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言語的表現と視覚的表現の間で

第 3 章 帰国

3. 言語的表現と視覚的表現の間で

12年ぶりにアルゼンチンに戻った酒井だったが、10歳から23歳までを日本で過ごした 彼にとって、生まれ故郷はもはや馴染みの薄い場所になっていた。まず、言葉の壁が立ちは だかった。酒井自身、「アルゼンチンに戻ってきた時、スペイン語はほとんど話せなかった (Cuando volví a la Argentina, apenas podía hablar español)」(Del Conde 1987: 20) と語 っている。弟のホルヘも帰国した際の苦労について、「私は日本に行ったとき、10歳だった でしょう、それに5年間の戦争。8年間、スペイン語を使う機会がなかったもんで、忘れて しまったんですよ」(アルゼンチン日本人移民史編纂委員会 2006: 66) と述べている。

酒井の言語能力については、生前交流があった関係者へのインタビュー60により、日本語 もスペイン語も流暢に話していたことが明らかになった。在メキシコ日本大使館に勤務し ていた伊藤昌輝は「完全に日本人の日本語で、日系人二世の日本語じゃなかった」と証言し ているし、画家のビセンテ・ロホは、「完璧なスペイン語を話していました。確かに、少し アルゼンチンのアクセントがありましたね」と述べている。しかし、両者ともメキシコで酒

58 酒井スミコ所蔵のプログラムによれば、『着物 (Kimonos)』、『A traves (sic) de la ventana de un tren (車窓から)』、『日本のとある家族 (Una familia japonesa)』が上映さ れた。酒井の肩書きは「日本大使館広報文化部所属 (del Servicio Cultural e Informativo

del Embajada del Japón)」となっている。また、ペロンの「人民のための芸術、そして人

民への奉仕としての科学 (Arte para el pueblo y ciencia al servicio del pueblo)」という言 葉が記されている (Municipalidad de Eva Perón 1955)。

59 ペロンは日本にいる二世や移住者の親族の呼び寄せに尽力し、日系社会との謁見もたび たび行った。詳しくは野村 (1998) 及びアルゼンチン日本人移民史編纂委員会 (2006: 98– 102) を参照。

60 ドナルド・キーン、伊藤昌輝、ビセンテ・ロホへのインタビュー。詳しくは補遺「イン タビュー抜粋」を参照。

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井と知り合った人物である。酒井はアルゼンチンに帰国後、子供の頃に使っていたスペイン 語を徐々に取り戻していき、ネイティブと遜色ないレベルに至ったことがわかる。1954年 に初めて翻訳した芥川龍之介の短編「羅生門」と「藪の中」は、大幅な改訳が加えられ、1959 年に再出版された。翻訳者としての経験のみならず、スペイン語能力もこの間に向上したと 考えられる。しかし、それはアルゼンチン生まれの酒井にとっても、努力を要するものであ った。

私は日本で全ての教育課程を受け、かなりの時間が経ってから、戦後アルゼンチンに帰 国したとき、スペイン語を学び直さなければなりませんでした。日本で少しスペイン語 を勉強していましたし、話す力は当然、他の学習者に比べればありました。しかし実際 には、例え覚えていたとしても、言語の正確性は失われていくものなのです。

En Japón cursé todos mis estudios y cuando mucho tiempo después volví a Argentina, después de la guerra, tuve que reaprender el español. Es verdad que había estudiado un poco de español en Japón, y que naturalmente tenía mucho más facilidad que otros estudiantes para hablarlo, pero la realidad es que aunque uno se acuerda se va perdiendo la justeza del lenguaje. (Cordero 1974: 46)

酒井自身は日本語とスペイン語の使用について、1986年のインタビューで以下のように 述べている。

―あなたは言語について話しましたが、あなたはバイリンガルに生まれたと言えますね。

―確かに、私はバイリンガルに生まれましたが、しかしブエノスアイレスにおいてです。

常にどちらかの言語が優位にあり、私の場合、それはスペイン語でした。一人の中で 二つの言語が移り変わるのですが、同時に二つの言語で考えることは難しいです。ま た、そのように翻訳することも不可能なので、二つの言語を交互に用いるのです。

―それでは、不安なときにはどちらの言語で考えますか?

―それがどういう不安かによりますし、区別することはできません。

- Usted habla del idioma, podría afirmarse que nació bilingüe.

