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ラテンアメリカ文化とは

第 6 章 ラテンアメリカ美術の可能性

2. ラテンアメリカ文化とは

これまで述べてきたように、征服者と被征服者の両方の文化を受け継いだラテンアメリ カでは、その文化の起源が常に議論の的となってきた。バジョンによれば、「ラテンアメリ

92 詳しくは北澤 (2005) を参照。

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カ美術は一般的に 1920 年代に目覚めを迎えた (El arte latinoamericano en general se‘despierta’en la década de los 20)」(Bayón 1974: 17) が、ラテンアメリカ独自の美術が 模索されるようになると、その議論は活発化した。

メキシコの歴史家、美術史家のホルヘ・アルベルト・マンリケ (Jorge Alberto Manrique,

1936–2016) は、「自分たちは何者なのか」という問いに対して、「ヨーロッパ人であり、ヨ

ーロッパ人ではない」という逆説的な答えを出している。これは、大量のヨーロッパ移民を 受け入れたアルゼンチンやウルグアイのような国と、メキシコやペルーのように先住民文 化が色濃く残る国の事情の違いを的確に言い表している。マンリケは、前者のようなクリオ

ーリョ (criollo) の国は、ヨーロッパ文化を自らのものと捉えているのに対し、後者のよう

なメスティーソ (mestizo) の国では、ヨーロッパとの違いを打ち出そうとしたことを指摘 している (Manrique 1974: 20)。

マン リケが引 用し、自身の 主張の土 台としている のは、エ ドムンド・オ ゴルマ ン (Edmundo O’gorman, 1906–1995) の著書『アメリカは発明された (La invención de

América)』(1958) におけるアメリカ史をめぐる議論である。それによれば、「『旧』世界の

レプリカ」として発明された「新世界」は、「もう一つのヨーロッパになるという可能性に 存立」しており、「ヨーロッパを模倣する道と、ヨーロッパの価値を受け入れはするが独自 の方法でそれを実現するという道」を現実に歩んできた。オゴルマンは前者をスペイン語系 アメリカ史、後者を英語系アメリカ史が歩んだ道だと述べているが、独立戦争を経て、ラテ ンアメリカ独自の道を模索する試みも生まれてきたと付け加えている (オゴルマン 1999:

184–193)。マンリケの主張は、ラテンアメリカ美術の「目覚め」以降その差異が顕著になっ た、模倣と独創の二つの立場を指している。そして独創の道は、先コロンブス期の土着文化 に求められた。美術に限らず様々な分野で土着/ヨーロッパという二項対立が見られ、20 世紀のラテンアメリカのアーティストは皆、多かれ少なかれこの二つの傾向を意識せざる を得なかった。

極端な言い方をすれば、アルゼンチンはヨーロッパ美術の影響をより強く受け、メキシコ は、土着主義的な壁画運動が圧倒的な勝利を収めた国であった。もちろん実際にはより複雑 だが、前者にはヨーロッパ美術のものまねという批判がつきまとい、オリジナリティの欠如 に悩まされた。一方、ラテンアメリカの独自性を主張する後者は、時としてナショナリズム に陥る傾向があった。またアルゼンチンの美術史家アンドレア・ヒウンタ (Andrea Giunta) は、冷戦期には「自由」を象徴する抽象絵画と、壁画運動に代表される社会主義リアリズム の対立構造が見られたが、これにラテンアメリカ美術も加わっていったことを論じている

(Giunta 2008: cap.7)。このように、土着/ヨーロッパ、ナショナリズム/コスモポリタニ

ズム、具象/抽象といった様々な二項対立が複雑にせめぎ合う中で、ラテンアメリカ美術は 新たな道を模索していた。

このような転換期を迎えてきた 1950~1970 年代に、対極に位置するともいえるアルゼ ンチンとメキシコの両国で、酒井は画家として成功を収めた。それは、酒井がどちらの立場

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にも偏ることなく、両者の相克を乗り越えようとしてきたからであった。酒井自身の中にも 日本/アルゼンチンという異なる二つの文化が存在し、それらが矛盾しないことを自らの 表現を持って証明しようとした。次節では、酒井がどのようにしてこの問題を克服したのか について、ラテンアメリカ文化に関するシンポジウムでの発言から読み解いていく。

