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メキシコにおける酒井

第 4 章 メキシコへ

2. メキシコにおける酒井

酒井は 1963年にメキシコシティにあるメキシコ大学院大学 (El Colegio de México) に 招かれ、講演会を行った (Romero Keith 2000: 105)。翌年から一年間客員講師を務め、そ の後正式に雇用され、メキシコに移住した。図版1はこの頃撮影された写真である。既に画 家、翻訳家として成功していたが、メキシコでは更に活躍の場を広げ、日本研究、雑誌編集、

グラフィックデザイン、音楽・美術批評、ラジオ番組に携わるようになった。

メキシコ大学院大学は、1964年にユネスコの支援によって国際学研究所の一部門として 新しく東洋研究部門 (Sección de Estudios Orientales)62を設立し、酒井はそこで日本文学 を教えた (Álvarez 1996: 32–34)63。日本文学の授業については、近年、受講生のノートを もとに講義録が出版された (Sakai y Quartucci 2013)。1966年にはラディオ・ウニベルシ ダ― (Radio Universidad)において、日本文学のラジオ講座も受け持っている64。1968年に は、それまでに執筆した論文をまとめた日本文学の概説書『日本:新たな文学に向けて』を 出版している。同大学は現在でもスペイン語圏における日本研究の中心地の一つであり、ラ テンアメリカ各国から留学生を受け入れている。メキシコ国立自治大学 (Universidad

Nacional Autónoma de México, UNAM) に移った後も日本文学研究に打ち込み、多くの学

生を教えた。酒井の教えを受けたビルヒニア・メサ (Virginia Meza)65、ミゲル・オリベラ・

ヒメネス (Miguel Olivera Giménez)66らは、その後翻訳者、日本研究者として活躍した。

画家としては、ニューヨーク滞在後、ポップアートの影響が顕著な作品を描いていたが、

その後ヘオメトリスモと呼ばれる幾何学的抽象絵画を次々と制作した。この時期の作品は

62 その後アジア・アフリカ研究所 (Centro de Estudios de Asia y África) へと名前を変え た。

63 アジア・アフリカ研究所設立30周年を記念して出版された『メキシコから見たアジア とアフリカ――アジア・アフリカ研究所の30年―― (Asia y África desde México. 30 años del Centro de Estudios de Asia y África)』には、際立った功績を残した教員の一人 として酒井に言及し、1964年の「日本文学補足講座 (Curso suplementario de literature japonesa)」や、「日本の浮世小説 (La novela japonesa del mundo flotante)」、「斜陽:戦 後の日本文学 (El sol que declina: la literature japonesa de posguerra)」という講演会を 担当したことが述べられている (Álvarez 1996: 32–34)。

64 1966年4月4日~7月13日の全11回 (ラディオ・ウニベルシダ―所蔵の音源より)。

65 メキシコ大学院大学での教え子。林芙美子『放浪記』、樋口一葉『闇桜』を翻訳 (Rieko Abeとの共訳)。

66 メキシコ大学院大学での教え子。1970年に出版された『羅生門とその他の短編 (Rashomon y otros cuentos)』に、「M. O. G.」名義で序文を書いている他、酒井の『日 本:新たな文学に向けて』の書評も執筆している (Olivera 1969)。

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没後の回顧展でも大きく取り上げられ、酒井を象徴するスタイルとして知られている。

酒井がメキシコで暮らした約 10 年の間に、歴史的な出来事があった。1968 年のメキシ コオリンピック (10月12日~10月27日、メキシコシティ) である。他の大会同様、文化 プログラムが企画され、「文化オリンピック (Olimpíada Cultural)」として各国が競うよう に文化イベントを催した67。日本も様々な文化紹介を行ったが、そのうちの一つに能の公演 があった。酒井は謡曲の翻訳者として、この公演に協力している68。その一方で、メキシコ 政府が企画した美術展覧会に反対し、独自の展覧会を行ったグループの一員でもあった69。 その目的はアーティストの自立を守るというものだったが、芸術上の主義主張とは別に、政 治的状況との関連を指摘する研究もある (Martínez 2013)。当時メキシコでも反政府運動が 頻発しており、オリンピック開会10日前には、政府が学生や労働者を武力制圧し多数の死 者を出したトラテロルコ事件70が起こっていた。

大学も学生運動の拠点となりこうした事件に巻き込まれていたが、酒井自身は教員であ っても政治に参加することはなく、アルゼンチン時代から政治的発言をすることもなかっ た。しかし、アーティストの自由な創作活動や言論の自由を守るためには、時として戦わな ければならない状況が当時のメキシコにはあった。酒井が関わったもう一つの象徴的な事 件が、次節で論じる『プルラル』廃刊であった。

3. 『プルラル』と批評

メキシコ時代の多彩な活動の中でも特に重要なのが、雑誌『プルラル』への参加である。

『プルラル』はオクタビオ・パスが 1971 年にメキシコで創刊した月刊の文芸雑誌である。

雑誌研究の手法で同誌を論じたジョン・キング (John King) は、『プルラル』をアルゼンチ ンの文芸雑誌『スール (Sur)』の継承者と見ている (King 2007: 2)。後述するように、酒井 とパスは『スール』が1957年に組んだ日本文学特集号の紙面上で出会っている71。日本文 学の愛読者であり、非ヨーロッパ文学も積極的に紹介したパスにとって、酒井はうってつけ の人物であったと言える。

