第 7 章 アルゼンチン美術界における酒井の足跡
4. 酒井の位置づけ
1950年~60年代にかけて、酒井はブエノスアイレスの抽象表現主義運動において重要な 役割を果たした。アンフォルメルの画家として、また書や禅といった東洋の文化を取り入れ た画家として、短い期間ながらアルゼンチンの美術界に足跡を残している。
4-1. アルゼンチン・アンフォルメルの先駆けとして
酒井は1957年に「7人の抽象画家展 (Siete pintores abstractos)」(ピサロギャラリー、
1957 年 10 月 1 日~19 日)112に参加している。参加者は酒井の他にオスバルド・ボルダ (Osvaldo Borda, 1929–)、ビクトル・チャブ (Victor Chab, 1930–)、ホセフィーナ・ロビロ
112 詳しくはカタログ (Galería Pizarro 1957b) 及び批評 (García Martínez 1957) を参照。
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サ (Josefina Robirosa, 1932-)113、ロムロ・マッシオ (Rómulo Macció, 1931–2016)、マル タ・ペルフォ (Martha Pelufo, 1931–1979)、クロリンド・テスタ (Clorindo Testa, 1923–
2013) である。
画家・美術批評家のホルヘ・ロペス・アナヤ (Jorge López Anaya, 1936–2010) は、その著 書『アンフォルメル・アヴァンギャルド ブエノスアイレス1957~1965年 (La vanguardia informalista. Buenos Aires 1957–1965)』において、「7人の抽象画家展」をアルゼンチン・
アンフォルメルの先駆けとして位置づけている (López Anaya 2004: 17–18)。自身もアルゼ ンチン・アンフォルメルに参加した当事者でもあるロペス・アナヤは、図版4を含む三点の 酒井の作品を掲載し、アンフォルメルの中心を担ったアーティストの一人としてを高く評 価している。「7 人の抽象画家」たちについては、「皆『熱い』抽象への傾倒を示しており (Todos evidenciaban la inclinación hacia una abstracción “cálida”)」、それが「幾何学的抽 象、もしくは『冷たい』抽象への抵抗として (como oposición a la abstracción geométrica
o “fría”)」、また「自発的表現と即時的でありながら内包された身振りを重視して (como
valoración de la expresión espontánea y de la gestualidad inmediata, pero contenida)」 生まれたと述べている (López Anaya 2004: 17)。戦後アルゼンチン美術界を席巻したコン クリート・アートや幾何学的抽象といった「冷たい」抽象から、「熱い」抽象へと時代が移 り変わったことを強く印象づけたのが、酒井ら「7 人の抽象画家展」のメンバーであった。
4-2. 「ボア」と「ファーズ」
「7人の抽象画家」のメンバーは、詩人で美術批評家でもあるフリオ・リナス (Julio Llinás, 1929–) が作った「ボア (Boa)」というグループにも参加している。ボアは、パリの「ファ
ーズ (Phases)」グループと交流を持っており、二つのグループをあわせて「ボア・ファー
ズ」と呼ぶ。
ファーズは、フランスの詩人、美術批評家のエドゥアール・ジャゲール (Édouard Jaguer,
1924–2006) が作ったシュールレアリストのグループであり、1954 年に雑誌『ファーズ
(Phases)』を創刊した。ジャゲールは1948~1951年に西ヨーロッパで起こった前衛美術運
動「コブラ (COBRA)」にも参加していたが、1954 年当時、既に芸術の中心地はヨーロッ パからニューヨークに移り変わっており、シュールレアリスムもかつての勢いを失ってい た。ヒウンタによれば、ジャゲールはシュールレアリスムを再興し、アーティスト同士が国 境を越えて繋がる場を築くことを目的としていた (Giunta 2008: 83)。
リナスはアルゼンチンにいながら創刊号から『ファーズ』に参加し、アルゼンチンでも同 様のグループを作ろうと考えた。雑誌『ボア (Boa)』は1958年5月に創刊し、3号まで刊 行されたが、第1号の表紙には酒井の作品が使われている (図版5)。「ボア」はアメリカ大 陸に生息するヘビの名前で、ヨーロッパの「コブラ」をラテンアメリカ風に訳したタイトル
113 「7人の抽象画家展」のカタログには、最初の夫の姓であるミゲンス (Miguens) の名 前が記載されている。
63 である (Giunta 2008: 86)。
