第 9 章 ニューヨークの洗礼
2. ポップアートへの傾倒
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ボニーノギャラリーが主催したものである。ニューヨークだけでなく、メキシコシティ、オ ースティン、ピッツバーグ、ロサンゼルスでも開催された。ボニーノギャラリーは美術商の アルフレド・ボニーノ (Alfredo Bonino) が1951年~79年までブエノスアイレスで経営し ていたギャラリーで、フリオ・パイロとマヌエル・ムヒカ・ライネス (Manuel Mujica Láinez,
1910–1984)168 (両者ともアルゼンチンの作家、美術批評家) が顧問を務めた。1960年には
リオデジャネイロ、1963年にはニューヨークに支店を開店しており (Herrera 2014: 157)、
積極的にアルゼンチン人アーティストを海外に売り出していた。ボニーノは酒井の作品を 数多く取扱い、国内外で個展を開催しただけでなく、酒井の米国行きを援助した。
このように、1950 年代末~1960 年代初めに開催された多くのラテンアメリカ美術展に 酒井は参加していた。第7章でも論じたように、書や禅を取り入れた酒井の作品は、アルゼ ンチン美術の多様性を示すものとして、国際化の戦略に取り込まれていた。しかし、酒井は ニューヨーク滞在を経て、それまで築き上げてきた作風を一度捨てることになる。
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版10の右上には、青い長方形と赤・白の縞模様があり、星は描かれていないが、明らかに 星条旗である。図版11の作品には“NEW YORK”を指していると思われる“NEW Y”の字が 読み取れ、図版12には“UNION SQ→”と書かれている。このように、ニューヨークの街そ のものが作品の主題となっている。そしてそれは鮮やかで勢いがある反面、混沌とした世界 観で描かれている。
コラージュや文字の使用、星条旗、近代建築などの具象物を描くスタイルは、アンフォル メルとは対極の表現である。また“james bond…”や“GUN”といった文字はポップアートの 特徴である大衆文化や大量消費社会を連想させるものであり、日本美術の伝統や、禅の思想 とはかけ離れている。米国で催された数々の展覧会では、アルゼンチン出身の日系人アーテ ィストとして、その評価を確実なものとしてきた。しかしニューヨーク滞在後はまるでその 殻を脱ぎ捨てるかのように、意識的に「日本」を排除し、アメリカナイズされたともいえる 作品を描いた。
常に新しいものを求め、作風を変化させ続けてきた酒井が当時米国を席巻していたポッ プアートに挑戦したのは当然のことと思われる。しかし、ニューヨークが酒井に与えた影響 はそれだけではなかった。前述したように、出自を問われないニューヨークの自由な雰囲気 は、エスニシティの問題から酒井を開放した。酒井は「100パーセント日本人ではない」と いう思いから日本文化の研究に没頭し、絵画で自己表現を行ってきた。それは自身のバック グラウンドの追求であると同時に、「日本的」なものを求める周囲の期待に応える行為でも あったのではないだろうか。両親からは「日本人」として生きることを望まれ、アルゼンチ ンで唯一の日本文学専門の翻訳者として、日本文化に対する需要に応え続けた。その後の作 品を見れば、酒井にとって日本文化が重要なものであり続けたことは間違いない。しかしニ ューヨーク滞在をきっかけにアルゼンチン人と日本人の間で葛藤する必要はないという思 いに至り、そのどちらとも無縁の表現に挑戦したのかもしれない。
酒井のニューヨーク滞在は短期間で終わった。そのためか、メキシコ移住直後に描かれた ポップアートの影響を受けた作品は、あまり多く残されていない。しかし、ニューヨークで の体験は酒井にそれまでの作風を捨てさせる程強烈なものであった。またこの時期の作品 は、その後のメキシコ時代のヘオメトリスモに至るプロセスを示している点でも重要であ る。
第 10 章 メキシコ美術の変革
アルゼンチンで画家として成功を収めた酒井は、ニューヨーク滞在を経てメキシコに移 住する。当時、メキシコ美術界は大きな転換期を迎えていた。本章では、酒井が暮らした 1960~70年代のメキシコ美術の変革と、酒井が果たした役割について論じる。
79 1. 「断絶」の世代
1-1. メキシコ美術における「壁」
メキシコ壁画運動は、欧米でも高く評価され、ラテンアメリカ美術の存在感を示すことに 成功した最初の運動であった。その中心を担ったのは、言わずと知れたディエゴ・リベラ、
ホセ・クレメンテ・オロスコ、ダビッド・アルファロ・シケイロスの三巨匠である。壁画運 動は、メキシコ革命の思想から生まれた。1910年に始まったメキシコ革命は、「単なる政治 革命ではなく、社会改革であると共にメキシコ独自の文化体系を再構築しようという意図 ももった、文化革命」であり、壁画運動は「革命を国民全体の共有財産として歴史の中枢に 刻みこむ作業」であった (加藤 2003: 22–23)。
公共事業を請け負うなど国家的支援を受けた壁画運動は、長らくメキシコ美術界を支配 した。その最盛期は三巨匠が活躍した1920~1930年代だが、加藤によれば、壁画の制作量 が最も多いのは 1964 年で、長期的に見れば 1952 年~1968 年がピークだという (加藤
2003: 2312–32)。つまり酒井がメキシコに到着した1963~1964年頃は、制作量に限って言
えば壁画運動の最盛期であった。
民族主義的なメキシコ革命の思想を受け継ぎ、社会主義リアリズムの性格を備えた壁画 運動では、ナショナリズムを高揚する作品も多く生まれた。壁画運動を評価するバジョンも、
