を(太政官とは独自のルートで)掌握することが可能となったのであり,天皇が貴族をおさえて強い指導力を発 揮する基盤がこうして形成されたのである。つまり,天皇権力の強化という平安初期の特徴的な動向を象徴的に示すの が,蔵人所・検非違使(庁)の設置・整備なのである。 ⑵ ○『弘仁格』『弘仁式』が成立する ○『令義解』が完成する しばしば法典の編纂・整備とまとめられるところ。なぜこれらの編纂・整備が必要とされたのだろうか? たとえば, 格はこのときに初めて定められたわけではない。いいかえれば,社会の実情にあった形に律令を補足・修正する作業が このときに初めて着手されたわけではない。では,格や式をまとめ直すこと,養老令の公的な注釈書を作成し,条文解 釈を統一することは,いったい誰にとって意味,もしくは効果があったのか? -それは行政を担う貴族・官人である ことは言うまでもない。このことを念頭におけば,格式や令の公的注釈書の編纂は,しばしば律令政治の立て直しと特 徴づけられるが,官僚制の整備・充実のための施策であったと位置づけることができる。 ⑶ ○唐風をとり入れた儀式次第を記す勅撰儀式書『内裏式』が成立する 朝廷での儀式とは,天皇と貴族・官人,さらには貴族・官人相互のあいだの関係や秩序を(再)確認する象徴的行 為である。それについて,唐風,儀式次第の整備,という2点が指摘されている。これは,どういう意味をもつのか? 朝廷のもとでの政治秩序を律する作業が,伝統的な儀礼(だけ)ではなく唐風をとり入れた形で進められたという のだから,⑴と関連づければ,天皇を頂点とする貴族社会の再編成,古くからの氏族という枠組みを取っ払ったところ の新しい貴族社会の構築の第1歩と位置づけることができる。 ⑷ ○『凌雲集』ができる ○『文華秀麗集』ができる ○『経国集』ができる

(7)

これらは勅撰漢詩文集。この時期は唐風文化の全盛期で,それを象徴したことがら。しかし,これほどまで漢詩文 が隆盛したのはなぜなのか? 文章経国思想の普及といえばそれまでだが,この表現を知らずとも,貴族・官人に対して行政能力とともに漢詩文 など中国的な(唐風の)教養が要請された結果と考えればよい。つまり,行政や貴族社会のあり方だけでなく貴族・官 人の教養についても唐風化が図られたのであり,いいかえれば,(天皇権力の強化も含め)唐の政治制度・文化の定着・ 浸透が意識的に図られた結果,勅撰漢詩文集の編纂が続いたのだと言える。 ⑸ ○空海が『風信帖』を書く これも唐風文化の全盛を象徴することがら。それ以外の意味を考えてもよいが,(1) 〜 (4) で見てきたこととの関連 から,唐風の教養が浸透した事例のひとつとおさえておく。 ⑹ ○藤原冬嗣が勧学院を設置する 勧学院などの大学別曹が設けられるようになったのは,大学が隆盛したため。奈良時代は,蔭位の制ゆえに大学は それほど盛んではなかったというのに,なぜ嵯峨期には大学が隆盛したのか? それは⑷ですでに確認した通り,貴族・ 官人には行政能力とともに漢詩文など唐風の教養が要請されたからであり,それらを身につけない限り(古くからの氏 族という枠組みに依拠するだけでは),貴族社会では生き残れない時代が訪れたからである。 ⑺ ○平安宮の諸門・建物の名称を唐風にあらためる これは「律令国家」に関連するのか,それとも「文化」に関することがらなのか? 行政のあり方でもなければ唐 風の教養にかかわることがらでもなさそうだ。これ以上の考察が進まない場合,唐風が全盛であった嵯峨期の雰囲気を 示すものと考えておいて,それで十分だろう。 なお,嵯峨期までの諸門は律令以前から宮門の警備を担っていた氏族の名を冠して称されていたが(朱雀門は例外), それが,氏名の読みにちなみながらも,唐風の名称へ変更されたのである。つまり,現象的な唐風化にとどまらず,古 くからの氏族という枠組みを取っ払ったところの新しい貴族社会を構築しようという方向性のなかでの政策と位置づけ ることができる。 このように特徴をつかんでくれば,「律令国家や文化の変化の中でもつ意味」はすぐに推理できるだろう。 もし特徴づけはできるが「変化の中でもつ意味」は分かりにくいというのなら,嵯峨期に始まった格式や儀式書の 編纂が清和天皇期(9世紀後半),醍醐天皇期(10 世紀前半)と継続され,そこで一つの完成を向かえること(→だか らこそ摂関政治期は貴族男性による日記が隆盛するのだし,儀式や先例を研究する有職故実という学問が登場する)を 想起すればよい。嵯峨期に始まった政策は,次の清和・醍醐期へと継承されていくのだ(国風文化が唐風の教養を規範 としていたことについては 1987 年第1問を参照のこと)。 まとめれば,嵯峨期は,天皇権力の強化とそのもとでの官僚制の整備・充実,新しい貴族社会の編成原理の創出が 本格的に始まっていった時代だったのであり,古くからの氏族の枠組みに依拠した政治・社会秩序(伝統的な社会)が 大きく変容する画期をなしていたのである。 【解答例】 9世紀前半は,格式や令の公的注釈書が編纂され,実情に即した官僚制の整備・充実が進むとともに,天皇直属の令 外官を中心とした官庁の再編,唐風を取り入れた儀礼の整備が進んで天皇の権威・権力の強化が図られ,それに伴っ て貴族・官人には行政能力と儒教・漢詩文など唐風の教養が求められた。こうして唐風の政治制度や文化が社会に浸 透・定着し,伝統的社会を変容させる画期となった。(180 字)

(8)

