第六章 鍼灸治療の「場」と患者の語り
第八節 身体の「軽さ」の経験―近藤サクラさんの事例―
第一項 近藤さんの在宅療養と鍼灸治療
近藤さんは70代前半の女性である。肺がんと乳がんを経て、脊椎と脳に転移が見られる 末期がんの方だった。近藤さんへの鍼灸治療は週に2回のペースで合計24回なされた。期 間にするとほぼ丸3ヶ月間である。筆者が近藤さんのお宅を訪れたのは7回目から13回目 の治療時で、本調査の対象者の中では最も多くお宅に訪問した。ちょうど近藤さんが亡く なる2ヶ月程前から約1ヶ月間の時期であった。筆者の関与している期間に身体症状の明 らかな増悪は見られなかったものの、少しずつ脳転移による半身麻痺が進行し、日常生活 動作のレベルが低下してはいた。鍼灸治療を初めて受けた近藤さんは、鍼灸治療による身 体の「軽さ」を経験し、また治療を重ねるごとに平岡氏が治療に来ることを「楽しみ」に していた。
2010年に肺がんと乳がんが発見された。複数回の手術と抗がん剤治療を行うも、同年に 骨転移していることが判明。放射線療法も併せて行うようになる。副作用に悩み抗がん剤 療法は拒否。その後は温熱療法、生薬、サンドバス、ビタミン療法など代替療法を積極的 に行うようになる。2012年に脳転移があることが判明する。放射線治療、サイバーナイフ による治療を継続するも、2013 年 10月に通院が終了となってしまう。主治医がこれ以上 の積極的治療は望めないと伝えたこと、また近藤さんもご主人の育夫さんも積極的な治療 はこれ以上行いたくないとのことで、在宅療養へ移行することとなった。在宅療養移行後 も温熱療法だけは積極的に継続していたが、その温熱療法も体が疲れてしまうようになっ たことや、治療を受けに行く事自体が大変になり中断していた。また他院にて漢方薬の処 方を受けていたが、美味しくない上飲みにくく、あまり効果も感じていなかった。そのた
め近藤さんは少しでも薬を減らしたいと思っていた。
2014年1月の終わりから在宅療養が始まった。近藤さんの在宅療養開始時の主訴は、脳 幹および脊椎への転移の影響による左半身の不全麻痺およびしびれ感であった。在宅療養 開始時の近藤さんのPSは半身麻痺の影響もあり3程度で、脊椎転移の影響と思われる腰痛 もあった。日常生活動作は、麻痺症状の進行に伴いご主人の付き添いでの歩行、補助具に よる食事、トイレは一人で可能という状況であった。近藤さんは左半身麻痺の影響で転倒 することがしばしばであった。在宅療養開始前に入浴時の転倒が一度あったことから、怖 さのため一人で入浴はできない状況であった。また右上肢の麻痺も徐々に進み始めており、
箸がうまく持てずスプーンでの食事となり始めていた188。近藤さん一家は、ご主人の育夫 さん、娘さんご夫婦、孫一人の計 5 名と犬1匹での暮らしであった。近藤さんが何かをす る際には必ずご主人の育夫さんがそばに付き添って介助をしていた。
ひろせクリニックでは、疼痛症状の改善を目的とした投薬治療を、また、麻痺による易 転倒性とそれにともなうADL低下のためにOTが介入することとなった。またがん性の疼 痛のみではなく、臥床による筋由来の痛みと思われる頚部痛や腰痛に対し早期から鍼灸治 療を導入することとなった。在宅療養が始まって10日後、初回の鍼灸の介入となる。主訴 はシビレであるものの、脳転移による症状の緩和は難しいこともあってか、平岡氏は「頚 部〜腰部にかけての筋緊張緩和」をその目的として治療を行うことを近藤さんに伝えてい たようだ。当日の看護師のカルテには「鍼灸の効果はまだよくわからないが、施術後とて も温かくなったとのこと。」と記されており、近藤さんが一定の肯定的な評価をしているこ とがわかる。同日にリハビリも介入となり、各種補助具をあまり使いたがらない近藤さん に対し、住宅改修などに早急にとりかかるべきであることがOTから指摘されている。その 後 3 回ほど鍼灸治療が続き、顕著な症状の改善は認められないものの、「体が温かくなる」
ということで、近藤さんが鍼灸に対して良い印象を抱いたことがカルテにも記されている。
近藤さんの状態は、日に日に脱力感と倦怠感が増すようになり、また一人で何かしようと して転倒してしまうことが 2 度ほどあった。歩行がままならない状態になり始め、車いす の利用をすすめられるも、すぐに利用するには至らなかった189。
第二項 鍼灸治療の「場」
[1]治療現場①
