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サロン・インデペンディエンテ

第 9 章 ニューヨークの洗礼

2. サロン・インデペンディエンテ

ルプトゥーラがその存在を知らしめた決定的な出来事は、1968年に開催された「サロン・

インデペンディエンテ (Salón Independiente、「独立サロン」の意。以下SI)」である。SI が開催された1968年~1970年はルプトゥーラの最盛期とされている。以下、SIを論じた サグラリオ・イリアナ・マルティネス・フアレス (Sagrario Iliana Martínez Juarezの博士

論文 (2013) をもとに、時代背景とSIの功績について考察する。

SIの発端となったのが、1968年にメキシコで開催された夏季オリンピックである。前述 したように、メキシコ政府は文化プログラムに力を入れ、「文化オリンピック (Olimpíada

Cultural)」と題して様々なイベントを企画した。酒井はこの「文化オリンピック」に、日本

研究者として、また画家として関わっている。前者については第 16 章で詳しく述べるが、

177 Driben (2012)、Medina& Debroise (2014)、Romero Keith (2000) など。

178 メキシコシティのべジャス・アルテス宮殿 (Palacio de Bellas Artes) にて開催 (Martínez 2013: 42)。

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日本大使館に協力する形で能のメキシコ公演に積極的に参加している。しかし画家として は、「文化オリンピック」の公式行事として開催された美術展覧会に真っ向から反対し、SI の中心メンバーとしてメキシコ美術史に残る重要な役割を果たした。つまり酒井は「文化オ リンピック」そのものに反対したのではなく、「文化オリンピック」の一環として開催され た官展に反対したのであった。

「文化オリンピック」の目玉行事としてメキシコの現代美術を紹介する美術展、「太陽展

(Exposición Solar、以下ES)」が企画され、1968年6月に募集要項が発表された。これに

異を唱えるアーティストたちが参加をボイコットし、独自に開催したのがSIである。SIの 創設メンバーたちは8月9日に抗議文を発表し、募集要項の変更を求めた (Martínez 2013:

49–53)。38人の賛同者には錚々たるメンバーが名を連ねており、酒井もその一人である。

ルフィーノ・タマヨ、カルロス・メリダ、ヘスス・レイエス・フェレイラ (Jesús Reyes Ferreira)、ギュンター・ゲルソ (Gunther Gerszo)、フェデリコ・カネッシ (Federico

Canessi)、レオノーラ・キャリントン (Leonora Carrington)、ホセ・ルイス・クエバス、ア

ルベルト・ヒロネラ (Alberto Gironella)、ラファエル・コロネル (Rafael Coronel)、エンリ ケ・エチェベリーア (Enrique Echeverría)、マヌエル・フェルゲレス (Manuel Felguérez)、 ハイメ・サルディバル (Jaime Saldívar)、バルトリ (Bartolí)、アルテミオ・セプルベダ (Artemio Sepúlveda)、ビセンテ・ロホ、リリア・カリーリョ (Lilia Carrillo)、アントニオ・

ペラエス (Antonio Peláez)、アマリア・アバスカル (Amalia Abascal)、フランシスコ・コ

ルサス (Francisco Corzas)、フェルナンド・ガルシア・ポンセ、フランシスコ・イカサ

(Francisco Icaza)、ロドルフォ・ニエト (Rodolfo Nieto)、カズヤ・サカイ、マカ (Maka)、 レオネル・ゴンゴラ (Leonel Góngora)、トリニダー・オソリオ (Trinidad Osorio)、ロジャ ー・フォン・グンテン (Roger Von Gunten)、アーノルド・ベルキン (Arnold Belkin)、ル イス・ハソ (Luis Jaso)、アルナルド・コーエン (Arnaldo Coen)、イケル・ララウリ (Iker Larrauri)、マイラ・ランダウ (Myra Landau)、フアン・ルイス・ブニュエル (Juan Luis

Buñuel)、ブライアン・ニッセン (Bryan Nissen)、フェリペ・エレンバーグ (Felipe

Ehrenberg)、ガブリエル・ラミレス (Gabriel Ramírez)。

アーティストたちが特に抵抗したのは、その分類と序列に対してである。ESは絵画、彫 刻、グラフィック・アート、水彩画の四つの部門に分け、それぞれ異なる賞金を設定してい た。しかし、「新しい絵画」を目指す画家たちにとってこうした表現方法の違いは単なる技 法上の問題に過ぎず、様々な素材を自由に用いて表現する彼らには受け入れがたいものだ った。また、審査制度の存在や、賞金によって優劣をつけることも彼らの芸術的信条に反し ており、商業主義的だと批判した。この抗議文を受けて INBA も対応を検討したが、結果 的に両者の間の溝は埋まらず、SIのメンバーは独自の道を選択することになる。

SI開催の背景の一つとして反政府運動の影響が指摘されている (Martínez 2013: 56)。当

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時メキシコでは学生や労働者を中心に反政府運動が頻発しており、オリンピックを間近に 控えたメキシコ政府は軍事的弾圧を行った。その象徴的な事件が、1968年10月2日にト ラテロルコ広場で多くの死者を出したトラテロルコ事件 179である。知識人たちは政府の対 応を非難し、当時駐インド大使を務めていたオクタビオ・パスは抗議のために大使の職を辞 任した。SI のメンバーの一部も、事件の翌日に ES の会場であったベジャス・アルテス宮 殿から自身の作品を撤収し、15日から開催されたSIに展示した。直接抗議活動を行わなか ったアーティストたちにも影響はあった。第 1 回の会場に予定されていたメキシコ国立自 治大学のキャンパスが9月17日の大学占拠により使用できなくなり、会場が変更されたの