第2問

A 問われているのは,「この式目」を制定した意図について,この書状から読みとれること。 ポイントは「この書状から読みとれること」という設定にある。つまり,史料の内容把握が求められているのだが,史 料がたいていの教科書に掲載されている著名な史料であるため,足をすくわれかねない。史料をきちんと検討せずに,あ るいは先入観にとらわれた状態で史料を読んでしまうと,出題者のねらいをつかみそこなう。著名な史料がわざわざ現代 語訳されているのである。その形式に疑念をいだきながら史料を読みたいところである。 御成敗式目(貞永式目)については, ⑴公平な裁判を行うために定められた ⑵道理と先例に基づく ⑶初めての武家法で,適用範囲は幕府の勢力範囲に限られた くらいの知識はすぐに出てくるだろう。 実際,史料にも ⑴→「あらかじめ御成敗のありかたを定めて,人の身分の高下にかかわらず,偏りなく裁定されるように」 ⑵→「ただ道理の指し示すところを記したものです」(先例については記されていない) ⑶→「もっぱら武家の人々へのはからいのためばかりのものです」 と,対応する内容が書き記されている。 これで答案が書けてしまいそうだが,冷静にデータを確認し直してほしい。 ⑴はともかく,⑵や⑶は「制定した意図」なのか? 道理(武家社会の慣習・道徳)に基づいた法を作ろうとしたのだとの反論がかえってきそうだが,では,なぜ武家社会 の慣習・道徳に基づいた成文法が必要なのか? 御家人(武家)のための独自の法が必要だったのだとの反論もあるだろうが,では,なぜ御家人(武家)だけに適用さ れる成文法が必要だったのか? もう一つ,発問してもよい。律令,もしくはその系譜をひく公家法があるのに,それと は別個に新しく法を制定する必要がどこにあったのか? このような発問についてはさまざまな答えがあるだろうが,設問の要求に従えば,それらの答えを史料から読みとって くる必要がある。 さて,この史料(北条泰時消息文)はたいてい教科書や史料集に掲載されているが,そこでは滅多に目にすることのな い文章に気づかないか? 「およそ,法令の教えは尊いものですが,武家の人々や民間の人々には,それをうかがい知っている者など,百人千人 のうちに一人二人もおりません。」 という部分である。 御家人(武家)や民間の人々のほとんどは律令(法令の教え)を知らない,と述べられているのだ。つまり,御家人は 律令(公家法)を知っておらず,だからこそ,彼らを対象とした独自の法を彼らの慣習・道徳に基づいて制定する必要が あると,泰時はここで述べているのだ。要するに,武家独自の法典を制定することで武家社会を秩序づけることを意図し ていたわけである。 B 問われているのは,泰時が「こうした」書状を書き送った理由。条件として,当時の朝廷と幕府との関係をふまえるこ とが求められている。 問題文で明記されているように,この書状は泰時が六波羅探題に宛てて書き送った書状であるから,六波羅探題に式目 制定の事情を説明しておく必要があったのだとわかる。では,なぜ六波羅探題に説明しておく必要があったのか? 六波 羅探題の主な職務は,朝廷との交渉,京都周辺の治安維持,西国の政務・裁判などであるが,さて,どれに関連するのか? 史料に,「京都の人々が非難を加えることがありましたなら,こうした趣旨を心得た上で,応答してください」とある

(9)

のだから,朝廷との交渉に際しての説明・応答の便宜を図ろうとしたわけだ。 次に,設問文では「こうした」書状と記されているが,「こうした」の中味を確認しておこう。 Aで問われた制定の意図(武家独自の法典を制定することで武家をめぐる裁判の基準を明らかにし,武家社会を秩序づ けること)を除けば,道理に基づいた成文法であること,式目制定後も朝廷の政治や律令(公家法)は変更されないこと の2点。このうち,朝廷(の非難)への説明・応答に関連するのは後者である。 つまり,朝廷からの非難に対し,式目制定後も朝廷の政治や律令(公家法)は変更されないことを説明してもらうため, 六波羅探題に宛てて書状を書いたのである。 ところで,泰時はこのような内容の説明・応答を,なぜ朝廷に対して行おうとしているのだろうか? それを考えるた めには,条件として求められている「当時の朝廷と幕府との関係」を確認しておくことが必要である。 「当時」とは北条泰時の時代だが,「朝廷と幕府との関係」という視点からすれば,「承久の乱後」と表現することができる。 承久の乱という後鳥羽上皇の倒幕運動に勝利した幕府は,乱後,皇位継承や朝廷の政治に介入するとともに,新しく西 国に多くの地頭を任じた。そして,新しく新補地頭が任じられた荘園では経営・支配権をめぐって本所と地頭との争いも 激しくなっていた。とりわけ,当時は寛喜の大飢饉のさなかであり,紛争が頻発して秩序が瓦解しかねない危機に直面し ていた。 こうした状況のもとで幕府が式目を定めたとき,朝廷側の人々はどのように反応するか? 「京都の御沙汰や律令の掟 は,少しも改まるべきものではありません」と書き送っているところに,朝廷側の関心がうかがえる。 泰時は,朝廷側の非難に対し,その警戒を解きたかったのである。 このように泰時は,道理と先例に基づき,幕府と御家人の果たすべき任務と限界を成文化し(これが御成敗式目),こ れによって武家社会を秩序づけ,朝廷を頂点とする旧来の秩序との間で一定の折り合いをつけようとしたわけだが,ここ には,朝幕間の協調関係,いいかえれば公武二元支配を維持しようとする泰時の姿勢があらわれている。この点も指摘し ておきたいところ。 【解答例】 A幕府は独自の武家法を制定することで,公家法を理解しない御家人に対して裁判の基準を明示し,武家社会を秩序 づけようとした。(60 字) B承久の乱後,幕府は朝廷に対して優位に立ち,朝廷の政治に干渉し,西国にも勢力をのばした。そのなかでも朝幕 間の協調関係の維持をめざす北条泰時は,式目の制定が公家法や朝廷の政治に変更をもたらすものではないことを示 し,朝廷側の警戒を解こうとした。(120 字)

第3問

問われているのは,「このような」統一基準をもった軍事動員を可能にした制度について説明すること。条件として, 江戸時代の支配の仕組みに触れることが求められている。 まず,資料文の内容を確認しておこう。 ⑴→江戸幕府の軍事力は,直参と「大名から差し出される兵力」で構成された。 ⑵→動員する軍勢の基準=知行高に応じ,大名の差し出す兵馬の数量が決められている ⑶→村々から百姓を夫役(陣夫役)として徴発=村高に応じて夫役の人数が決められている 次に確認しなければならないのは,以上のことがら(資料文)のどこに軍事動員についての「統一基準」が示されてい るのか,である。「動員」「基準」との表現が用いられているのは資料文 (2) だけなのだが,では,設問でいう「このよう な統一基準をもった軍事動員」とは資料文 (1)(2) をうけた表現なのか? だとすれば,資料文⑶は一体どのような意味を もつのか? 資料文⑶を含めて「統一基準をもった軍事動員」を考えることができたかどうか,それがこの問題の最大のポイントで

(10)

