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文化団体の設立

ドキュメント内 酒井和也とラテンアメリカの「新たな芸術」 (ページ 127-130)

第 9 章 ニューヨークの洗礼

第 3 部 心の中の『日本』を探して――翻訳・日本文化紹介――

1. 文化団体の設立

戦前から日本人移住者を中心に様々な団体が結成され、日本文化紹介を行ってきた 235。 日本大使館文化部に勤務していた酒井も、そうした活動に深く関わっている。『アルゼンチ ン日本人移民史』によれば、1952年に創設され、上院議員のアティリオ・アンティヌッチ が会長を務めた日亜文化交流協会は日本大使館の協力を得て運営されており、酒井は重要 な働きをした (アルゼンチン日本人移民史編纂委員会 2006: 369)。しかしペロン政権が崩 壊し同協会が活動を停止したため、1955年、新たに「極東文化センター (Centro de Estudios del Lejano Oriente)」236が設立された。

極東文化センターの定款は以下の通りである。

一、本センターは東洋、特に日本の文化の研究を目的とする

一、本センターは如何なる政治的、宗敎的性格をも帶びず且つ右の如何なる活動をもな し得ない

一、本センターの活動内容は左の通りである

①東洋、特に日本の宗敎、哲學、文學、藝術及び歴史に關する研究をし、その結果を 發表する

②定期的に會合、講演會、討論會、映寫會、展覧會等を催す

235 詳しくはアルゼンチン日本人移民史編纂委員会 (2006: 第5章) を参照。

236 『亞國日報』の記事では「東洋文化センター」と紹介されている (亞國日報 1955)。

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③專門的な圖書館を設置する

④世界の、本センターと同様の活動をなす大學、研究所文化センター、協會、文化人 と密接な知的交換を行う

[中略]

◇研究會 ①宗敎、哲學の部②文學の部③美術の部④演劇、舞踊の部⑤音樂の部⑥建 築の部⑦歴史(人種、考古、言語學を含む)の部

(亞國日報 1955)

上記の定款とほぼ同じ内容の酒井直筆の原稿がダラスの自宅から見つかり237、酒井が執筆、

もしくはスペイン語の定款を翻訳したと考えられる。

創立メンバーには、酒井の他に作家のホルヘ・ルイス・ボルヘス、フリオ・パイロ、エル ネスト・サバトや哲学者のビセンテ・ファトーネ (Vicente Fatone, 1903–1962) ら錚々たる メンバーが名を連ねた (Sanchís Muñoz 1997: 229)。「大使館のイニシアテイブによって當 國著名文化人を集め」(亞國日報 1955) たとされているが、メンバーを見ると、酒井の人脈 によるところが大きかったと思われる。作家のボルヘスやサバトとは翻訳者として付き合 いがあり、美術批評家でもあるパイロは酒井の絵画を取り扱っていたボニーノギャラリー の顧問を務めていた。もちろん、日本大使館職員という肩書を大いに活用しただろうが、帰 国してわずか5年でこれだけの人脈を築いていたことは、特筆すべき点である。

しかし、極東文化センターが実際にどのような活動を行ったのかは不明である。ほとんど 資料が残されていないことから、めぼしい成果を出せないまま空中分解してしまったと考 えられる。活動内容には国内外の大学や文化センターとの知的交換が挙げられているが、当 時、アルゼンチン国内には日本語を教える大学はほとんど存在していなかった。「恐らくこ の種の研究團体は西語諸國で始めてのものであり、將來アルゼンチンが東洋研究の中心(中 南米での)になることと思われている」(亞國日報 1955) と期待されていたが、実現するこ となく終わってしまった。専門的な学術研究を目的とした極東文化センターは、時代を先取 りしすぎていたのかもしれない。

