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酒井ホルヘ (実弟)

ドキュメント内 酒井和也とラテンアメリカの「新たな芸術」 (ページ 196-200)

第 9 章 ニューヨークの洗礼

第 3 部 心の中の『日本』を探して――翻訳・日本文化紹介――

1. 酒井ホルヘ (実弟)

2013年9月9日ブエノスアイレス、於酒井ホルヘ宅。

酒井ホルヘ/和明 (Jorge Sakai, 1930–)

酒井和市、ナミの三男。ブエノスアイレスで生まれ、1940~1948 年まで佐賀県で過ごす。

アルゼンチンに帰国後、ブエノスアイレスで生花店「イケバナ」を経営し、アルゼンチン花 店協会 (Asociación Argentina de Floristas) の会長を務めた (1968–1973)。1970年代にブ エノスアイレスの日本語学校日亜学院の新校舎建築に尽力し、日亜学院理事長を務め、日亜 学院名誉会員となる (らぷらた報知, 2013a; 2013b)。

高木:先月の『ラプラタ報知』にホルヘさんの記事が掲載されていましたね。ご両親のこと が二回に分けて記事になっていました。

酒井ホルヘ (以下、ホルヘ):はい、私はアルゼンチンで花卉店、花を売る店をやっていたん ですが、邦人で唯一の店でした。アルゼンチンに来られた日本人の方はほとんど栽培、市内 では洗濯業が主でした。花卉の栽培をやっておられる方はいまでもおられるんですが、ずい ぶん流行っていて。ところがそれを売る店がなかった。私は鈴木さんという方、もうとっく に亡くなったんだけど、その人と共営で「イケバナ」という店を出したわけです。

私は三人兄弟で、上がアルベルト/和民、二男がロベルト/和也、和也はご存知でしょう が、画家だったんですけど、私は三番目だったんです。兄弟三人とも日本に、二次大戦が始 まる直前に、両親はアルゼンチンにおりながら、勉強に行ってこいということで、三人日本 に送られたんです。上の二人の兄が1938年、私は1940年に行きました。戦争の直前です。

両親も店を閉めたり家屋を売ったりすることがあるもので、一緒に僕と日本へ行かれなか った。ところが手続きをしている間に第二次大戦になってしまって。

高木:もともとは短期間で戻ってくる予定だったんですか?

ホルヘ:ええ、日本で勉強が終わってアルゼンチンに帰る予定だったんです。両親も、二次 大戦の日本と米国との対立が日に日に悪くなって、日本に行ったほうがいいんじゃないか という考えがあったんじゃないかと思うんですけど。親父はすぐ自分で決めて、三人をやっ て後で行くというつもりでいたんですけど、結局、1948年まで戦争中ずっと日本にいて、

1945年に終戦だったんですけど、すぐは帰ることができなくて、1948年にアルゼンチンに 帰国したんですよ。

兄は病気だったので、和民と私が二人で飛行機で1948年に帰ったんです。当時の飛行機 はプロペラで太平洋を越えるのに大変だったんですけど。12 日間かかったんです。それで アルゼンチンに着いて。和也は病気で残って、親父の故郷は佐賀なんですけど、佐賀に母の

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姉、私の伯母が未亡人で、一人息子も病気で亡くなって一人だったもんだから、和也を看護 するということで二人福岡に残ったんですよ。だから伯母と二人、福岡に残って、彼は1951 年、3年後、アルゼンチンに帰って。帰ったのは飛行機ではなくて、船で帰ったんです。

高木: ルイス号ですね?

ホルヘ: そうです。伯母は一人息子が亡くなって一人だったものだから、父があなたもアル ゼンチンに来なさいと行って、それで伯母もアルゼンチンに来てここで亡くなったんです。

二人で1951年に船でここに戻ったわけです。なかなか面白いというか、珍しい経歴の家族 なんですけど。

高木: 1948年は戦後一番最初にアルゼンチンに戻ったグループですよね?

ホルヘ: そうです。本当は飛行機じゃなくてアルゼンチンの船で帰国するはずだったんです。

ところが横浜に行ったら、そのアルゼンチンの船が、アルゼンチンは二次大戦中は枢軸国の 仲間といわれて、当時は日本には米軍が進駐していて、だから横浜の港に入った船を追い出 してしまった。私はまだ覚えているんだけど、港で私たちが乗るはずだった船がまた出てい く様子を見ていたんです。涙を流しながらね。それで仕方がないからどうしようかというこ とで、父は長男と私を当時のパンアメリカ、当時はパナグラだった、米国の唯一の飛行機会 社が日本からアルゼンチンに帰ったわけなんです。当時の日本からアルゼンチンに来る航 空賃も相当かかったと思うんですよ。たった 30 人しか乗らなかった。なかなか長い旅で、