ある。いいかえれば,陣夫役(兵糧や物資輸送などのために徴発された夫役)も,一種の軍事動員だと判断できたかどうかが, ポイントなのである。 では,「統一基準」とは何か? 資料文⑵では大名から軍勢を動員する際の基準,資料文⑶では村々から陣夫役を徴発 する際の基準がそれぞれ説明されているのだから,この基準に「統一性」をみつけなければならないし,それが判断でき れば,その「統一性」を明確に表現しなければならない。これが第2のポイントである。 資料文では知行高(⑵),村高(⑶)と異なった表現が用いられているものの,単位(石)をみればわかるように,そ れらは石高である。知行高は大名(武士)が知行を保障された石高であり,村高は百姓が所持を保障された田畑・屋敷地 の石高の村全体の総計である。つまり,「統一基準」とは石高であり,そのことを何らかの形で答案のなかに表現するこ とが不可欠である。もし知行高,村高という資料文中に含まれる表現のみを使い,それぞれが石高であることを表現して いないのであれば,その答案は単に資料文を抜粋しただけにすぎず,相当低い得点しか得られないものと覚悟したほうが よい。 さて,石高制について確認しよう。 石高制とは土地の生産力を米量で統一的に表示したものだが,石高は,検地を通じて反あたりの米の標準生産高を見積 もり(石盛),それに面積を乗ずることで算出された。 検地に際しては,石盛・石高の算出とともに田畑・屋敷地に対して権利をもつ百姓をひとりに確定する作業が行われたが, その結果,石高は(検地帳に登録された)百姓に対して土地所持を保障する基準とされるとともに,年貢などを賦課する 基準とされた。同時に,中世の複雑な権利関係が整理されて年貢収取権をもつ領主もひとりに定められ,石高は領主に対 して知行を給付・保障し,軍役などを賦課する基準ともされた。 つまり,武士による百姓支配と武士どうしの主従関係を統一的に把握する基礎となったのが石高制だったのである。 類題として,一橋大・1996 年第1問(問3)がある。 なお,所属している集団ごとに固有の役(義務)を果たしているという視覚からの別解も作成できる。 【解答例】 江戸時代は,土地の生産力を米量で統一的に表示する石高制を基盤とし,武士間の主従関係と武士による百姓支配が 石高という基準のもとで統一的に把握された。武士は主君から石高の知行を保証され,石高にみあった軍役を負担し, 百姓は検地により田畑・屋敷地の所持を保証され,石高に応じた年貢や陣夫役を村ごとに負担した。(150 字) (別解)江戸時代は全国の土地の生産力を米量で統一的に表示する石高制を基盤とし,人びとは所属する身分集団ご とに固有の義務を石高に応じて負担していた。武士は主従制のもと,主君から知行として給付された石高を基準に, 軍役を負担して兵力を提供し,百姓は検地によって確定された村ごとの石高に応じ,年貢や陣夫役を負担した。(150 字)

第4問

問われているのは,明治憲法と昭和憲法の三権分立をめぐる共通点と相違点。 共通点・相違点を考えるまえに,「三権分立」が一般的にどのような事態をいうのかを確認することが不可欠。 「三権」とは行政・立法・司法で,それらが (1) 相互に独立し,(2) 相互に監視・抑制機能を果たしていることを「三権分立」 という。 ここから,両憲法において三権がどのように規定されているのかを確認することも必要だが,それよりも,相互にどの ような関係をもっていたのかを考えていくことがポイントであることがわかる。 まず三権がどのように規定されているか。 ◎明治憲法 天皇が統治権を総覧しているのだから行政・立法・司法の三権は天皇のもとに集中している。しかし,天皇は憲法

(11)

の規定に基づいて統治権を行使するものとされ,その統治権の行使には内閣,帝国議会,裁判所が関与した。つまり, 形式的には三権分立ではなかったが,それらの国家機関が天皇の統治権行使を補佐する形で実質的に三権を担った点か らいえば,それらは全て天皇に直属していたのだから,相互に独立していた。 ○内閣→国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス(第 55 条) ○議会→天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ(第5条) ○裁判所→司法権ハ天皇ノ名ニ於テ法律ニ依リ裁判所之ヲ行フ(第 57 条) なお,内閣が担う行政(国務)には枢密院も関与した。 ○枢密院→枢密顧問ハ枢密院官制ノ定ムル所ニ依リ天皇ノ諮詢ニ応ヘ重要ノ国務ヲ審議ス(第 56 条) ◎昭和憲法 行政・立法・司法の三権はそれぞれ内閣・国会・裁判所に属するものと規定され,相互に独立していた。 ○内閣→行政権は,内閣に属する(第 65 条) ○国会→国会は,国権の最高機関であつて,国の唯一の立法機関である(第 41 条) ○裁判所→すべて司法権は,最高裁判所及び法律 ( 裁判所法 ) の定めるところにより設置する下級裁判所に属する(第 76 条) 次に行政・立法・司法の相互関係について。 ◎昭和憲法 ○内閣→国会(特に衆議院)の信任にもとづき,国会に対して責任を負う。そして,衆議院の不信任決議に対しては衆 議院解散権をもつ。 「内閣は,行政権の行使について,国会に対し連帯して責任を負ふ」(第 66 条) 「内閣は,衆議院で不信任の決議案を可決し,又は信任の決議案を否決したときは,十日以内に衆議院が解散されない 限り,総辞職をしなければならない」(第 69 条) ○国会→国権の最高機関,すなわち国政の決定において指導的な統合的な地位を占める国家機関。その意味では三権の 間の総合調整作用を果たすべき存在。 ○裁判所→法律の合憲性審査権(違憲立法審査権)を持ち,議会や内閣の動向を監視・抑制する役割をもっている。 「最高裁判所は,一切の法律,命令,規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所で ある」(第 81 条) このように,国権の最高機関たる国会を頂点として相互の監視・抑制が制度化されている。 ◎明治憲法 天皇が議会の関与なしに行使できる天皇大権をもち,その行使には内閣が関与したため(統帥権を除く),内閣は議 会に対して優越的な地位をもっていた。そして,内閣は天皇の信任にもとづき天皇に対して責任を負うものと規定され, 議会に対する責任は規定されていなかった。また,内閣や議会の政策を憲法に合致するかどうかを判断する権限は裁判 所にはなく(枢密院が担っていた),行政からの指揮・監督を受けないという意味では司法権は独立していたが,内閣(や 議会)に対する監視・抑制の機能はもっていなかった。 以上のデータを念頭に答案を作成すればよいのだが,明治憲法のもとでの三権分立をどのように評価するかにより,少 なくとも2つのバリエーションがあるように思う。 ①実質的な運用の側面に注目し,三権分立主義が採用されていると評価したうえで,行政の権限が大きく立法や司法の 行政に対する監視・抑制機能が弱い,いいかえれば三権相互の抑制・均衡が確保されておらず,三権分立主義としては不 十分であると評価する。 ②天皇による統治権の総覧を規定している以上,形式面からいえば三権分立は採用されていないと評価したうえで,実 質的な運用面では三権が内閣,帝国議会,裁判所によって担われ,三権の相互独立が確保されていると評価する。 そこで,この2つのパターンに従って解答例を作成してあります。

(12)

【解答例】 両憲法ともに三権の相互独立を採用している点が共通する。しかし大日本帝国憲法では,統治権を総覧する天皇のも とに三権が集中する形式が採られたうえ,天皇を輔弼する内閣のもとで行政が強い権限を握り,立法や司法が抑制さ れたのに対して,日本国憲法では国会が国権の最高機関と規定されたうえ,内閣の衆議院解散権や司法の違憲立法審 査権などが規定され,三権相互の抑制が確保された。(180 字) (別解)大日本帝国憲法では,行政,立法,司法はそれぞれ内閣,帝国議会,裁判所が実質的機能を担ったが,統治 権を総覧する天皇がすべて親裁する構造をとっており,形式的には三権分立とはいいがたい。それに対して日本国憲 法では,行政,立法,司法の権限がそれぞれ内閣,帝国議会,裁判所に帰属すると規定されたうえ,議院内閣制,司 法の違憲立法審査権などが採用され,三権分立が整っている。(180 字)

