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アルゼンチン美術の国際化

第 7 章 アルゼンチン美術界における酒井の足跡

5. アルゼンチン美術の国際化

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2004年に国立芸術財団 (Fondo Nacional de las Artes) がフェルナンデス=ムーロ、グ リーロ夫妻とサカイにマリオ・プッチャレッリ、アルベルト・グレコ (Alberto Greco, 1931–

1965) を加えた 5 人の展覧会をブエノスアイレスで開催したが、そのタイトルは「フェル

ナンデス=ムーロ、グリーロ、プッチャレッリ、サカイ 二度と戻らなかった者たち――ア ブストラクション、カラー、離郷―― (Fernandez Muro, Grilo, Pucciarelli, Sakai. Los que no volvieron: abstracción, color y desarraigo)」120だった。フェルナンデス=ムーロはマド リード生まれで、1938年に家族でアルゼンチンに移住した。ブエノスアイレス出身のグリ ーロと結婚後、1970年から亡くなるまで、妻とともにマドリードで暮らした。プッチャレ ッリはローマ、グレコはバルセロナに移住している。アーティストが活躍の場を求めて故郷 を後にすることは、珍しくない。しかし、ブエノスアイレスの抽象絵画の一時代を築いた彼 らが二度と戻らなかったという事実は、ブエノスアイレスがアーティストを魅了し続け、芸 術だけで食べていけるだけの市場を提供することができなかったことを示す一例とも言え る。世界的芸術都市としてパリ、ニューヨークと肩を並べることを目指したアルゼンチンの 野望は達成されることがなかった。2004年の展覧会は、活気あふれた時代への回顧と見る ことが出来る。これについては次節で述べる。

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Torcuato Di Tella, ITDT)121の役割に注目している。ITDTは1958年の設立以来、ポール・

セザンヌ (Paul Cézanne, 1839–1906)、アンリ・マティス (Henri Matisse, 1869–1954)、

ワシリー・カンディンスキー (Wassily Kandinsky, 1866–1944)、パブロ・ピカソ (Pablo Picasso, 1881–1973)、ジャクソン・ポロック (Jackson Pollock, 1912–1956)、ウィレム・

デ・クーニング (Willem de Kooning, 1904–1997) らの海外の重要な作品や、アルゼンチン 若手アーティストの作品を収集し、展示を行った (Giunta 2008: 104–108)。その中には酒 井の作品も含まれており、買い付けを担当していたイタリア人美術史家のリオネロ・ベント ゥーリ (Lionello Venturi, 1885–1961)122がギド・ディ・テラ (Guido Di Tella, 1931–

2001)123に宛てた手紙にも酒井の名前が登場する。

アルゼンチン人画家の展示について、あなたが送ってくださった写真とスライドを検 討しました。もちろん最終的な決定はまだ出来ませんが、特に酒井和也の作品を興味深 いと思いました。

Acerca de la muestra de pintores argentinos, he examinado las fotografías y las transparencias que me ha enviado. Sin naturalemente (sic) poder darle un juicio definitivo, he encontrado particularmente interesantes las obras de Kasuya (sic) Sakai. (Giunta 2008: 111)

ベントゥーリの言葉を裏付けるように、酒井は度々ITDTが主催する国内外の展覧会に参加 し高い評価を得た。1960 年には「トルクァト・ディ・テラ財団コンクール (Premio Fundación Torcuato Di Tella)」(アルゼンチン国立美術館)、1961 年には「国際展覧会 (Exposición Internacional)」(アルゼンチン国立美術館) と「ITDT コンクール (Premio Instituto Torcuato Di Tella)」(アルゼンチン国立美術館)、1966年には「世界におけるアル ゼンチン (Argentina en el Mundo)」(トルクァト・ディ・テラ研究所) に出品している (Costa Peuser 2005: 116)。

アルゼンチン美術の発展と海外進出は、アーティストの側からも提案が出された。ケネ ス・ケンブル (Keneeth Kemble, 1923–) は、1961年に「米国におけるアルゼンチンの新し い絵画・彫刻巡回展企画プロジェクト (“Proyecto para la organización de una muestra circulante de la joven pintura y escultura argentinas en lo Estados Unidos”)」という草 稿を執筆した。これはアルゼンチンが高い文化レベルを持った国であることを米国で証明 するという、野心的な巡回展を企画したものである。興味深いのは、参加アーティストのバ ックグラウンドが国際色豊かであるという証左として、日系人、つまり酒井のことが例に挙

121 イタリア系アルゼンチン人実業家のトルクァト・ディ・テラ (Torcuato Di Tella, 1892–) を記念して作られたトルクァト・ディ・テラ財団 (Fundación Torcuato Di Tella) によって1958年に設立された。