酒井は当初、日本文学の翻訳者、そしてグラフィックデザイナーとして同誌に参加した。

酒井の親しい友人であった画家のビセンテ・ロホによれば、パスが『プルラル』のデザイン

67 近代オリンピックにおける文化プログラムについて論じた太下義之は、文化プログラム の概要を5つの時代に区分している。それによれば、第15回ヘルシンキ大会 (1952) か ら第24回ソウル大会 (1988) は「芸術展示」の時代にあたり、公式プログラムとして芸 術展示が行われた。メキシコ大会の前に開催された東京オリンピック (1964) でも、古美 術や歌舞伎などが紹介された (太下 2015: 154–156)。

68 詳しくは第16章を参照。

69 詳しくは10章を参照。

70 詳しくはポニアトウスカ (2005) を参照。

71 キーンの証言によれば、酒井とパスが実際に出会ったのは1967年のことである。詳し くは第18章を参照。

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をロホに依頼したが、ロホは断り、酒井を推薦したという72。それ以前にドナルド・キーン の紹介で酒井と知り合っていたパスは酒井にデザインを任せただけでなく、創刊号で第第 的に『徒然草』抄訳を取り上げるなど、度々酒井の翻訳を掲載した。第2号までのデザイン はロホと共同で行い、第3 号以降は単独で担当した。図版2は酒井が手がけた表紙の一つ である。当時酒井が描いていたヘオメトリスモの作品を元にデザインされた表紙が度々用 いられており、『プルラル』を象徴するものとなった。第3号から編集にも携わるようにな り、第13 号からは編集書記とアートディレクターを兼任し、第23号からは編集長兼アー トディレクターとなった。

その後酒井は米国に移住し、第56号 (1976年5月) からは役職を離れた。しかし同年、

『プルラル』を出版していた新聞社のエセルシオール (Excérsior) 社長フリオ・シェレー ル・ガルシア (Julio Scherer García, 1926–2015)73が政治的圧力によって辞任に追い込ま れるという事件が起こった。これは直前に任期を終了したルイス・エチェベリーア大統領

(Luis Echeverría, 1922–) による、政府に批判的だった『エセルシオール』紙に対する弾圧

と見られており、「エセルシオールへの攻撃 (El golpe a Excérsior / the Excérsior coup)」

と呼ばれている (King 2007: 180–183)。『プルラル』の編集部はこれに抗議するため一度廃 刊し、『ブエルタ (Vuelta)』74という新しい雑誌を作った。『ブエルタ』創刊号 (1976年12 月) の表紙には「我々は戻ってきた (Estamos de vuelta)」というサブタイトルが刻まれ、

冒頭でパスが「エセルシオールへの攻撃」を批判した (Paz 1968: 4–5)。編集顧問には酒井 も名を連ねており、2ページ目に大きく掲載された編集部のメンバーのサインにも酒井のも のが見られる。創刊号には酒井の世阿弥『風姿花伝』に関する記事も掲載された75。その後 も引き続き美術批評を掲載76したり、表紙に絵画作品が使用されたりした (図版3)。

『プルラル』には日本文学の翻訳だけでなく、美術や音楽批評の記事も不定期で掲載して いた。メキシコ時代、酒井が強い関心を見せていたのが、ジャズや現代音楽である。ラディ オ・エドゥカシオン (Radio Educación)77 とラディオ・ウニベルシダー78の二つのラジオ局 で音楽番組のパーソナリティを務めた他、この時期の絵画作品にもジョン・ケージやマイル ス・デイヴィス (Miles Davis, 1926–1991) といった音楽家の名前を冠したタイトルがつけ られており、その関心の高さがうかがえる。キングは、美術や音楽に多くの頁が割かれたの

72 詳しくは補遺「インタビュー抜粋3」を参照。

73 メキシコのジャーナリストで、1968年にエセルシオール社の社長に就任。

74 Vueltaには「帰ること」という意味がある。

75 酒井は『風姿花伝』の翻訳を進めており、そのイントロダクションとして執筆したもの であると述べている (Sakai 1968c: 25)。

76 第3号 (1977年2月) に米国の彫刻家アレクサンダー・カルダー (Alexander Calder) についての記事を掲載 (Sakai 1977)。

77「ジャズの新しい音 (“Nuevo sonido en el jazz”)」(1977–1979)、「現代の音楽 (“Música de nuestro tiempo”)」(1976–1979) を担当。

https://www.e-radio.edu.mx/Kazuya-Sakai?id_program=162&step=40 (2017年11月27日閲覧)。

78 1975~1976年 (Casanegro 2005: 107)。

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は、編集長だった酒井の影響が大きいと述べている (King 2007: 138–146)。編集長として、

酒井は『プルラル』の方針に強い影響力を持っていたことがわかる。