本橋市の中心部から10分ほど離れた住宅街の中に近藤さんのお宅はあった。平岡氏の大 きなワンボックスカーでは入りにくい、少し入り組んだところにある近藤さんの家は、ま だ新しく、暖色の外観のかわいい家だった。玄関を入ると近藤さんのご主人の育夫さんが 出迎えてくれた。すごく真面目で優しそうというのが筆者の第一印象だ。一瞬筆者と目を 合わせ、そののち軽い笑顔で会釈をしてくれた。玄関を上がってすぐの場所に幅50cmほど の手すりがある。近藤さんが使う手すりなのだろう。平岡氏とともに育夫さんに連れられ2 階に上がる。近藤さんは 2 階の廊下の一番奥にある部屋に寝ていた。ちょうど部屋の入り
188 機能低下による補助具の利用を近藤さんは快く思っておらず、たまたま筆者が治療後に居間でお茶を頂いている時に、
娘さんがおやつを食べるために渡したスプーンを「あまり使いたくない」と、しかめ面で漏らしていた。
189 近藤さんは自身の病気の進行をすんなり受容することはできなかった。補助具にしても車いすにしてもそれ自体「病 気の進行」のイメージが強かったと推測される。がん終末期患者の福祉用具の使用については「衰弱を実感(死に向か う喪失感)」をもたらすという指摘もある[大岩ら 2009]。
口右手に幅50cmほどのコンパクトな本棚が目に入る。本棚には夫婦二人の趣味である仏像 の本が数多く並べられていた。
近藤さんがいる部屋は東の窓と南の窓があり、すごく明るい部屋だ。近藤さんのベッド の足元側の壁にテレビが有り、ベッドの右脇には鏡台が、頭側両サイドに箪笥がある。平 岡氏は近藤さんの右側に座り込み、「こんにちは」とまず声をかける。筆者も挨拶をしたが、
脳転移の影響か表情があまりなく、目にも力がない印象だった。話をしている時の顔を見 ていると、若干顔面筋の麻痺もあるのがわかる。ただ、一生懸命目を見て筆者の話を聞き、
時折ゆっくりと頷きながら、「私にできることであれば」と、優しく、そして力強く今回の 調査研究への協力の意思を示してくれた。
ベッドサイドにしゃがみ込み、平岡氏が近藤さんに「どうですか」と聞くと、近藤さん は「一昨日(育夫さんと娘さんと外に)食事をしに行ったら、帰宅時に玄関で転んじゃっ たの・・」と困り果てたような表情で力なく答える190。左手関節の擦り傷が痛々しい。脳 転移の影響で左上下肢には脱力感としびれが著しい上、右側にも徐々に麻痺症状が出現し 始めていた。そんな自身の身体症状に強い不安感を覚えていたところでの転倒であり、そ のショックの大きさが近藤さんの表情から伺える。平岡氏は近藤さんに転倒時の様子を聞 いた後、左手関節部にある擦り傷の状態を触りながら確認する。近藤さんは転倒したこと を「びっくりして」と語る。その後ぶつけたという膝周囲の状態を確認する。膝の関節可 動域を確認し、膝関節周囲を丹念に触り痛みの部位を確認した後、「全体に打撲したのかな。
捻ったとか、骨をどうこうしたというのはないかな」と近藤さんに語りかける。近藤さん は少しホッとした様子だ。
平岡氏は右手の脈診を始める。その時に、枕元でずっと見守っているご主人が「転倒以 来起き上がりが大変になってて」と話しはじめる。この日の朝方はトイレに置き上がれず、
いつもは手を掴めば行けるのが、近藤さんの脇を抱え込まないと行けなくなってしまった ようだ。その話を聞いて改めて平岡氏は近藤さんにベッドに腰掛けてもらい、腰部の痛み を確認する。平岡氏は少し考えた後、近藤さんを横向きにし、背中を叩く191。再度近藤さ んを起き上がらせ、座る姿勢を少しの時間保持してもらいその時点での痛みの確認をする。
打撲である可能性を改めて説明し、2日後までは痛みが続く可能性を指摘し、湿布などで打 撲部位の痛みに対応した方がいい旨を伝えた。
平岡氏は再度近藤さんに仰向けになるよう促す。まずは便通の状態を確認し、右手の脈 診を始めた。数秒間脈を診た後、改めて便通の状態を確認しながら腹部を触り始める。「昨 日は出ましたね。」と近藤さんは答える。平岡氏は近藤さんの腹部を軽く打診する。その後 腹部全体を撫でるように触る。平岡氏は準備していたシャーレから一本鍼を取る。下腹部 に接触鍼を行った。それと同時に近藤さんはゆっくりと目を閉じた。鍼を皮膚面に接触さ せたまま、平岡氏は何かを感じているかのように鍼を左右に捻る操作する。平岡氏はその 他に腹部に二箇所同じ操作を数秒ずつ行いながら近藤さんの顔を見る。腹部の鍼を終える と再び近藤さんの右の脈を診ながらしばらくじっとしている。脈診が終わった後、近藤さ
190 近藤さんは外食をするのが好きで、育夫さんと娘さんに介助されながら頻繁にデパートのレストランや近所の美味し い鰻屋さんに食事に行っていた。転倒のリスクが日増しに高まる中、近藤さんの希望に応じることと、リスクへの対応 の必要性の間で、近藤さん本人含め、家族、ケアスタッフともに悩んでいた。
191 棘突起の叩打痛を見ていた。脊椎の圧迫骨折を疑う手技である。