3. 1975年のシンポジウム

3-1. 「12人の現代ラテンアメリカアーティスト」展

1975年9月28日~11月2日の間、テキサス大学オースティン校の美術館にて、「12人 の現代ラテンアメリカアーティスト展 (12 Latin American Artists Today)」が開催された (The University of Texas at Austin, The University Museum 1975)。これは雑誌『プルラ ル』が主催し、当時同大学で教鞭をとっていたダミアン・バジョンと酒井がキュレーターを 務めたものである。酒井はキュレーターの役割に徹し、展示には出品しなかったが、美術館 館長の計らいで一点だけ作品が展示された (King 2007: 141)。以下はバジョンと酒井によ って選出された12人のアーティストである。

マルセロ・ボネバルディ (Marcelo Bonevardi, 1929–1994): アルゼンチン出身、ニューヨ ーク在住

セルジオ・ヂ・カマルゴ (Sérgio de Camargo, 1930–1990): ブラジル出身。

カルロス・クルス=ディエス (Carlos Cruz-Diez, 1923–): ベネズエラ出身、パリ在住。

マルエル・フェルゲレス (Manuel Ferguélez, 1928–): メキシコ出身。

ギュンター・ゲルソ (Gunther Gerzo, 1915–2000): メキシコ出身、ハンガリー移民の二世。

エドガー・ネグレ (Edgar Negret, 1920–2012): コロンビア出身。

ブライアン・ニッセン (Brian Nissen, 1939–): イギリス出身、当時はメキシコ在住。

ビセンテ・ロホ (Vicente Rojo, 1932–): バルセロナ出身、メキシコに帰化。

フェルナンド・デ・シスロ (Fernando de Szyszlo, 1925–): ペルー出身。

フランシスコ・トレド (Francisco Toledo, 1940–): メキシコ出身。

ルイス・トマセロ (Luis Tomasello, 1915–2014): アルゼンチン出身、パリ在住。

ロジャー・フォン・グンテン (Roger von Gunten, 1930–): スイス出身、メキシコに帰化。

この展覧会と並行して、10 月27日から 3日間、現代ラテンアメリカ美術に関するシン ポジウムが開催された。ドーレ・アシュトン、オクタビオ・パス、現代メキシコ美術を代表 する画家ルフィーノ・タマヨ (Rufino Tamayo, 1899–1991) を含む、錚々たる顔ぶれの批 評家、アーティスト31名の他に、自費での参加者も多く集まった。シンポジウムの議事録 は後に『ラテンアメリカ人アーティストとアイデンティティ (Artistas latinoamericanos y su identidad)』と題され、バジョンの名前で出版された (Bayón 1977)。

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3-2. 現代ラテンアメリカ美術に独自の表現は存在するか?

シンポジウムの中心テーマの一つとなったのが、「現代ラテンアメリカ美術に独自の表現 は存在するか」というものだった。第一セッションではこの点について激しい議論が交わさ れた。ペルーの美術史家であるフアン・アチャ (Juan Acha, 1916–1995) は、ラテンアメリ カ人であることを議論するための概念が欠如していると主張した。メキシコの画家ホセ・ル イス・クエバス (José Luis Cuevas, 1934–) は、ラテンアメリカのアーティストがニューヨ ークの美術の真似ばかりしていると嘆き、「植民地アート (un arte colonial)」と批判した。

ペルーの美術批評家のカルロス・ロドリゲス・サアベドラ (Carlos Rodríguez Saavedra) は、

出自にかかわりなく、ラテンアメリカ在住のアーティストが高いレベルの作品を生み出す ことがラテンアメリカ美術の存在証明になると主張した。ペルー出身の画家フェルナンド・

デ・シスロは、ラテンアメリカ美術は既にコスモポリタニズムとアメリカニズムの対立を克 服しており、10 年前のように欧米で認められることを望んではいないと述べた。またアチ ャの発言に対して、ラテンアメリカのアイデンティティに関する議論は30年前に終わって おり、ラテンアメリカ美術が存在するかどうかを議論する必要はないと主張した。アルゼン チンの批評家マルタ・トラバ (Marta Traba) もデ・シスロに賛同している (Bayón 1977:

27–60)。

果たして、デ・シスロの言うようにラテンアメリカ人アーティストのアイデンティティに ついて議論することは、1975年時点で既に時代遅れだったのであろうか。確かに、ラテン アメリカ独自の文化が存在することは、文学の分野でも美術の分野でも証明されていた。し かし、ラテンアメリカを構成する人々が多様化し、その文化も拡大していった。当時のラテ ンアメリカを代表するアーティストとして選ばれた12人の顔ぶれを見ても、外国生まれの 者、ニューヨークやパリで活動する者など、様々なバックグラウンドを持っている。酒井と 親しかったロホはバルセロナ出身で、スペイン内戦から逃れてメキシコに帰化している。ラ テンアメリカ美術は、亡命者や移民によって新たな様相を呈していたのである。

また、このシンポジウムがスペイン語圏からの移民が多く暮らすテキサス州で行われた という事実も見逃せない。当時既に米国南西部を中心にチカーノ (メキシコ系アメリカ人) やラティーノ (ラテン系アメリカ人)、ヒスパニック (スペイン語圏出身のアメリカ人) と呼 ばれる人々が大きな存在となっており、1960年代以降に注目を集めたチカーノ・アート93 に代表されるように、スペイン語圏の文化は北米にまで拡大していた。シンポジウムが開催 されたテキサス大学はラテンアメリカ研究に力を入れており、酒井もこの翌年、エドワー ド・ラロック・ティンカー財団のラテンアメリカ研究者招聘制度で同大学に招かれている。

確かにラテンアメリカは、その文学や美術の質の高さを世界に認めさせることに成功し た。しかし「承認」を得たからといって、ラテンアメリカ文化に関する議論が尽きたわけで

93 米国におけるメキシコ系アーティストによる運動。詳しくは加藤薫 (2002) を参照。酒 井自身はテキサス移住後もチカーノ・アートと直接的な関わりを持つことはなかったと見 られる。

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はない。酒井のようなアジア系を含む世界各地からの移民によってラテンアメリカを構成 する人々の多様化が進み、またラテンアメリカから北米への移民 (emigrantes) によって、

ラテンアメリカ文化は広がりを見せていた。1975年に行われたこのシンポジウムは、単な る過去の議論の掘り返しではなく、ヨーロッパ/ラテンアメリカという構図が当てはまら なくなった当時の状況から生まれた、興味深い議論だったと言えよう。

3-3. 模倣から生まれる創造

酒井は 2 日目のラテンアメリカ文学の批評に関する第二セッションで司会を務めた。進 行役に徹したため自らの意見を述べる機会は少なかったが、いくつか興味深い発言もある。

欧米がモデルとして存在することによる「ラテンアメリカ人であることのアンビバレンス」

について議論になった際、酒井は中国や日本における、模写の文化を例に挙げている。先達 の作品をコピーすることが独自のスタイルの創造につながるという考えは、オリジナリテ ィに関する議論に光を投げかけるのではないか、と主張する (Bayón 1977: 73)。

前述した第一セッションでも、バジョンがウンベルト・エーコの次の言葉を引用して似通 った発言をしている。

「アルゼンチンの知識人は貪欲に、そしてほぼ同時に、フランス、ドイツ、イタリア、

米国で起こったことに従っている。このような他文化への依存を自覚しているために、

自分たちはオリジナルなものをなにも生み出していないと常に疑っており、自虐しな がら他所の製品を使っている。このように振る舞って、自分たちが多様なディシプリン にいかにオリジナルな貢献をしてきたか、またすることが可能であるかに気づいてい ない」

“... el intelectual argentino sigue con una voracidad y actualidad ejemplares cuanto ocurre en Francia, Alemania, Italia, o los Estados Unidos, y como es consciente de esta forma de dependencia de otras culturas, continuamente vive en la duda de no producir nada original y se desprecia mientras utiliza productos ajenos. Obrando así no se da cuenta de cuantas contribuciones originales está dando o es capaz de dar a diversas disciplinas.”94 (Bayón 1977: 46-47)

アルゼンチン文化はヨーロッパ文化の影響を強く受けており、オリジナリティがないと思 われがちである。しかし実はあらゆる文化を吸収して新たなものを生み出す力を持ってい るということを、バジョンはエーコの言葉を借りて主張している。酒井が日本を例に挙げて 主張した「模倣から創造が始まる」という考えは、実はアルゼンチン文化の特徴でもあった。

日本文化についても、中国の真似にすぎないと欧米では言われてきた (キーン 2014: 41)。

94 バジョンによるイタリア語からの翻訳・引用。