- En efecto, nací bilingüe pero en Buenos Aires. Siempre hay un idioma que tiene prioridad para uno, en mi caso es el español. Las dos lenguas evolucionan en uno pero es difícil pensar con ambas simultáneamente; también es imposible traducir de esa manera, entonces las dos se usan alternadamente.

- ¿Y cuando está angustiado en qué idioma piensa?

- Depende de que tipo de angustia, no puedo delimitarlo. (Driben 1986: s/n)

酒井が早稲田大学文学部で学び、作家を志していたことは既に述べた。インタビューでも、

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日本語で短編をいくつか書いていたことを語っている (Cordero 1974: 46)。バイリンガル の作家は珍しくなく、バイリンガルに生まれたことが、作家への道を閉ざしたとは考えられ ない。しかし、頭の中で優位な言語が入れ替わるように、日本語でしか表現できないこと、

スペイン語でしか表現できないことがあると酒井は感じていたのかもしれない。翻訳を行 うことで、原文を完全に他の言語に写し取ることは不可能であることも悟っていたことだ ろう。そうした言葉では表現しきれないものを、酒井は絵画で表現しようとした。

アルゼンチンに戻ってから、問題が起こりました。「日本語で書いていて、ここで自分 に何が出来るだろう?」と考えました。そのとき私は、二つの国籍、二つの言語、そし て二つの全く異なる文化を持っていました。スペイン語圏の国で、スペイン語を完璧に 操ることができなくても――そのとき、私はほぼバイリンガルと言ってよかったのです が――私が使えた唯一の言語、それが絵画という、言語を必要としない表現方法だった のです。それが画家になった理由の一つです。

―Cuando volví a Argentina se me planteó el problema. ¿Qué puedo hacer yo aquí

―pensé―escribiendo en japonés? Tenía para entonces dos nacionalidades, dos idiomas y dos culturas absolutamente distintas. El único lenguaje que yo podía utilizar en un país de habla española, sin el dominio total del español ―para entonces era yo casi bilingüe―, era la pintura, que es un medio de expresión que no requiere del idioma. Esa es una de las razones por las que me hice pintor. (Cordero 1974: 46)

言語を必要としない絵画や写真といった視覚的表現は、日本人移住者や日系人の間でよく 用いられた。しかし酒井は文学の道も諦めきれず、画家として成功した後も翻訳という形で 文学に関わり続けた。それは、翻訳もまた創造であると考えていたからであった。

―なぜ最終的に翻訳者になったのですか?

―正確に、忠実に他者の文学を訳すことは、文学を生み出す一つの方法です。私は演劇 を含む、日本文学を専門に学びました。私は解釈者であり、その題材について研究しま すが、それに翻訳も含まれます。文学において私は翻訳者であり、翻訳者であると誇り を持って言えます。翻訳者という言葉は二流、三流を意味すると考えて、そう呼ばれる ことを認めない人もいます。私は反対に、翻訳者と呼ばれるのはとても良いことだと考 えています。私がやっていることと、人々が翻訳者の仕事に対して抱いている考えは、

全く関係ないのです。

―¿Por qué se hizo finalmente traductor?

―Interpretar correctamente, fielmente la literatura de otros, es una forma de hacer literatura. He estudiado como especialista la literatura japonesa, incluyendo el teatro. Soy intérprete y hago investigaciones sobre esta materia, lo cual incluye la

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traducción. Dentro de la literatura, yo soy un traductor, y lo digo con mucho orgullo.

Hay gente que no se resigna a que le llamen traductor, porque lo consideran como un término de segunda o de tercera categoría. A mí, en cambio, me parece muy bien.

Claro que la idea del oficio de traductor que tiene la gente nada tiene que ver con lo que estoy haciendo. (Cordero 1974: 46)

このように、アルゼンチンに帰国した直後から酒井は文学と美術という二つの分野で自 らの表現を追い求めていった。そして両分野で若くして成功を収め、アルゼンチンではアン フォルメルの画家と日本文学の専門家という二つの顔で知られるようになった。しかし 1963年にニューヨークに滞在後、メキシコに移住し、帰郷することはあっても、ブエノス アイレスに住むことは二度となかった。常に新しいものを求め、スタイルの破壊と創造を続 ける酒井は、生まれ故郷にとどまることよりも、新天地を求めたのである。