その一方で一般向けの文化紹介を目的とした、「日亜文化協会 (Instituto Argentino-

Japonés de Cultura)」は成功を収め、酒井の情報発信の場となっていった。同協会は極東

文化センターとは無関係で、1955 年頃から設立に向けて話が進んでいたようである (亞國

日報 1955)。酒井は1956 年の設立から中心的な役割を果たし、副幹事と機関紙『BUNKA』

の編集長、会報の責任者を務めた。『BUNKA』については次節で詳しく論じる。

日亜文化協会は様々な文化イベントを開催した。それらの多くは酒井自身の翻訳業、画業 と密接に関係するものであった。『アルゼンチン日本人移民史』には、以下のような記述が ある。

237 2015年8月、酒井スミコ宅での調査。

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1956 年7月「東京管弦楽団」の指揮者、上田仁 (まさし) が日亜文化協会の後援のも と訪亜、1カ月以上にわたりアルゼンチン国営ラジオで4回演奏を行い、好評を博した。

一般クラシックにかぎらず、アルゼンチン人音楽家や他の現代作曲家の作品も演奏し、

早坂文雄、芥川也寸志、渡辺浦人といった日本人現代音楽家の作品も取り上げた。

そのほか、日亜文化協会が主催した多彩な文化活動の中で特筆に値する催しを挙げる と、「禅と墨絵についての講演」238、「三島由紀夫作『現代能』の西語朗読」239、「法隆 寺建立に関する講演及びそのフィルム上映」240、「日本版画の解説」241、「仏教彫刻に ついての講演」242、「葛飾北斎や古代日本の彫刻」243、「中世日本の美術等を紹介した フィルム上映」244などがある。また、喜多川歌麿没150 年記念に際して、いくつかの 催しが行われた245のに続き、室町時代の画家雪舟生誕500年を祝う催し246もあった。

両方ともアルゼンチン国立美術館で行われ、ブレスト館長 [ホルヘ・ロメロ・ブレスト:

引用者注] や井上大使247等が出席した。

これら多彩な催しの企画・実行の多くを酒井和也が受け持った。(アルゼンチン日本人 移民史編纂委員会 2006: 371)

この他に、酒井による「近代日本文學の性格」248、「広重と日本の風景 (Hiroshige y el paisaje

japonés)」249などの講演会や、映画『羅生門』の上映250が行われた (亞國日報 1956c)。年

度初めには「文化活動開始式」が行われ、津田正夫大使 251が出席し、記録映画が上映され

238 開催年、開催場所不明。

239 同上。

240 同上。

241 『亞國日報』の記事には「また四月二十六日より五月五日までフロリダ街七五〇番の ペウセル書店奥のサロンで日本政府所有の版畫百點の展觀會を催すが、これはかつてなき 有益なものである。五月に入ると日本語、日本畫、日本版畫などの講座を開始するとい う」(亞國日報 1956c) とある。

242 開催年、開催場所不明

243 同上。

244 同上。

245 同上。

246 同上。雪舟は1420年に生まれ、1506年に亡くなっているため、没後450年の誤りだ と思われる。大使館主催で没後450年記念のイベントが1956年11月に開催され、酒井が 講演をおこなっているが、パンフレットには日亜文化協会の名前は記されていない

(Servicio cultural e informativo de la embajada del Japón 1956)。

247 『アルゼンチン日本人移民史』には、井上孝次郎大使夫妻と酒井の写真 (1957年7月) が掲載されている (アルゼンチン日本人移民史編纂委員会 2006: 371)。

248 1956年4月25日、トランスラジオの講堂にて (亞國日報 1956c)。

249 1956年5月、Salón de Actos Transradio Internacionalにて (酒井スミコ所蔵の案内 状より)。

250 『亞國日報』の記事には「天皇誕生日十時からシネ ビアリツツで羅生門を上映す

る」(亞國日報 1956c) とあるため、1956年4月29日に開催されたと考えられる。

251 元新聞記者で、1958~1963年に在アルゼンチン日本大使を務めた。著書に『ボカ共和

129 た (らぷらた報知 1958)。

日亜文化協会は酒井の翻訳や批評を発表する場であると同時に、絵画制作に活かすため の日本美術研究の場でもあった。

ドキュメント内 酒井和也とラテンアメリカの「新たな芸術」 (ページ 127-130)