(13)
(14)

2004 年度

第1問

次の年表を読み,下記の設問に答えなさい。

57 年

倭の奴国の王が後漢の光武帝から印を授かる(『後漢書』東夷伝)

239 年

魏の明帝,親魏倭王とする旨の詔書を卑弥呼に送る(『三国志』魏書)

4 〜 5 世紀

百済から和邇吉師が渡来し,『論語』『千字文』を伝えたという(『古事記』)

471 年カ

稲荷山古墳出土鉄剣の銘文が記される

478 年

倭王武が宋の皇帝に上表文を送る(『宋書』倭国伝)

607 年

遣隋使小野妹子が隋の煬帝に国書を届ける(『隋書』倭国伝)

701 年

大宝律令が成立。地方行政区画の「評」を「郡」に改める

712 年

太安万侶が漢字の音訓を用いて神話等の伝承を筆録した『古事記』ができる

720 年

編年体の漢文正史『日本書紀』ができる

751 年

『懐風藻』ができる

8 世紀後半 『万葉集』が編集される

8 〜 9 世紀

この時代の各地の国府・郡家などの遺跡から木簡が出土する

814 年

嵯峨天皇の命により,最初の勅撰漢詩文集『凌雲集』ができる

905 年

醍醐天皇の命により,勅撰和歌集『古今和歌集』ができる

935 年頃

紀貫之,最初のかな日記である『土佐日記』を著す

11 世紀

紫式部,『源氏物語』を著す

設問

古代の日本列島に漢字が伝えられ,文字文化が広まっていく過程の歴史的背景について,政治的

動向にもふれながら,6行以内で説明しなさい。なお,解答には下に示した語句を一度は用い,使用

した語句には必ず下線を引きなさい。

国風文化   勅撰漢詩文集   唐風化政策   渡来人   万葉仮名

(15)

第2問

次の三種類の銭貨は,12 世紀以降の日本で流通したもので,左から発行の古い順に並んでいる。こ

れを見て下記の設問A〜Cに答えなさい。

設問

A ①は鎌倉時代の日本で使われていた銭貨の一例である。これらはどこで造られたものか。また,

流通した背景に国内経済のどのような変化があったか。2行以内で述べなさい。

B ②は日本の遺跡で相当数がまとまった状態で発掘されることがある。それが造られてから,土中

に埋まるまでの経過を,2行以内で説明しなさい。

C ①②が流通していた時代から 3 が発行されるまでに,日本の国家権力にどのような変化があり,

それが貨幣のあり方にどのような影響を与えたか。3行以内で述べなさい。

(16)

第3問

次の⑴〜⑶の文章は,江戸時代における蝦夷地の動向について記したものである。これらを読んで,

下記の設問に答えなさい。

⑴ アイヌは,豊かな大自然の中,河川流域や海岸沿いにコタン(集落)を作り,漁業や狩猟で得た

ものを,和人などと交易して生活を支えた。松前藩は蝦夷地を支配するにあたって,有力なアイヌ

を乙名などに任じ,アイヌ社会を掌握しようとした。また藩やその家臣たちは,アイヌとの交易か

ら得る利益を主な収入とした。

⑵ 18 世紀に入ると,松前藩は交易を広く商人にゆだねるようになり,18 世紀後半からは,全国か

ら有力な商人たちが漁獲物や毛皮・木材などを求めて蝦夷地に殺到した。商人の中にはアイヌを酷

使しながら,自ら漁業や林業の経営に乗り出す者も現れた。また同じころ,松前・江差・箱館から

日本海を回り,下関を経て上方にいたる廻船のルートが確立した。

⑶ 蝦夷地における漁業は,鯡

にしん

・鮭・鮑・昆布などが主なものであった。鯡は食用にも用いられたが,

19 世紀に入ると肥料用の〆粕などに加工された。鮭は塩引として,食用や贈答品に用いられ,また,

なまこや鮑も食用に加工された。

設問

18 世紀中ごろまでには,蝦夷地は幕藩体制にとって,なくてはならない地域となっていた。それ

はどのような意味においてだろうか。生産や流通,および長崎貿易との関係を中心に,6行以内で説

明しなさい。

(17)

第4問

地租改正と農地改革は,近代日本における土地制度の二大改革であった。これらによって,土地制度

はそれぞれどのように改革されたのか,あわせて6行以内で説明しなさい。

(18)

解法の研究

第1問

設問で問われているのは,古代における文字文化の普及過程の歴史的背景。条件として,政治的動向にもふれること, 5つの指定語句(国風文化・勅撰漢詩文集・唐風化政策・渡来人・万葉仮名)を用いることが求められている。 この問題で最も注意しなければならないのは,<文字文化の普及過程>が問われているのではなく<その歴史的背景> が問われている点である。ところが,年表形式で文字文化の普及に関するデータがしっかりと示されているため,<普及 過程>の説明に終始してしまいかねない。<歴史的背景(政治的動向を中心に)>に言及することを忘れていては,設問 の要求に応えたことにはならない。その点を肝に命じておこう。 とはいえ,まずは<文字文化の普及過程>を時期区分しながら確認しよう。 ⑴ 弥生時代 57 年 倭の奴国の王が後漢の光武帝から印を授かる(『後漢書』東夷伝) 239 年 魏の明帝,親魏倭王とする旨の詔書を卑弥呼に送る(『三国志』魏書) → 漢字が中国との外交関係のもとで中国からもたらされた。ただし,それに伴って倭内部で漢字使用が進んだかどう かは,史料もなく,分からない。 ⑵ ヤマト政権の展開期 4〜5世紀 百済から和迩吉師が渡来し,『論語』『千字文』を伝えたという(『古事記』) 471 年カ 稲荷山古墳出土鉄剣の銘文が記される 478 年 倭王武が宋の皇帝に上表文を送る(『宋書』倭国伝) 607 年 遣隋使小野妹子が隋の煬帝に国書を届ける(『隋書』倭国伝) → 渡来人により漢字がもたらされ,ヤマト政権は彼らに記録・出納・外交文書作成などの職務を担わせた(→史部)。 それにともなって倭内部で漢字の使用が始まったことが,稲荷山古墳鉄剣などの金石文(地方豪族とヤマト政権と の関係を記す文字資料)や中国への国書によりわかる。さらに,地名や人名といった日本語(倭語)が漢字の音訓 を借りて表記されるようになった。 ⑶ 律令国家の展開期 701 年 大宝律令が成立。地方行政区画の「評」を「郡」に改める 712 年 太安万侶が漢字の音訓を用いて神話等の伝承を筆録した『古事記』ができる 720 年 編年体の漢文正史『日本書紀』ができる 751 年 『懐風藻』ができる 8世紀後半 『万葉集』が編集される 8〜9世紀 この時代の各地の国府・郡家などの遺跡から木簡が出土する → 律令国家のもとでは文書行政(文書を用いた情報伝達)が行われ,漢字の使用が本格化・浸透する。そして漢文学 (漢詩文)が展開するとともに,漢字の音訓を用いて日本語を表記する万葉仮名が成立する。 なお,「各地の国府・郡家などの遺跡から木簡が出土する」というデータが,文書行政を意識させるためのデータであ ることはわかると思うが,大宝律令制定により「地方行政区画の「評」を「郡」に改める」とのデータも,そのことが 藤原宮出土の木簡により判明したことを考えれば,同じように文書行政を意識させるデータと考えることができる。 ⑷ 律令国家の再編期(弘仁・貞観文化期) 814 年 嵯峨天皇の命により,最初の勅撰漢詩文集『凌雲集』ができる → 平安初期は唐風文化の全盛期で,文章経国思想(漢文学の政治的な有効性を強調する考え)のもと漢文学が隆盛し, 漢字文化の習熟が進む。 ⑸ 国風文化期 905 年 醍醐天皇の命により,勅撰和歌集『古今和歌集』ができる