1950年代には世界各地でこのような国際的なグループが生まれ、雑誌や展覧会を通じて 海外のアーティストと連携を図ったが、国や美術館などのイニシアチブによるものではな く、アーティストが主体となっていた点に特徴がある (Giunta 2008: 83)。「ボア・ファー ズ 」 も 世 界 各 地 で 展 覧 会 を 開 催 し て お り 、 酒 井 は 「 国 際 フ ァ ー ズ 展 (Exposición Internacional Phases)」(1959)114、「ボア展 (Boa)」(1961)115の他、アルゼンチンとウルグ アイで開催された「ファーズ展 (Exposición Phases)」(1958)116にも参加している。後述す るように、酒井はメキシコで官展に対抗し、アーティストの自立を主張して独自の展覧会を 開催するグループで中心的役割を果たしており、「ボア・ファーズ」での経験が活かされて いるといえよう。
4-3. 直観的抽象
ロメロ・ブレストは、酒井を幾何学的抽象やマディ・グループの次の世代として、直観的 抽象 (abstracto-intuitivos) に分類している (Romero Brest 1969: 38–42)。直観的抽象に は他にホセ・アントニオ・フェルナンデス=ムーロ (José Antonio Fernández-Muro, 1920– 2014) とその妻サラ・グリーロ (Sarah Grilo, 1919–2007)、ミゲル・オカンポ (Miguel
Ocampo, 1922–2015)117、クロリンド・テスタがおり、酒井を含めた5人で「グルーポ・デ・
シンコ (5人のグループ)」とも呼ばれた。4人は酒井よりも少し年長であり、特にフェルナ ンデス=ムーロ、グリーロ、オカンポの三人は元々幾何学的抽象の画家として知られていた。
テスタは建築家としても活躍している。
ロメロ・ブレストがこの5人を1つのグループに分類したのは、1960年の「フェルナン デス=ムーロ、グリーロ、オカンポ、サカイ、テスタ」と題したグループ展によるところが 大きい。この展覧会はブエノスアイレス近代美術館 (Museo de Arte Moderno de Buenos Aires)118とブラジル、バイーア近代美術館 (Museu de Arte Moderna da Bahia)119で開催さ れ、大きな注目を集めた。ロメロ・ブレストは他にも直観的抽象のアーティストはいたが、
この5人が「1960年頃に最も有力な画家たちだった ([...] eran los pintores más valiosos hacia 1960)」(Romero Brest 1969: 39) と述べている。1940年代後半~1950年代にかけて ブエノスアイレスの前衛美術を牽引したマルドナードの幾何学的抽象やマディ・グループ から、若いアーティストたちへの世代交代を象徴する展覧会だった。
114 サンタフェ州立ロサ・ガリステオ・デ・ロドリゲス美術館にて開催。Museo Provincial de bellas artes Rosa Galisteo de Rodríguez (1959) を参照。
115 バン・リエルギャラリーで開催 (Costa Peuser 2005: 116)。
116 バン・リエルギャラリー、モンテビデオ近代美術館 (Museo de Arte Moderno, Montevideo) で開催 (Costa Peuser 2005: 116)。
117 ミゲル・オカンポは作家のビクトリア・オカンポ、シルビーナ・オカンポ姉妹のまた いとこにあたる。
118 Asociación Amigos del Museo Nacional de Bellas Artes (1960).
119 Museu de Arte Moderna da Bahia (1960).
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2004年に国立芸術財団 (Fondo Nacional de las Artes) がフェルナンデス=ムーロ、グ リーロ夫妻とサカイにマリオ・プッチャレッリ、アルベルト・グレコ (Alberto Greco, 1931–
1965) を加えた 5 人の展覧会をブエノスアイレスで開催したが、そのタイトルは「フェル
ナンデス=ムーロ、グリーロ、プッチャレッリ、サカイ 二度と戻らなかった者たち――ア ブストラクション、カラー、離郷―― (Fernandez Muro, Grilo, Pucciarelli, Sakai. Los que no volvieron: abstracción, color y desarraigo)」120だった。フェルナンデス=ムーロはマド リード生まれで、1938年に家族でアルゼンチンに移住した。ブエノスアイレス出身のグリ ーロと結婚後、1970年から亡くなるまで、妻とともにマドリードで暮らした。プッチャレ ッリはローマ、グレコはバルセロナに移住している。アーティストが活躍の場を求めて故郷 を後にすることは、珍しくない。しかし、ブエノスアイレスの抽象絵画の一時代を築いた彼 らが二度と戻らなかったという事実は、ブエノスアイレスがアーティストを魅了し続け、芸 術だけで食べていけるだけの市場を提供することができなかったことを示す一例とも言え る。世界的芸術都市としてパリ、ニューヨークと肩を並べることを目指したアルゼンチンの 野望は達成されることがなかった。2004年の展覧会は、活気あふれた時代への回顧と見る ことが出来る。これについては次節で述べる。