である (Martínez 2013: 89)。作品を発表するのも困難となるほど、当時のメキシコ社会は

混乱していた。

しかし、全ての参加者が政治的意図を持ってSIに出展したとは言えないだろう。マルテ ィネスのインタビューに対して、SI に参加した画家のマヌエル・フェルゲレス (Manuel

Felguérez) は以下のように証言している。

SI を開催する上で、私たちは政治的意味を持たせるわけにはいきませんでした。その 理由はとても単純で、参加者の多くはメキシコの画家でしたが、外国生まれだったので す。そのため私たちは「これは一つの運動だ」と言って彼らを危険に晒すことはできま せんでした。そうすれば彼らを招き入れることはできなくなっていたでしょう。そこで 私たちはSIに政治的意味を持たせないよう決めました。SIは単に国の組織から独立し た、パラレルの展示だったのです。

Para hacer un Salón Independiente no podíamos darle carácter político por una razón muy sencilla, de que muchos de los participantes son pintores mexicanos, pero nacidos en el extranjero, entonces no podíamos comprometerlos diciendo “este es un movimiento”, porque no los podríamos haber invitado. Entonces decidimos que no tuviera carácter político, simplemente era una muestra paralela, independientemente de la organización del Estado. (Martínez 2013: 217)

実際に当時のメキシコ情勢は非常に不安定で、酒井のような外国人アーティストたちは、厳 しい立場に置かれていた。また彼らは、オリンピックそのものに反対していたわけではなか った。むしろES をボイコットすることでオリンピックに影響が出ることを懸念し、SI を 開催したのである (Martínez 2013: 65)。

SI の創設に深く関わった酒井が、日本大使館の文化オリンピック関連イベントにも協力 したのは、酒井にとってSIが政治的運動ではなく、アーティストとしての表現の自由を求 める運動だったからだろう。酒井にとってメキシコオリンピックは、自らのライフワークで ある日本文化紹介の場であったと同時に、アーティストの自立を求める闘いでもあったの

179 詳しくはポニアトウスカ (2005) を参照。

84 である。

2-2. 芸術と自由

「ルプトゥーラ」の世代がナショナリズムや国家の芸術への介入に抵抗し、純粋な表現の 自由を求めたことは既に述べた。では、そうした理念のもとに創設されたSIは、どのよう な点で画期的だったのだろうか。

第1回のSIは、1968年10月15日にイシドロ・ファベーラ文化センターにて開催され た。参加した46名のアーティストたち180は、キュレーターの手を借りることなく、自分た ちで作品の展示作業を行った。金銭的支援を極力避けて自立性を保つための工夫である。メ キシコのシンボルである太陽がテーマとされたES に対して、SI は特別なテーマを設ける ことはせず、あらゆる表現方法が集結する展示となった。SI は大成功を収め、すぐに第 2 回の開催が決定した (Martínez 2013: 89–96)。翌年1月から第2回開催に向けての準備が 進められた。資金集めのために 8 月には競売が行われ、実現はしなかったがハプニングと パレードが企画され、酒井もデザインに関わった (Martínez 2013: 99–100)。海外からの招 待アーティストも参加したが、宿泊にはSIのメンバーが自宅を提供した。第1回にはなか ったカタログも作成されたが、資金不足からモノクロ印刷だった。オープニングには3000 人近い観客が訪れた。第3回では初めての試みとして、ダンボール、紙、絵具を用いたグル ープ展示が行われた。ダンボールと紙は、安価な素材というだけでなく、コラージュの手法 も可能にした。さらに、支援企業からの寄贈によってまかなわれたため、金銭的問題をも解 決した。これはメキシコ初のインスタレーションだと言われている (Martínez 2013: 142)。 第3回ではカタログの代わりに 8ページの冊子が作成されたが、酒井は「展望」という題 で冊子の紹介ページを執筆している。

このように、金銭面で苦労しながらも展示としては成功を収めたSIだったが、第3回を 最後に解散してしまう。その原因について、マルティネスは組織化による自由の抑圧という、

SIが抱えた矛盾を指摘している (Martínez 2013: 175–177)。第1回の直後から第2回の開 催に向けて、SI は組織化されていった。役員会と様々な規則が設けられ、役割分担が決め られた。酒井は役員を務めたが、マルティネスが行ったインタビューの証言から、中心的役 割を果たしていたことがわかる。1969年8月、酒井も参加していた役員会議で、メキシコ 近代美術館に対する批判を行うことが決定された。その結果、メンバーの一部は同美術館か ら作品を撤収させることとなった。

SIの規則はかなり厳しいものだった。メンバーには、SIの理念に反するコンクール (競 争目的、芸術をジャンルや国籍で分類したもの) に出展しないことを求めた。また、一年間 SI に作品を展示しなかった者への罰則もあり、反発を招いた。自由を求めて創設されたは ずのSIが、結果的に規則に縛られてしまったのである。規則に対する反対の声が上がる中、

180 ESの募集要項に対して抗議文を出したメンバーの多くがSIに参加したが、全員が参 加したわけではない。

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酒井とニッセン、ロホは最後まで役員会を支持し、SIに残った (Martínez 2013: 177)。3人 ともメキシコ生まれでないことを考えると、その不安定な立場がメキシコ人アーティスト よりも強くSIという発表の場を必要としたのかもしれない。

3 年間という短い期間ではあったが、SI はメキシコ美術史に確かな足跡を残した。文化 オリンピックという国家的プロジェクトに対抗して開催されたSIは、政治的な文脈のみな らず、芸術における「自由」という問題を提起して、メキシコ芸術界を変えようとした。ル プトゥーラとSIは、壁画運動以後のメキシコ美術に大きな足跡を残したと言える。

第 11 章 ヘオメトリスモ ―― 色彩のハーモニー ――