(19)

935 年頃 紀貫之,最初のかな日記である『土佐日記』を著す 11 世紀 紫式部,『源氏物語』を著す → 文化の国風化が進む。それを象徴するのが仮名文字の発達で,その結果,「日本人特有の感情や感覚を生き生きと 伝えることが可能になっ」た(『詳説日本史』山川)などと評価されるように,文字文化が広く日本社会のなかに 浸透していった。 以上を概観すれば, ⑴弥生時代=中国との外交関係のもとで<漢字が流入> ↓ ⑵ヤマト政権の展開期=<漢字の使用が始まる> ↓ ⑶律令国家の展開期=<漢字の使用が本格化・浸透>→漢文学が展開,漢字の音訓を用いた万葉仮名も成立 ↓ ⑷律令国家の再編期=<漢字文化の習熟が進む> ↓ ⑸国風文化=かな文字の発達のもとでかな文学が展開<独自の文字文化が形成> このように<文字文化の普及過程>を整理することができるが,ここで答案を書いてしまってはダメだ。最初に確認し たように,<文字文化の普及過程の歴史的背景>が問われているだから,普及過程を説明しつつも<歴史的背景>(政治 動向を含む)をメインにすえた答案を作り上げることが不可欠である。そのことを意識してデータを編成し直すと。。。。。 ⑴と⑵は,まとめてしまえば<漢字の流入・使用開始>の時期だが,それは中国との外交関係が契機のひとつとなって いる。つまり,中国を頂点とする国際秩序に組み込まれるなかで,いいかえれば,中国を中心とする漢字文化圏に包摂さ れるなかで,日本に漢字という文字が流入し,その使用が始まる。用途は記録,外交文書の作成などであり,その担い手 となったのは渡来人であった。 ⑶について。行政の実務において,また天皇による支配の正統性を主張する史書の編纂において漢文が用いられただけ でなく,そもそも律令が漢文で書かれていた。つまり,唐にならった律令国家の建設ゆえに,漢字使用が本格化し,社会 のなかに浸透していったのだと言える。 なお,律令国家の建設事業は唐を模倣したものだから,その事業そのものを「唐風化政策」と形容することが可能かも しれない。受験生の答案としてはそれでもよいとは思うが,実際には大宝律令制定以降,律令国家が展開し,社会の実情 に適合させようと再編が進められるなかで唐風化政策が進む。その典型が平安初期,特に嵯峨天皇の時代である。その意 味では,「唐風化政策」という指定語句は,律令国家建設を説明する語句としてではなく,平安初期のところで用いるの が適当だろう。 ⑷は,唐風化政策が推進された律令国家再編期で,文章経国思想のもと,貴族・官人に漢文学(漢詩文)の教養が要請 された時代である。それゆえ,漢文学が全盛を向かえ,漢字文化の習熟が進む。 このように⑶〜⑷の時期を通じて漢字文化の浸透・習熟が進むなかで,漢字の音訓を用いて日本語を表記しようとする 動きが展開し(万葉仮名),さらに仮名文字が発達してくる。つまり,仮名文字を使った独自の文字文化(⑸)が展開し ていく背景・基礎には,唐風化政策のもとでの漢字文化の習熟があったのである。つまり,⑷は⑸の歴史的背景と位置付 けることができる。 【解答例】 中国を中心とする漢字文化圏に包摂される中,外交や国内支配の必要上,渡来人を担い手に漢字使用が進んだ。律令 制が成立すると,国家を正統づける法典や史書の編纂,文書行政の浸透から漢字使用が拡大し,万葉仮名も成立した。 唐風化政策が進んだ平安前期には,文章経国思想から勅撰漢詩文集の編纂など行われて漢字文化の習熟が進み,かな 文字の成立を基礎とする国風文化の前提となった。(180 字)

(20)

第2問

A 問われているのは,ア①がどこで造られたものか,イ流通した背景としての国内経済上の変化。 アについて。 写真は見たことがなくとも,設問文に「鎌倉時代の日本で使われていた銭貨の一例」と説明してあることから,宋銭で あることは察しがつくだろう。 イについて。 国内経済のどのような変化が宋銭の流通を促したのかが問われているのだから,考えることは,<国内経済のどのよう な変化>が貨幣に対する需要を高めたのか,である。 その点を考える前に,まず,貨幣とはどのような役割を果たすものなのかを概観しておこう。 ⓐ 価値尺度 品物がどれくらいの価値(交換価値)をもつかを表示する基準。 ⓑ 交換(流通)手段 品物を交換するに際し,それへの対価を支払うために用いられる。そのため,貨幣を媒介する ことで商品はさまざまな人々の手を経て流通していく。 ⓒ 支払手段 人々が国家へ租税を納入したり,国家や企業などが給与を支払うのに用いられる。 ⓓ 蓄財手段 貨幣は,蓄えている財産の規模を表示してくれ,そのため,貨幣を蓄えることが財産蓄積の行為ともなる。 ⓔ 価値増殖の手段 他人に貸付け,利子をつけて返済させることで,価値を増殖させることができる。 ⓕ まじないの手段 通過儀礼・祭礼など社会的儀礼の一環として授受され,呪力をもつものとして,あるいは呪力そ のものとして機能することがある。 このように貨幣はさまざまな役割を果たすが,<経済>に限ればⓐ〜ⓔの4つ。これらのうち,国内経済上の変化に伴っ て需要が増えたのはどれだろうか。 鎌倉時代には,農業生産が発達するとともに,荘園年貢の輸送を媒介として商品流通が活発化していったことを念頭に おけば,ⓑの役割を果たす貨幣に対する需要が増加していたことが推察できるだろう。これで答案はできあがるが,後は 商品流通が活発化した様相を具体的に説明することを忘れないでおこう。 なお,「(代)銭納」は書いてはダメだ。「(代)銭納」とは年貢などを貨幣で納入することなのだから,貨幣が流布した結果・ 影響ではあっても,その原因・背景ではない。 ちなみに,貨幣は素材面からみると,物品貨幣(米・布など),金属貨幣(金銀銅など),信用貨幣(紙幣など)があるが, 金属貨幣は物品貨幣に比べて,分割しやすく,持ち運びに比較的便利であり,また耐久性があるなどの理由から交換手段 として適していた。 B 問われているのは,②の貨幣が造られてから,土中に埋まるまでの経過。 まず考えることは,どこで造られたのか。 図版では旧字が用いられているが,「永楽通宝」であることが判読できれば(推測できれば),②が明で造られたことが わかる。 次に考えることは,明で造られた②がどのような経緯で日本に相当数流入したのか。 15 世紀には日明間で勘合貿易が行われ,それを通じて②に代表される明銭が大量に輸入されたことは知っているはず。 さて,次は何を考えればよいだろうか。 まさか,明から輸入されてそのまま,まとまった状態で土中に埋まったわけではないだろう。となると,輸入されてか ら土中に埋まるまでに,どのような経過をたどったのかを考える必要がある。 その際,注意しておきたいのは次の2点。 ア 問題文では「土中に埋まる」と書いてあるが,貨幣(明銭)が自然に埋まったのか,それとも誰かによって人為的 に埋められたのか。 イ 問題文で「相当数がまとまった状態で」と書かれていることから,どのようなことを推論できるか。 まず,アについて。 発掘されているのが1,2例であれば自然に埋まった可能性もある。しかし,発掘例がそれほど少ないのなら,わざわ ざ問題として出題されるだろうか? となれば,人為的に埋められたと考えておくのがよさそうだ。誰かが一人で,ある