122 ベントゥーリはトルクァト・ディ・テラの友人だった (Giunta 2008: 104)。

123 トルクァト・ディ・テラの息子で、外務大臣を務めた。

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げられている点である。この企画はITDTに託され、一部は採用された (Giunta 2008: 119–

122)。

ITDT は 1964 年に米国ミネアポリスで「アルゼンチン・ニューアート (New Art of Argentina)」124、1965年に「世界におけるアルゼンチン (Argentina en el Mundo)」125 いう大規模な展覧会を開催した。ロメロ・ブレストは後者の出展作品を「国際的知名度 (proyección internacional)」「質 (calidad)」「成功 (éxito)」「海外進出 (inserción en el exterior)」「話題性 (actualidad)」という5つの評価基準をそれぞれ 0~3点で採点してい る (合計点の最高は15点)。酒井には2点、2点、1点、3点、1点の計9点をつけており、

26人中10番目の評価となっている (Giunta 2008: 221–223)。ロメロ・ブレストの目には、

海外でも活躍する有望なアーティストだが、それに見合った成功が伴っていないと映って いたようだ。「話題性」が1点なのは、アルゼンチンを離れ、米国を経てメキシコに移り住 んだばかりで、展覧会への参加が少なかったからだろう。

このようにアルゼンチン美術が海外、特に北米に盛んに輸出され、酒井の作品も度々出品 された。米国における展覧会については第 9 章で詳しく論じるが、アルゼンチン美術の海 外進出が進められるにつれて、欧米の美術のコピーに過ぎないという批判にさらされるよ うになった。前述した「ヨーロッパであり、ヨーロッパではない」ラテンアメリカのオリジ ナリティをめぐる問題である。これに対してアルゼンチンの自身、批評家であるラファエ ル・スキル (Rafael Squirru, 1925–2016) は、以下のように主張している。

There is no reason to be ashamed of a relationship between Latin American art and European art; indeed, it would be ridiculous not to expect such a relationship. As the very words imply, Lalin America is a product of both native American and European forces, which were joined in the 15th century with the beginning of the European immigration that has continued steadily ever since. […] It is not a question of imitating any particular style; it is simply a question of being oneself, and to be Latin American is to be European as well. When I say “European as well”

I am implying that Latin Americans are something more than European.

124 ミネアポリスのWalker Art Instituteにて開催 (1964年9月9日~10月11日)。参加 アーティストはLíbero Badii, Antonio Berni, Osvaldo Borda, Delia Cancela, Ernesto Deira, Hugo Demarco, José Antonio Fernández Muro, Noemí Gerstein, Sra Grilo, Enio Iommi, Gyula Kosice, Eduardo Mac Entyre, Romulo Macció, Marta Minujin, Luis Felipe Noé, Miguel Ocampo, Marta Peluffo, Rogelio Polesello, Mario Pucciarelli, Delia Puzzovio, Kasuya (sic) Sakai, Rubén Santantonin, Antonio Seguí, Carlos Silva, Carlos Squirru, Clorindo Testa, Luis Remigio Tomasello, Jorge de la Vega, Miguel Angel Vidal, Magariños D. 詳しくはWalker Art Center & Instituto Torcuato Di Tella (1964) を参 照。なお、同年2月18日~3月8日までブエノスアイレスのトルクァト・ディ・テラ研 究所でも展示が行われた。

125 Costa Peuser (2005: 116) より。

67 […]

Is a Latin American version of abstraction, whether lyrical or geometrical, the same as that of Europe, the United States, or Japan? No! The forms of expression are international but the Latin American Artist handles them in a new, different, original manner all his own. (Squirru 1964: 84)

スキルの主張は、ラテンアメリカの人間はヨーロッパ的なあらゆる主題を扱うことができ ると主張したボルヘスの「アルゼンチン作家と伝統 (El escritor argentino y la tradición)」

(1951) に共通するものである。スキルはラテンアメリカ美術が抽象絵画の枠組みにおいて

も独自の表現を達成しうると考えていた。

しかしアルゼンチン美術の国際化の野望は、1960年代末には失敗に終わった。その背景 にはアルゼンチン国内の経済、政治、軍事、社会的混乱があったが、ヒウンタは「進歩のた めの同盟」が失敗に終わり、米国がラテンアメリカに軍事的な結びつきを求めるようになっ たことを一因として挙げている (Giunta 2008: 300–301)。いずれにしても、ブエノスアイ レスは第二のパリやニューヨークにはなれなかった。この結果と酒井がアルゼンチンを後 にしたことは、決して無関係ではないだろう。