第 9 章 ニューヨークの洗礼
第 3 部 心の中の『日本』を探して――翻訳・日本文化紹介――
1. オクタビオ・パスと『プルラル』
1-1. パスと日本
オクタビオ・パスと日本文化の関係については、アウレリオ・アシアイン (Aurelio Asiain) の研究に詳しい。それによれば、パスは幼少期に祖父の家の日本庭園に親しみ、ピエール・
ロティ、ラフカディオ・ハーンやアーサー・ウェーリの翻訳、ホセ・フアン・タブラーダ (José Juan Tablada, 1871–1945)263のスペイン語ハイクを好んで読んでいた。1952年には外交官
著で仏教に関する本を出版している (Borges y Jurado 1991)。
263 詳しくは太田 (2008) を参照。
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として日本にも滞在しており、1957年には林屋永吉と『おくのほそ道』を共訳した。これ は『スール』の日本文学特集号の直前のことであり、同特集のきっかけを作ったのもパスで ある。アシアインによれば、パスは「キューバやプエルトリコよりも日本のことを多く書き、
英語、イタリア語の詩よりも多く日本の詩を訳した」(Asiain 2014: 12)。
アルゼンチンの知識人が日本を近代化の模範として見ていたのに対し、パスは日本人独 特の感受性に惹かれた。芭蕉の句や連歌264を研究することで、詩の可能性が広がると考え ていた。パスは日本について、以下のように語っている。
日本はもはや芸術的、文化的好奇心の対象ではなくなった。日本は世界のもう一つの見 方であり (であった?)、それは私たちの見方とは異なるが、優れているわけでも劣っ ているわけでもない。日本は鏡ではなく、人間の別のイメージや異なる存在の可能性を 見せてくれる、窓なのである。
El Japón ha dejado de ser una curiosidad artística y cultural: es (¿fue?) otra visión del mundo, distinta a la nuestra pero no mejor ni peor; no un espejo sino una ventana que nos muestra otra imagen del hombre, otra posibilidad de ser. (Paz 2014a: 298)
「鏡」とは、エドワード・W・サイード (Edward W. Said, 1935–2003) がオリエンタリズ ムとして批判した、自己の否定的な面を他者に投影する行為を指している。「鏡」ではなく、
別のイメージを見せてくれる「窓」というパスの言葉には、彼の思想が表れている。自らの 雑誌に「プルラル=複数の」というタイトルをつけたパスは、東西といった二項対立ではな く、多様な文化の一つとして日本を見ていたのである。
日本文学に大きな関心を寄せ、実際に翻訳も手がけていたパスだったが、日本語が読めな かったために、林屋永吉という協力者を必要とした。酒井もまた、共訳こそなかったが、パ スの雑誌『プルラル』に翻訳を提供した協力者の一人だった。それだけでなく、編集長、ア ートディレクターとして活躍した、『プルラル』に欠かせない存在でもあった。
1-2. 出会い
『スール』の誌上で知り合った二人だったが、実際に知り合ったのは酒井がメキシコに移 住後の1967年のことだった。メキシコ大学院大学で講演を行うためにメキシコシティに一 ヶ月滞在していたキーンが、パスに酒井を紹介したのである。このときの様子をキーンは以 下のように証言している。
その後、1967年に私はコレヒオ・デ・メヒコ [メキシコ大学院大学:引用者注] で日本 文学について二度講演することになり、ひと月その街で過ごしたが、その頃オクタビ オ・パスもたまたまメキシコに帰っていた。彼は、パリへ行ったカルロス・フエンテス
264 パスは1969年にパリで連歌会を開催した (Asiain 2014: 45)。
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の家に間借りしていた。私はKazuya Sakaiと一緒に彼を訪ねていった。Sakaiは日本 人を両親に持つ、アルゼンチン育ちの古い友人で、素晴らしい作品を描く画家でもあっ た。コレヒオ・デ・メヒコで日本文学の講座を持ち、私を自宅に泊めてくれた。彼らを 引き合わせた瞬間、私は二人の間に緊張が走るのを悟った。少しずつ事の次第が分かっ てきた。パスはSakaiに日本人を見ていた。一方、Sakaiはアルゼンチン人であること に誇りを抱いていたので、日本人のように扱われることは彼を不愉快にさせずにおか なかった。時が過ぎて二人は親友になり、雑誌『Plural』で一緒に働くことになった。
(キーン 2014: 83–84)
パスが酒井を日本人として扱い、それが酒井を不愉快にさせたというキーンの洞察は興味 深い。酒井は幼少期から日本人として扱われることに慣れていたはずだが、それでも彼を不 快にせずにはいられなかった。
しかしキーンも述べているように、両者は互いを理解し合うようになっていった。パスは 後に酒井のことを「日本・アルゼンチン・メキシコ人 (un japonés argentino mexicano)」
(Paz 2014b: 719) と呼んでおり、酒井の複雑な出自に対する理解だけでなく、メキシコ人
としての同胞意識まで示している。酒井もまた、パスの日本への関心が単なるオリエンタリ ズムではなかったことをすぐに見抜いたことだろう。
1-3. 酒井について
パスは酒井の翻訳を高く評価しており、酒井について以下のように述べている。
「第二次世界大戦後、ラテンアメリカの人たちは再び日本文学に関心を寄せるように なった。その証拠にわれわれの『奥の細道』、それに雑誌『Sur』の日本近代文学特集号
およびKazuya Sakaiの翻訳がある。彼は孤高の、しかし百人力の翻訳家である」
(キーン 2014: 83–84、キーンによる翻訳)