(21)

いは複数の人間が共同して明銭を埋めたのだろう。 続いて,イについて。 「相当数がまとまった状態で」ということは,埋めた人(もしくは人々)が相当数の明銭を手元にもっていたはずで, 言い換えれば,相当数の明銭を蓄蔵していたはず。 ここで,Aで確認した貨幣の果たす役割を思い出してほしい。ⓓとして蓄財手段という役割を指摘したはず。これと総 合して考えれば,明銭は日本に流入して以降,交換(流通)手段として機能するとともに,人々によって蓄えられ,蓄財 手段としても機能するようになっていたことが想像できるだろう。 これで,明銭が土中に埋まる直前までの経過は推論できた。残るは,埋めた理由である。 実は,理由については学者のなかでも議論が分かれていて,戦乱などから財産を守るため,あとで掘り返すために土中 に埋めておいたのだという説と,土地開発を行う際に神仏にささげたものだという説(今でも家を建てるときに神主に来 てもらってお払いすることがある)がある。 こうなると受験レベルではお手上げとも言え,最低限,銭貨が蓄財手段としても機能するようになっていたことが指摘 できれば十分なのではないかと思う。 C 問われているのは,①②が流通していた時代から③が発行されるまでに,ア日本の国家権力にどのような変化があっ たか,イそれが貨幣のあり方にどのような影響を与えたか。 アについて。 最初にやっておかなければならないのは,①②③が流通していた時代それぞれについて国家権力のあり方を整理するこ とである。 ①→鎌倉時代 鎌倉時代は鎌倉に武家政権,京都に公家政権が存在し,公武二元支配が行われた時代であり,承久の乱・蒙古襲来を経 るなかで武家政権の支配力が拡大していくものの,最後までこの枠組みは維持され続けていた。さらに,荘園公領制のもと, 天皇家や摂関家,延暦寺・興福寺・伊勢神宮といった権力者が荘園や知行国によって家産を形成し,私的な勢力として割 拠しており(権門体制),鎌倉幕府もそうした権門としての性格を共有していた。つまり,一元的な国家権力が存在しなかっ たのが鎌倉時代であった。 ②→室町時代 南北朝動乱を経て全国支配を形成した室町幕府は,朝廷の権限を吸収して公武一統を実現していったが,その全国支配 は守護領国制に依拠することで初めて実現しており,地方分権的な性格が強かった。また,天皇家や摂関家,有力寺社の 領主権はその実質を失っていった(経済的な権益へ転化)とはいえ,荘園公領制は社会の基本構造として残っており,室 町幕府・守護大名もそれを否定できていなかった。つまり,室町時代も一元的な国家権力が不在であった。 ③→江戸時代 江戸時代の支配体制は幕藩体制と呼ばれ,各地に諸大名が領地(領知)をもち,ある程度の自由裁量を認められ地方統 治を担っていた。この意味では江戸時代も地方分権的だが,室町時代とは異なり,中央集権的な性格が強かった。それは, 石高制を基礎とする大名知行制が形成されていたからである。つまり,石高制のもと,幕府が所領与奪の権限を握り,諸 大名の領知は一時預かりと認識されていたのである。 以上のデータをもとに,①②の時代と③の時代とで国家権力がどのように異なっていたのかを整理すると,次のように なる。 ①②の時代=一元的・統一的な支配力をもつ国家権力が不在 ⇄ ③の時代=石高制を基礎に統一権力が出現 次にイについて。 「貨幣のあり方にどのような影響を与えたか」を考える前に,「貨幣のあり方」を考えておこう。そのうえで「影響」を 考えればよい。 ☆①②が流通していた時代 中国から流入した各種の宋銭・明銭が流通し,さらに室町時代後期には私鋳銭が流通するなど,さまざまな銭貨が混在し, 統一性が欠如していた。

(22)

☆③が発行された時代 ③は江戸幕府が発行した寛永通宝だが,これが大量に鋳造・供給されることで全国に流通する銭貨の統一が実現した。 このことは,江戸幕府が石高制を基礎とする統一権力として成立し,それゆえ貨幣鋳造権を独占したために可能となっ た-これが問われている「影響」である。 【解答例】 A宋。荘園公領制下での畿内への年貢輸送を媒介に遠隔地間商業が発達し,各地で定期市が開催されるなど貨幣需要 が高まっていた。 B明で鋳造されて勘合貿易で流入し,経済発展にともなって蓄財の手段ともみなされ,戦乱の中で隠匿などを目的に 埋納された。 C統一権力が不在の中世は,中国銭を中心に多様な貨幣が混在したが,石高制を基礎に統一権力が樹立された江戸時 代は,貨幣鋳造権を掌握した幕府のもと,同じ規格をもつ貨幣が全国的に通用した。

