第 9 章 ニューヨークの洗礼
第 3 部 心の中の『日本』を探して――翻訳・日本文化紹介――
2. なぜ酒井は移動し続けたのか
酒井の軌跡を辿っていくと、なぜ一か所にとどまることなく移動を続けたのかという疑 問が湧いてくる。そして、その理由は酒井が帰国二世であったことと無関係ではないはずだ と多くの人は考えるだろう。日本文学者のギジェルモ・クアルトゥッチは、酒井の死後出版 された講義録を『渡り鳥 (Ave de paso)』と題した。1986年に酒井にインタビューを行った レリア・ドリーベン (Lelia Driben) は、記事に「帰属のない場所 (“El lugar de la no
pertenencia”)」というタイトルをつけた。これはインタビューで語られた酒井自身の言葉
を元にしている。
―あなたにとってノスタルジーとは何ですか?
―それも言語と結びついています。人は心の中で一か所に住むことができ、私の場合、
そこが日本よりもブエノスアイレスであることは明らかです。ブエノスアイレスは、私 が最も頻繁にそこにいたいと思う街であり、必要な所有地であることを意味する街で す。なぜなら私の場合、ノスタルジーは、とりわけ帰属する場所の欠如と関係している からです。
- ¿Qué es la nostalgia para usted?
- Se vincula también con el idioma. Uno puede vivir mentalmente en un lugar, es muy probable que ese lugar sea Buenos Aires más que Japón. Buenos Aires constituye la ciudad en la que con mayor frecuencia deseo estar y significa, asimismo, una zona de posesión necesaria. Porque en mi caso la nostalgia tiene que ver, sobre todo, con la falta de un lugar de pertenencia. (Driben, 1986: 6)
酒井は白人が圧倒的多数を占めるブエノスアイレスで日本人の両親のもとに生まれ、10 歳で親元を離れて約12年間日本で生活し、戦後帰国した。その後アルゼンチンで約13 年 間、米国滞在を経てメキシコで約12年間、テキサスで約25年間を過ごした。移動を繰り 返すと同時に絵画のスタイルも次々と変わっていったため、常に新たな場所を求めて放浪
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する旅人という、いささかロマンチックなイメージがつきまとう。確かに、それもまた酒井 の一面であったかもしれない。
しかし、妻のスミコはメキシコに渡った理由について、「仕事があって呼ばれたので行っ ただけで、『移住』するつもりではなかった」と述べている284。その証拠に、酒井はブエノ スアイレスにもニューヨークにもマンションを残して行っている 285。戻るつもりがなかっ たわけではなく、帰属することを拒否していたわけでもない。生まれ故郷のブエノスアイレ スについては、「私としては、ブエノスアイレスを忘れることが出来ません。もし一か所帰 属先を選ぶとしたら、迷うことなくブエノスアイレスを選ぶでしょう (Por mi parte, no puedo olvidarme de Buenos Aires, si debo elegir un espacio de pertenencia no vacilaría en ubicarlo allí)」(Driben, 1986: s/n) と述べている。酒井自身は「帰属の欠如」を感じて いたが、その一方で、ブエノスアイレスが自身の拠り所として存在していたのであり、帰属 先を探し求めて各地を彷徨っていたわけではない。
だとすれば、酒井が移動を続けたのは、純粋に創造のための刺激を求めたからだったと考 えるべきだろう。1960年代初頭にアクション・ペインティングの手法を用いるようになっ ていた酒井がニューヨークを目指したのは至極当然のことであった。また日本文学研究の 分野においても、東洋研究部門が新たに設立されたメキシコ大学院大学の方が、アルゼンチ ンよりも理想的な環境だったはずである。テキサス大学は、それまで教えていた日本文学で はなく、ラテンアメリカ美術を教えるという新たな仕事に挑戦する場を与えてくれた。酒井 は様々な仕事に積極的に取り組み、それを表現に活かしてきた。一度も故郷を離れたことの ない者と比べれば、帰国二世であり、20 代前半で既に地球二周分の旅をしていた酒井にと って、移動はあまり問題にならなかったのかもしれない。しかし酒井を突き動かしていたも のは何よりも好奇心であり、表現の追求のために、移動を続けたのである。