Después de la segunda Guerra Mundial los hispanoamericanos vuelven a interesarse en la literatura japonesa. Citaré, entre otros muchos ejemplos, nuestra traducción de Oku no Hosomichi, el número consagrado por la revista Sur a las letras modernas del Japón y, sobre todo, las traducciones de un traductor solitario pero que vale por cien: Kasuya (sic)265 Sakai. (Paz 2014a: 298)
『プルラル』の創刊号には、酒井訳の『徒然草』抄訳が掲載された。ジョン・キングは、
265 2014年にメキシコでFondo de Cultura Económicaから出版された『オクタビオ・パ ス全集』では酒井の名前が全てKasuyaという表記になっているが、『プルラル』につい て酒井と頻繁に手紙のやりとりをしていたパスが間違えたとは考えにくく、編集の際に起 きたスペルミスだと考えられる。ラテンアメリカのスペイン語ではzとsの音が同じなの で、しばしばこのように誤表記される。
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この選択にはパスの関心が表れており、世界文学が欧米だけではないことを示す意図があ ったと述べている (King, 2007: 68)。パスが日本文学に特別な関心を寄せていたとはいえ、
第 1 号で大々的に取り上げられたことは特筆すべき点である。これについてパスは、以下 のように述べている。
また、私たちはあまり知られていない世界に扉を開きたかったのです。例えば創刊号で は、共通の友人で、画家、学者でもある酒井和也が、14 世紀の日本人作家のアンソロ ジーを掲載しました。兼好という、詩人で仏僧の作家です。
También queremos que abra las puertas a mundos poco conocidos. Por ejemplo, en el primer número nuestro común amigo, Kasuya (sic) Sakai, que es un pintor pero también un erudito, publicó una antología del escritor japonés del siglo XIV, Kenko, poeta y monje budista. (Paz 2014b: 1049)
他にも、『プルラル』は酒井訳の謡曲や安部公房、川端康成の短編を掲載した。これは当時 の酒井の関心に沿ったものであるが、これまでにない雑誌を作ろうというパスの方針の表 れでもある。
メキシコは閉鎖的な国、もしくは外へ通じる道が一つ (昔はフランス、今は米国) しか ない国です。私たちは、自分たちの文化の扉を四方に開きたかったのです。一定の成果 をあげることができました。例えば、今では多くの人が東洋文学、特に日本文学に従事 していますが、私達が最初に『プルラル』に日本や中国についての記事を掲載したので す。私たちの協力者の一人が酒井和也です。彼は日本人・アルゼンチン人・メキシコ人 で、偉大な詩人である小野小町についての能の作品群を『プルラル』に翻訳しました。
México ha sido un país cerrado o con una sola vía de comunicación hacia el exterior (ayer Francia, hoy Estados Unidos). Nosotros queremos abrir las puertas de nuestra cultura a los cuatro punto de cardinales. Hemos logrado algo. Por ejemplo, ahora muchos comienzan a ocuparse de las literaturas orientales, especialmente la japonesa, pero los primeros que publicamos en Plural textos de Japón y China fuimos nosotros. Uno de nuestros colaboradores fue Kasuya (sic) Sakai, un japonés argentino-mexicano, que tradujo en nuestra revista la serie de piezas Nô que giran alrededor de Ono no Komachi, la gran poetisa. (Paz 2014b: 719)
日本文学は、パスの個人的に関心もあったとはいえ、メキシコ人読者に欧米以外の世界文学 に目を向けさせるための格好の素材と捉えられていた。1971年の『プルラル』創刊時、『ス ール』の日本文学特集号から10年以上が経ち、川端康成が1968年にノーベル文学賞を受 賞していたが、メキシコでは日本文学への関心は未だ限定的だったのである。
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翻訳家としてだけでなく、編集者・デザイナーとしての酒井の能力にもパスは多大な信頼 を寄せていた。『プルラル』編集部に勤務していたアドルフォ・カスタニョン (Adolfo
Castañón) によれば、酒井は「山を動かせる 266とオクタビオ・パスが信頼を寄せた人
(persona en quien Octavio Paz depositaba una fe capaz de mover montañas)」(Castañón 2015: 532) であった。また、「『プルラル』に魅力的な構成を与えた (le dio a Plural un formato atractivo)」(Paz 2014b: 624) と語っている。
パスも酒井もそれぞれのやり方で日本文学を翻訳・紹介したが、その二人が『プルラル』
を共に作り上げたことで、メキシコ人読者は日本文学に親しむ多くの機会に恵まれた。メキ シコの文壇に新たな風を吹き込んだ『プルラル』に、翻訳者、デザイナー、批評家、編集長 として酒井が果たした役割は、高く評価されている。