第3問

問われているのは,蝦夷地が幕藩体制にとって,どのような意味で,なくてはならない地域となっていたか。蝦夷地が 幕藩体制において果たした役割,と言い換えることができるだろう。そして条件として,ア生産,イ流通,ウ長崎貿易と の関係を中心に説明することが求められている。 まず「蝦夷地」とは何か,どのような地域であったのか,を確認しておこう。 「蝦夷地」とは,ほぼ現在の北海道を指す呼称(千島や樺太の一部も含む)であり,この地域にはアイヌが居住していたが, アイヌの居住地域は北海道から東北北部まで及んでおり,「蝦夷地」とアイヌ居住地が一致していたわけではない。 では,「蝦夷地」はなぜ「蝦夷」地と称されたのか。 蝦夷地とは,厳密にいえば北海道全域を指すのではなく,松前地(和人地)=松前氏の領地を除いた地域の呼称である。 松前氏は将軍と主従関係を結んだ大名だから,その領地以外の地域ということは,結局,江戸幕府による幕藩制支配の及 ばない地域(異域)だ(だった)と言える。だからこそ「蝦夷」地なのである。 とはいえ,幕藩制支配(幕藩体制)と無関係だったわけではない。蝦夷地は松前氏が交易の独占権を保障されており, 松前藩はそのことを基盤として存立していた(石高に裏づけられた土地の支配権ではなく,蝦夷地交易の独占権のみを存 立基盤としていた点において,松前氏は非常に特異な大名である)。松前氏は,家臣に対して交易権を分与すること(商 場知行制)を通じて藩制を成り立たせていたのである。 このように,蝦夷地は松前氏を通じて幕藩体制と関係づけられており,ある意味では,宗氏を介した朝鮮,島津氏を介 した琉球と共通するものがあったと言える。実際,蝦夷地は朝鮮や琉球とともに江戸幕府に服属する存在と位置づけられ (だからこそ「蝦夷」地と称されたのだと言えよう),朝鮮や琉球のように幕府のもとへ使節を派遣することこそなかったが, 将軍の代替りに際して諸国に派遣された巡見使に対して服属儀礼(ウィマムという)を行っていた。 では続いて,資料文の内容確認に入ろう。 ⑴ ◦アイヌは漁業や狩猟で得たものを和人などと交易。 ◦松前藩はアイヌとの交易から得る利益を主な収入とする。 →松前氏は江戸幕府から蝦夷地交易の独占権を認められていた(家臣に対してその交易権を分与=商場知行制)。 ⑵ ◦ 18 世紀以降,松前藩=場所請負制へ移行→商人が漁獲物や毛皮・木材などを求めて殺到 ◦ 18 世紀後半頃=松前・江差・箱館〜日本海〜下関〜上方という廻船のルートが確立 ⑶ ◦蝦夷地での漁獲物とその用途 ☆鯡…食用,肥料用の〆粕への加工(19 世紀) ☆鮭…食用や贈答品 ☆なまこや鮑(あわび)…食用

(23)

さて,以上を念頭におきながら,蝦夷地とア生産,イ流通,ウ長崎貿易との関係について確認していこう。 ア 生産との関係。 資料文⑶に「肥料」への加工についての説明があり,農業生産の発展に関わっていたことがわかる。〆粕は干鰯と同じ ように,綿作などの商品作物生産にかかせない肥料であった。 なお,設問では「18 世紀中ごろまでには,蝦夷地は幕藩体制にとって,なくてはならない地域となっていた。」と記さ れているものの,資料文⑶によれば,〆粕への加工は 19 世紀以降のことという。ここに注目すれば,〆粕を考察の材料 から除外した方がよいようにも見える。しかし,〆粕を除外すれば「生産との関係」を考える素材がなくなってしまう。 また,出題者があえて資料文に書き込んだということは,受験生に考察の材料として提示したことを意味している。それ ゆえ,時期のズレを意識する必要はないだろう(なお,実際には 18 世紀にも〆粕への加工は行われており,もしかする と誤植かもしれない)。 イ 流通との関係 “松前・江差・箱館〜日本海〜下関〜上方という廻船のルートを通じて漁獲物が各地に流通した” とまとめようと考えた 受験生が多いのではないか思う。 しかし,それは,蝦夷地と「流通」との関係についての説明なのだろうか。蝦夷地の産物が流通する様子を説明しただ けのことではないのか。 そもそも流通とは,商品の物理的な移動,そして移動させるための活動を指す言葉であり,それは商品の運輸・保管や 商品取引などの業務を専門とする業者が活躍する舞台である。 このことを念頭におけば,単に蝦夷地の産物が流通する様子を説明するのにとどまるのではなく,その流通に関わる業 者や経路・機構に関する説明が必要となってくることがわかるだろう。 さて,資料文⑵には,18 世紀後半頃に「松前・江差・箱館から日本海を回り,下関を経て上方にいたる廻船のルート」 が確立したと書かれているが,このルートに活躍したのが “北前船” である。この点は答案に明記しておきたいところだ。 注 この点については,山川『詳説日本史』だけを参照している場合は,気がつかなかったかもしれない。なにしろ, 記載こそあるものの,蝦夷地や日本海海運との関連についての説明はないのだから。 なお,北前船はそれまでの廻船とはタイプの異なる新しい廻船であった。それまでの廻船(たとえば南海路を就航 する菱垣廻船など)が荷主との契約で荷物を輸送し,その運賃を収益とする運賃積方式であったのに対し,北前船は 買積方式の廻船で,船主が自ら買い入れた商品を積み,輸送先で売却して利益をあげていた(尾張を拠点とした内海 船も同様)。 実教『日本史B』では,次のように説明されている。 「西回り航路を利用して蝦夷地や北陸と大坂との間を運航した北前船は,各寄港地で特産物の買い入れと積み荷の 販売をおこなう買積方式によって大きな利益をあげた。」 つまり,北前船の船主たちは,(この問題に即していえば)鯡・鮭・鮑・昆布などの海産物-各地で食用品や贈答 品などとして大きな需要がある商品-を,蝦夷地から日本海沿岸,そして下関,瀬戸内海沿岸,上方といった消費地 へと運び,それによって大きな利益をあげていたのである-そのことが大坂(や江戸)の問屋を介さない商品流通を 拡大させていく。 このように蝦夷地は,北前船という新しいタイプの廻船業者を成長させる媒介となったわけである。 ウ 長崎貿易との関係 資料文⑶に「なまこや鮑も食用に加工された」とあるが,ここから “俵物” が想起できれば問題はない。つまり蝦夷地は, 清向け輸出品として重要度を増していく俵物の重要な供給地だったのである。 条件として列記された3点は,以上のように整理することができるが,これらだけで答案を書いてしまわないように注 意してほしい。 設問の要求は,“蝦夷地が幕藩体制にとって,どのような意味で,なくてはならない地域となっていたか” である。さら に,資料文⑴にはア〜ウに集約できないことがらも記されている。これらの点を考慮すれば,解説の最初に確認した,松 前氏(藩)の蝦夷地交易の独占権や商場知行制についても答案のなかに盛り込むことが不可欠であることがわかるだろう。

(24)

忘れないようにしてほしい。 【解答例】 蝦夷地では,幕府から交易独占権を認められた松前氏が商場知行制を介して藩制を整備しており,そうした形で幕藩 体制に組み込まれていた。18 世紀以降,場所請負制が広がり,和人商人により漁場経営が拡大すると,西廻り航路 を就航した買積の北前船に交易物を提供するとともに,商品作物栽培に不可欠な〆粕,長崎貿易での清への主要な輸 出品である俵物の供給地として重要な役割を果たした。 (別解) 蝦夷地は,幕府に交易独占権を認められた松前藩を通じて幕藩体制に組み込まれていた。松前藩は当初,商 場知行制を介して藩制を整えたが,のち場所請負制へ移行し,漁場経営拡大を促した。その結果,上方など西日本各 地と蝦夷地を結ぶ買積の北前船が成長する基盤となると共に,商品作物栽培に不可欠な〆粕,長崎貿易での清への主 要な輸出品である俵物の供給地として重要な役割を果たした。

