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ありのままの日常の中にある鍼灸―小島悦子さんの事例ー

第六章 鍼灸治療の「場」と患者の語り

第七節 ありのままの日常の中にある鍼灸―小島悦子さんの事例ー

第一項 小島さんの在宅療養と鍼灸治療

小島悦子さんは80代半ばの女性で、左尿管がんおよび膀胱がんの末期の患者である。小 島さんの在宅療養は 9 ヶ月近くに及び、ひろせクリニックの平均在宅療養期間と比べ長い 療養期間であった。鍼灸治療もそれに伴い約7ヶ月間と長く、亡くなる 3日前まで鍼灸治 療は行なわれた。小島さんの治療は一度きりしか見ていない。筆者が小島さんのところを 訪ねたのは、鍼灸治療を行い始めて7回目(鍼灸治療開始から、期間にして1 ヶ月半過ぎ た辺り)の時であった。訪問した日の晴天の影響もあってか、小島さんの治療空間はとて も「ほんわかした」ものであり、小島さんの穏やかな「日常」そのものを感じるものであ った。

小島さんは、2013年4月頃に腎機能障害を指摘され精査を勧められた。しかし小島さん は当時精査することを断っている。そのまま特に大きな体調変化なく過ごした 1 年後の 2014年4月、数週間継続する下腹部不快感のため精査を受けることになった。当初は持病 の過敏性腸症候群の症状増悪185かと予想されていたが、精査の結果、左尿管がん・傍大動 脈リンパ節転移・膀胱がんと診断された。診断結果について、小島さん本人は「がん」と いうことは伝えられたものの、詳しい病状を聞くことを希望しなかったという。代わりに 娘の佳子さんと孫の大輝さんが小島さんの病状について説明を受けた。腎機能障害も重な り化学療法ができず、また既に手術療法のみでは根治が難しい状態であった。血液透析が 必要となる可能性も指摘された。診断時は特に症状はなかったことから、小島さん本人の 希望もあり積極的な治療は行わず、状態に合わせた治療186を希望され、在宅療養開始とな った。

2014年5月下旬に在宅療養開始となった小島さんは、PSは1〜2程度で家の中での身の 回りのことは自身で行い、時々外出もできていた。在宅療養開始時の小島さんの訴えは、「便 秘で常にすっきりしない感じ」、また「重苦しく腹が張る感じ」であった。また右下腹部の 痛みを訴えていた。がんの告知は受けたものの、「切ったり貼ったりしないで、自然に生き たい」というのが在宅療養開始時からの小島さん本人の希望であった。小島さんは長女夫 婦と 3 人暮らしであった。長女夫婦は共働きであり日中は家を空けることが多かった為、

小島さんは基本的に日中一人で過ごしていた。小島さんはその状況が少し心細かったよう だ。在宅療養が 2 ヶ月ほど継続する中で、腰背部の疼痛と腹部症状の緩和のために鍼灸治 療を勧められて、鍼灸治療が開始されることになった。

平岡氏が初回訪問した際の小島さんの最もつらい症状は便秘であった。「下剤を使って調 整しているがうまくいかない。出したいのに出ない感じがあって、お腹が張って苦しくな る」状態であり、平岡氏は同症状の緩和を目的に鍼灸治療を開始した。小島さんにとって 初めての鍼灸治療で若干の緊張はあったものの、施術直後に腹部のすっきりした感じが得

185 最終的にがんが発見されたものの、この後も便通に関するトラブルは継続する。薬物療法の副作用によるものも考え られたが、後述の通り気分の影響で消化器症状は増悪するなど、過敏性腸症候群の徴候も併発していたと考えられる。

186 カルテでは「BSC(Best Supportive Care)緩和医療」と記されていた。

られた。しかし、治療後しばらくしてむしろ腹部の不快症状が出現してしまったようだ。

治療内容とその後の状態については、娘さんと連絡ノート187を通じて情報を交換し合って おり、そのノートにも初回施術後の状態について記されていた。2回目以降、平岡氏は「お 腹を動かすより温めることを中心にした施術」をしていくことにし、連絡ノートを通じ佳 子さんにもそのことを伝え、症状がむしろ悪化してしまった場合には「温めることが有効 である」ことを伝えた。

小島さんの腹部が張る症状が強くなってくるのは一日のうち夕方にかけてであり、平岡 氏がその理由を小島さんに尋ねると「誰もいないこと。いつ帰ってくるのかと考えている とお腹が痛くなる」と小島さんは答えた。平岡氏はこの答えに対し、「不安要素が強いか」

とカルテにアセスメントを記している。小島さんは平岡氏が治療時に行う腰部のマッサー ジが気に入っているようで、平岡氏のカルテにも「腰部のマッサージが気持ちいい」とた びたび記されていた。筆者が小島さんのお宅を訪ねたのは、ちょうど鍼灸治療が開始され た1ヶ月半後であった。

第二項 鍼灸治療の「場」

[1]治療現場

小島さんのお宅には月曜日の朝一番に訪問することになっていたが、お盆休みのため火 曜日の朝一番に時間変更となっていた。月曜日は勤務の関係で訪問に同行できない筆者は、