座席も本当のベッドなんです。寝台になっていて。だから随分、親父は苦労して私たちをア ルゼンチンに帰したわけです。それが1948 年。1951 年に病気も良くなって、和也が伯母 と二人で帰ったわけです。翌々年の、53 年だったと思うんですけど、ここの海水浴場でマ ルデルプラタというところがあるんですけど、そこに夏休みにいったときに自動車事故で、

親父は亡くなったんです。

その後私は日本で栄養失調だったから、肺炎になっちゃって、当時はペニシリンだったん ですけど、ちょうど私が肺病になったときは、エステットマイシンという新しい薬が出て、

それがあったから私は助かったんです。10 か月くらい、コルドバの山脈のコスキンという ところで養生して。そのあとブエノスアイレスに帰ったんです。

高木: それはお一人で行かれたんですか?

ホルヘ: そうなんです。そのとき、私は18歳でした。10か月後にブエノスアイレスに帰っ たんですけど、今度はこれから何をやろうかと、学校は日本の中学校を終わったのに、ここ では認定がないんです。だから仕方がないから、小学校から始めなくちゃいけない。小学校

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の4年生だったから、小学校の4年生、5年生から。18歳で小学校の5年生の勉強をまた 始めるのも大変だと思って、父の知り合いの鈴木さんという方、さっきも言いましたけど、

故郷で花のお仕事をやった方、その人と共営で「イケバナ」という店をやったんです。

高木: 日本にいたころのお話を伺いたいのですが、最初に佐賀に行かれたんですか?

ホルヘ: ええ、直接佐賀に。佐賀に伯母がいたから。伯母と上の二人も佐賀にいた。私は1938 年っていったら、私は1930年生まれだから、8歳だったの。うちの母が親父に、まだホル ヘ、和明と言いますけど、和明はまだ8歳だからあとで送るようにしたいと言ってね。父に 頼んで。それで私は結局、二年後、1940年に日本に行ったんです。

高木: 和也さんは佐賀で小学校と中学校を卒業されたんですか?

ホルヘ: そうです。佐賀中学校。そのあとは早稲田に行ってね。

高木: 和也さんお一人で東京に行かれたんですか?

ホルヘ: そう。長男 (和民) は長崎医専で勉強して。

高木: 早稲田の文学部と聞いていますが、専攻は?

ホルヘ: 文学です。日本文学。

高木: 早稲田では絵の勉強はしていなかったんですか?

ホルヘ: 絵は早稲田を出てからです。最初はアルゼンチンに帰って、コルドバに一年くらい いて、ブエノスアイレスに帰って、ブエノスアイレスで日本の大使館の文化担当だったんで す。

高木: 新聞の記事によると、ご両親はラファエラに行かれたそうですが。

ホルヘ: 私の父は、ブエノスアイレスのコリエンテス大通りの2525番で大きなコーヒー店 をやっていたんです。

高木: カフェ・ハポネスですね?

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ホルヘ: そうです。当時はテーブルが11ある大きな店で、とても流行っていたんです。と ころが1930年の経済危機でカフェ店は潰れちゃったわけ。それで田舎のコルドバのサンフ ランシスコで、父の友達で田中さんという人がいてカフェ店をやっていた。その人を頼って 行ったんですけどね、コルドバのサンフランシスコという町から 100 キロくらいのところ にある、サンタフェ州のラファエラというところに行って、カフェなり洗濯店なりを開きな さいと田中さんに言われてね、それでラファエラに行ったんですよ。当時は随分苦労しただ ろうと思うんですよ。お金もなくてね。それで、そこで洗濯屋を開いたわけなんです。

高木: 皆さんがお生まれになったのはブエノスアイレスのコリエンテス大通りにいたとき ですよね?

ホルヘ: そうです。

高木: ご両親はお二人とも佐賀の方ですか?

ホルヘ: そうです。

高木: 日本でご結婚されたんですか?

ホルヘ: 親父は独身でこっちに来て、七草木万之丞な な く さ き ま ん の じ ょ う

という方と共営で大きなカフェ店を出 して成功して、1920年にチリのバルパライソという港から日本に行って、母と知り合って、

結婚してこっちに来たわけです。ちょうど母はそのとき東京に出ていて、1923年の関東大 震災に遭って、父と出会って結婚して、1924年に船で父とアルゼンチンに戻ったわけなん です。店は七草木万之丞という共同経営者に任せて帰った。だから長男の和民は1925年に 生まれたんです。和也は1926年。私は1930年。

高木: ご両親は佐賀のどちらのご出身ですか。

ホルヘ: 佐賀の田舎なんです。神埼郡の三田川というところ。

高木: 三人共も日本の国籍とアルゼンチンの国籍を両方持っていたんですか?

ホルヘ: はい、持っていました。

高木: 日本では日本語の名前で生活されていたんですよね。

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