第4問

問われているのは,①地租改正,②農地改革によって,土地制度がどのように改革されたか。 平易な問題だが,「土地制度がどのように改革されたか」と問われている点には注意が必要である。農地改革について はそれほど注意を払わずとも問題ないが,地租改正は一般的には税制改革として説明され,理解していることが多い。し たがって,納税者や課税対象,納税方法を説明し,影響についても国家財政や反対一揆についてしか説明しないような答 案を書いていたら,設問の要求に応えたことにならず,まともな得点は望めない。平易に見える問題ほど,細心の注意を払っ てほしい。 ① 地租改正について。 地租改正は,廃藩置県で全国の徴税権が中央政府のもとに集中したことを前提とし,政府の財政基盤の安定を目的とし て実施された税制改革であった。1873 年に地租改正条例が出され,大久保政権のもと,75 年から本格化し,80 年まで にほぼ完了した。 内容と影響は次のようにまとめることができる。 <内容> ◦地主・自作農に地券を交付し,土地所有権を保障(土地所有権者を確定)→納税者を確定 ;入会地のうち,所有権の確定できないものは官有地に編入 ◦(法定)地価に基づく定額金納制を導入 ;小作料については現物納のまま <影響> ◦近代的な土地所有制度が確立 →封建的な領有制が最終的に解体(石高に基づく年貢収納権が家禄という形で,いわば遺制として存続していたが, その根拠が消滅) ◦農村社会と貨幣経済との結び付きがより深くなる(生産物の換金が不可欠・定額ゆえに物価変動が直接影響) →⒜商業的農業が拡大,⒝農民の階層分化を促す基礎となる→地主制発達 ② 農地改革について。 農地改革は,第2次世界大戦後,GHQが実施を指令したもので,幣原喜重郎内閣が農地調整法を改正して着手するも のの,GHQにより内容が不徹底とされ,第1次吉田茂内閣が農地調整法を再改正,自作農創設特別措置法を制定して実 施した。軍国主義の基盤の一つとみなした寄生地主制を解体し,自作農を広範に創出することで農家の所得水準の向上を めざしたものであった。 内容と影響は次のようにまとめることができる。

(25)

<内容> ◦地主の貸付地を制限(不在地主を否定,在村地主は北海道を除いて1町歩・北海道は4町歩) →小作農へ有償解放(超過分を国が買収・小作農に売却) <影響> ◦寄生地主制が解体→自作農が広範に創出 ◦山林原野は未解放 ◦零細経営問題は未解決 【解答例】 地租改正では,地主・自作農に地券を交付して土地所有権を保障して納税者を確定した上で,地価に基づく定額金納 地租を導入した。その結果,封建的領有制が解体されて近代的土地所有制度が確立したが,階層分化が促されて地主 制発達の契機となった。農地改革では,地主の貸付地を制限し,超過分を国家が買収して小作農に売却した。その結 果,寄生地主制が解体し,自作農が広く創設された。

(26)

2003 年度

第1問

次の⑴〜⑷の8世紀の日本の外交についての文章を読んで,下記の設問に答えなさい。

⑴ 律令法を導入した日本では,中国と同じように,外国を「外蕃」「蕃国」と呼んだ。ただし唐を

他と区別して,「隣国」と称することもあった。

⑵ 遣唐使大伴古麻呂は,唐の玄宗皇帝の元日朝賀(臣下から祝賀をうける儀式)に参列した時,日

本と新羅とが席次を争ったことを報告している。8世紀には,日本は唐に 20 年に1度朝貢する約

束を結んでいたと考えられる。

⑶ 743 年,新羅使は,それまでの「調」という貢進物の名称を「土毛」(土地の物産)に改めたので,

日本の朝廷は受けとりを拒否した。このように両国関係は緊張することもあった。

⑷ 8世紀を通じて新羅使は 20 回ほど来日している。長屋王は,新羅使の帰国にあたって私邸で饗

宴をもよおし,使節と漢詩をよみかわしたことが知られる。また,752 年の新羅使は 700 人あま

りの大人数で,アジア各地のさまざまな品物をもたらし,貴族たちが競って購入したことが知られ

る。

設問

この時代の日本にとって,唐との関係と新羅との関係のもつ意味にはどのような違いがあるか。た

て前と実際の差に注目しながら,6行以内で説明しなさい。

(27)

第2問

次の⑴〜⑶の文章を読んで,南北朝内乱に関する下記の設問A・Bに答えなさい。

⑴ 南北朝内乱の渦中のこと,常陸国のある武士は,四男にあてて次のような譲状をしたため,その

所領を譲った。

長男は男子のないまま,すでに他界し,二男は親の命に背いて敵方に加わり,三男はどちらにも

加担しないで引きこもってしまった。四男のおまえだけは,味方に属して活躍しているので,所領

を譲り渡すことにした。

⑵ 1349 年に高師直のクーデターによって引退に追い込まれた足利直義は,翌年京都を出奔して南

朝と和睦した。直義はまもなく京都を制圧し,師直を滅ぼした。その後,足利尊氏と直義が争い,

尊氏が南朝と和睦した。

⑶ 1363 年のこと,足利基氏と芳賀高貞との合戦が武蔵国で行われた。高貞は敵陣にいる武蔵国や

上野国の中小の武士たちを見ながら,次のように語って味方を励ましたという。

あの者どもは,今は敵方に属しているが,われわれの戦いぶりによっては,味方に加わってくれ

るだろう。

設問

A 当時の武士の行動の特徴を,2行以内で述べなさい。

B 南朝は政権としては弱体だったが,南北朝内乱は全国的に展開し,また長期化した。このような

ことになったのはなぜか,4行以内で述べなさい。

(28)

第3問

次の文章を読んで,下記の設問A・Bに答えなさい。

17 世紀後半になると,歴史書の編纂がさかんになった。幕府に仕えた儒学者の林羅山・林鵞峰父

子は,神代から 17 世紀初めまでの編年史である『本朝通鑑』を完成させ,水戸藩では徳川光圀の命

により『大日本史』の編纂がはじまった。また,儒学者の山鹿素行は,戦国時代から徳川家康までの

武家の歴史を記述した『武家事紀』を著した。

山鹿素行はその一方,1669 年の序文がある『中朝事実』を書き,国と国の優劣を比較して,それ

まで日本は異民族に征服されその支配をうけることがなかったことや,王朝の交替がなかったことな

どを根拠に,日本こそが「中華」であると主張した。

設問

A 17 世紀後半になると,なぜ歴史書の編纂がさかんになったのだろうか。当時の幕藩体制の動向

に関連させて,3行以内で述べなさい。

B 下線部のような主張がうまれてくる背景は何か。幕府が作り上げた対外関係の動向を中心に,こ

の時期の東アジア情勢にもふれながら,3行以内で述べなさい。

参照

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