同運動が「最も崇高な意味での政治的プロパガンダ (propaganda política, en el sentido más noble del término)」(Bayón, 1974: 55) だったと述べている。
国家との結びつきを強め、権威的な存在となっていった壁画運動に対して距離を取り始 めたのがルフィーノ・タマヨ171やカルロス・メリダ (Carlos Mérida, 1891–1984) である。
その後の世代は壁画運動やナショナリズムとは一線を画すようになり、彼らの作品は「メキ シコの新たな絵画 (nueva pintura mexicana)」と呼ばれ、後に「ルプトゥーラ (Ruptura、
「断絶」の意)」の世代という呼称が定着した。酒井が移住した1960年代のメキシコは、こ うした動きの真っ只中にあった。酒井自身はメキシコに到着した頃について以下のように 語っている。
メキシコは重要な時期を迎えていました。アーティストたちは壁画運動とナショナリ ズムによってもたらされた現状を打開しようとしていました。[中略] 私は伝統的なも のを壊し、最新の絵画がすべきことに取り組もうとしている画家たちのグループを知 り、とても刺激的だと思いました。私自身も何かしたいと思い、その試みにおいて、私 にも仲間がいると感じました。
Fue un period de mucha trascendencia en México. Los artistas trataban de romper con el status quo impuesto por el muralismo y el nacionalismo. [...] Me pareció muy estimulante el hecho de conocer a un grupo de pintores que quería romper con lo
171 三巨匠よりも若い世代に属していたタマヨは、壁画運動に参加し、自身も壁画を制作 しているが、社会主義リアリズムとは距離を取り、独自の路線を歩んだ。
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tradicional y dedicarse al quehacer de la pintura moderna. Yo mismo quería hacer algo y me sentí muy acompañado en esa empresa. (Romero Keith 2000: 105–106)
ブエノスアイレスでアンフォルメルの画家として名を馳せていた酒井は、これらの運動に 参加し、中心的役割を担っていく。
1-2. ルプトゥーラとギャラリーの役割
メキシコシティに居を構えた酒井は、メキシコ大学院大学で日本文学を教えながら、ニュ ーヨークで受けた刺激をもとに次々と絵画を制作した。それらの作品の多くはフアン・マル ティンギャラリー (Galería Juan Martín) に展示されたが、同ギャラリーは酒井をメキシ コのアーティストたちの輪に招き入れる役割も果たした。フアン・マルティンギャラリーは
「新たな絵画」を志す前衛芸術家たちを数多く支援し、当時のメキシコ美術の最先端が集ま る場だった。酒井と親しかった画家のビセンテ・ロホによれば、メキシコに来たばかりの酒 井と同ギャラリーで知り合い、ロホが経営するERA出版 (Editorial ERA)172から酒井の翻 訳を出版するなど、絵画以外でもともに仕事をする仲間となった 173。また作家で後に『プ ルラル』の編集部で共に働くフアン・ガルシア・ポンセ (Juan García Ponce, 1932–2003)174 も批評家としてギャラリーに協力しており、メキシコにおける酒井の人脈形成に大きな影 響を及ぼしたと見られる。酒井が初めてフアン・マルティンギャラリーで個展を行ったのは 1965年のことである175。テキサスに移住した後も定期的に展示が開かれ、現在でも酒井の 作品を数多く所有している。経営者のフアン・マルティン (Juan Martín) はバスク出身で、
50年代半ばにメキシコに渡ってきた人物である。メキシコ国立自治大学の紀要 (Revista de la Universidad de México) の編集長補佐を務めており、酒井の翻訳家としての仕事にも関 わっていた。
当時メキシコシティにはペカニンスギャラリー (Galería Pecanins)176などいくつかのギ ャラリーが存在し、「新たな絵画」を志すルプトゥーラの画家たちの受け皿となっていた。
彼らがギャラリーに展示することを好んだのは、国立美術館などの公的機関が展示するナ ショナリズムに満ちた作品と一線を画したかったからである。「新たな絵画」を生み出すた めには、そのような「公」の芸術に対抗する必要があった。そして自由な表現を受け入れて
172 ERA出版は1960年にロホ、ホセ・アソリン (José Azorín) とネウス、ホルディ、キ コのエスプレサテ三兄弟 (Neus, Jordi y Quico Espresate) によって設立された。ERAと いう社名はEspresate、Rojo、Azorínの頭文字をとったもので、「時代」という意味もあ る。
173 補遺「インタビュー抜粋3」を参照。
174 弟で画家のフェルナンド・ガルシア・ポンセ (1933–1987) もフアン・マルティンギャ ラリーに作品を展示している。
175 1965年3月12日~31日 (Galería Juan Martín 1965)。
176 1972年、1973年、1982年、1987年、2003年に酒井の個展を開催している (Costa Peuser 2003: 115)。