酒井というアーティストが興味深いもう一つの理由は、度重なる移動に伴い、その作風も 変化していった点である。酒井は一か所に定住することがなかったが、同様に一つのスタイ ルにとどまることもなかった。その意味で、物理的な「移動」と、スタイルからスタイルへ の「移動」があったと言える。キュビスムの作品でデビューし、ブエノスアイレスを席巻し ていた幾何学的抽象に取り組み、その後書とアクション・ペインティングを取り入れた作品 でアルゼンチン・アンフォルメルの先駆けとして高い評価を得た。しかしニューヨーク滞在 を機にその作風はポップアートへと大きく様変わりした。壁画運動と距離を置いた「ルプト
284 酒井スミコへのインタビューより (2015年8月、ダラス)。
285 雑誌のインタビューには以下のような記述がある。「ブエノスアイレスに戻るかどう か?『それが問題なんです』酒井にはわからない。彼は計画を立てていない。ブエノスア イレスにはマンションを残してきている (¿Volver a Buenos Aires? “Bueno, ése es el problema”. No sabe. No tiene planes. Allí dejó un departamento)」(Mas 1969: 58) 実際 に、1967年に出版された『在亞日系人々名錄』には「酒井和也 (Sakai Roberto
Kazuya)」の名前があり、ブエノスアイレスの住所が記載されている (Asociación
Japonesa en la Argentina 1967: 229)。
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ゥーラ」のアーティストたちが「新たな絵画」を模索し始めたメキシコに辿り着くと、再び 幾何学的抽象に取り組んだが、今度はカラーフィールド・ペインティングの影響を受けて色 彩と線の研究に没頭した。ジャズや現代音楽と琳派の曲線美を取り入れた作品は、ヘオメト リスモを象徴するものとしてメキシコ美術界に大きな足跡を残した。テキサスでは日本の 古典的作品をキュビスムに「翻訳」し、それらを軸装することで、伝統という型の中で独自 の表現に挑戦した。最晩年には紙と墨のみで、余白を印象的に用いて禅の思想を体現させた。
多少のタイムラグはあるにせよ、酒井の物理的な「移動」とスタイルの「移動」の時期は 重なっていると言える。「模倣から生まれる創造」という考えのもと、様々な文化を吸収し てきた酒井にとって、新たな地で新たなものに触れることが不可欠だったのかもしれない。
しかし、まるで別人によって描かれたような全く異なるスタイルも、「新たな芸術」という 観点から見れば、二項対立の超越という一貫した態度があることが明らかとなった。本論で は酒井の多彩な活動だけでなく、変化し続けた作風に関しても一つのライフワークを見出 すことができた。
とはいえ、ナショナリズムの傾向が強くなっていたメキシコ壁画運動と距離をとった「ル プトゥーラ」の世代に属していることと、晩年の酒井に顕著に見られる「日本的」なモチー フの多用は、矛盾するように思われるかもしれない。しかし、「ルプトゥーラ」が抵抗した のはナショナリズムや国家による芸術への干渉であり、土着文化や伝統文化を否定したわ けではなかった。実際、「ルプトゥーラ」のアーティストには土着的なモチーフを描いた画 家も含まれている 286。また酒井自身、埴輪について解説本を執筆したり、メキシコのオル メカ文明に関する本の挿絵を担当したりしている (Palacios 1965)。日本文化への言及は、
晩年の作品のみならず、アルゼンチン時代のアンフォルメルや、メキシコ時代のヘオメトリ スモにおいても、暗示的になされてきた。その一方で、特定の文化の優位性を宣伝したり、
ナショナリズムを高揚したりする作品には断固反対した。また芸術が国家の介入を受け、表 現の自由が奪われることにも抵抗した。
ラテンアメリカ美術における土着/ヨーロッパの対立において、酒井はどちらにも偏る ことなく、二項対立的な見方自体を否定する作品を描いてきた。「日本的」な表現を取り入 れていることについては、「リージョナリズムや民俗的表現を築くためではなく、自分たち の根を張ったフォルムの絶え間ない発明を続けるためですが、その根源というのは、変化す るもの、形が変わるもの、普遍的な表現になるものです」(Abelleyra 1987: 26) と述べてい る。酒井にとって文化とは常に変化し続けるものであり、一見相反するように見えるものも、
相互に影響し合い、そこからまた新しい文化が生まれると考えていた。
また酒井が描いた「日本」とは、必ずしも現実を映し出すものではなく、美術や文学作品 から想像して築き上げられたものであった。帰国二世という生い立ちから、酒井の作品には
286 先コロンブス期の文化に高い関心を示したペドロ・コロネル (Pedro Coronel, 1923–
1985)、ブライアン・ニッセンや、メキシコの革命家エミリアーノ・サパタをモチーフに
描いたアルベルト・ヒロネラなど。詳しくはDriben (2012) を参照。
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常に「日本的」な要素が見出されてきた。しかしそこに描かれたのは国家としての日本や現 在の日本ではなく、画家の心に刻まれた「内部の風景」であったことを忘れてはならない。