この日たまたま小島さんの鍼灸治療に同行することができた。天気は晴天で、暑さもさほ ど酷くなかった。午前 9 時に平岡氏と近くの駅で待ち合わせをし、小島さんのお宅へ向か った。待ち合わせの駅から30分ほど走った住宅街の中に小島さんのお宅があった。駐車場 には車が止まっており、平岡氏が「あれ、今日はお婿さんいる日かな」と呟いた。普段は 誰も居ないため、車が停まっていることもないようだ。平岡氏はお宅の脇の道路に車を止 め、道具を揃えて車を降りる。平岡氏が玄関をあけ「おはようございまーす」と入ると、

玄関右側から「はーい、どうぞー」と声が聞こえた。小島さんのお宅は玄関を入ってすぐ 右側の部屋が居間になっていたが、日中小島さんはほとんどその部屋で過ごす。小島さん の第一印象は「笑顔のかわいい小柄なおばあちゃん」で、平岡氏が「認知症が入り始めて いるが、ほとんどそうは見えない」という通り、会ってお話をするととてもそうは見えな いほど会話がしっかりしていて表情も豊かであった。また難聴があるとのことであったが、

全く近づく必要もなく会話も可能であった。平岡氏と小島さんは互いに笑って会話を始め た。

小島さんと平岡氏のやり取りはお盆のご馳走の話と腹部症状に関する話から始まった。

複数の愁訴が挙がる中、腹部症状が落ち着いていることでまずは納得した様子の平岡氏で あった。一通りの問診が終わった後、平岡氏に促され筆者は小島さんに自己紹介をした。

調査の話をしても、快く笑顔で「いいですよ」と答えてくれた。近くでよく見ると、顔色 は浅黒く、思いの外体調は良くなさそうに見えた。平岡氏は引き続き症状に関する問診を 続けた。腰部の痛みを確認した後、大腿部の痛みの話に移る。平岡氏は痛みの部位を同定 するまで、細かく大腿部を触りながら何度も小島さんに確認し、小島さんがそれに応じて

187 連絡ノートは平岡氏だけでなく、他の職種も訪問の際に記入し、娘の佳子さんと細かな情報共有を行う重要なツール となっていた。

痛い場所を示して応える。痛みの経過が複雑なため、結果的に平岡氏は連絡ノートを見て 経過の確認を行っていた。

ノートを見た後、平岡氏の促しにより、小島さんは居間の絨毯の上に仰向けになった。

絨毯の上には特に布団などは敷いていない。枕だけがあり、そこに頭を載せて小島さんは 仰向けになる。平岡氏は、小島さんの靴下を取り、数秒間小島さんの足を見つめた。前の 週に原因不明の足部の内出血があったようだが、今は内出血瘢も無く、小島さん自身痛み も感じなくなったようだ。その確認が終わった後、平岡氏は小島さんの右脇に座り両手の 脈診を行った。10秒間ほど同じ姿勢で脈を診る。脈を診ながら舌診も行った。

平岡:小島さん舌見せてもらっていいですか。ちょっと黒いの良くなった?

小島:よくなりましたね。

平岡氏の舌診に対するコメントに対し、小島さんが自分でも舌を観察していることがわ かる返答がなされた。舌を診ながら脈診を行う平岡氏が、小島さんに「(筆者に)見られて たら緊張するね」と声をかける。小島さんは「・・ええ」と遠慮がちに頷く。脈を見なが ら便通の状態を確認する。その後腹部の触診を始めた。

平岡:ちょっとお腹見せてください。いつもどれくらいのタイミングで出るの?

小島:普通ご飯食べたらすぐ出るんだけど。

平岡:今日出てないの?

小島:そうですね。

腹診を行いながら改めて便の話になった。上記の会話をしながら最初は手掌を軽く当て て、腹部全体を触る。最初の軽い触診で気になったところだろうか、局所的に強めに圧迫 して触診をする。その後、腹部各所を打診して腸管の音を確認する。

平岡:(数秒の沈黙の後)ちょっと出したほうがいいかな。

小島:食べんのは一人前でさ。

平岡:ふふ。出るのも半人前くらい?焦っても出ないから、あせらないでね。出るもの は出るし。ね。看護師さん来た時もちゃんと出してくれるから。じゃあお腹から 鍼していきますよ。

平岡氏が意識的に腹部症状に関する問診を行い、また丁寧に所見を細かく取っている様 子が伺えた。またお腹の状態が最も気になっている小島さんにとっても、平岡氏の問診か ら診察へのプロセスが大きな安心に繋がっているようにその表情からは見受けられた。

平岡氏は鍼の準備をはじめる。シャーレを取り出し、「カラン」とシャーレに数本の鍼を 入れる。腹部の数カ所をアルコール綿花で消毒する。まず左右の臍外側、臍の上部、臍の 下部に切皮し、鍼が「ぺたん」と垂れた状態にして、腹部にタオルをかけた。次に小島さ んの左手の母指と示指の間を指で数回さすり切皮し置鍼をした。小島さんの体の上から反 対側に身を乗り出し、右手の母指と示指の間にも切皮し置鍼をする。その後、平岡氏は「小