第六章 鍼灸治療の「場」と患者の語り
第十節 見えづらい治療継続の意味―佐藤俊夫さんの事例―
第一項 佐藤さんの在宅療養と鍼灸治療
佐藤さんは70代後半の男性で、胆管がん末期で多臓器転移を起こしていた方である。佐 藤さんの鍼灸治療は1ヶ月半の在宅療養の間に 8回行われた。筆者が佐藤さんの治療現場 に同席したのは最後の3回で、筆者の最後の訪問の3日後に佐藤さんは息を引き取った。
胸水貯留による呼吸苦、痛み、および著しい浮腫に苦しんでいた佐藤さんは、苦痛に耐え るように身体を丸めて鍼灸治療を受けていた。皆がいる明るい居間が大好きだった佐藤さ
んが、治療後にベッドで休憩することなくすぐさま起き上がって居間に戻る姿は忘れるこ とができない。筆者が訪問した患者の中で、いわゆる「治療効果」というものが最も見え にくかった佐藤さんにとって、最後まで受け続けた鍼灸治療とはどのようなものだったの か。
2008 年11月に発熱および倦怠感が出現。精査の結果下部胆管がんの診断を受け、2009 年1月に膵頭十二指腸切除術を行った。2009年2月から2010年1月まで術後補助化学療 法施行、以後経過観察していた。ところが、2013年3月にCT検査にて腸間膜リンパ節腫 大を指摘される。同月PET検査を施行、4月に入りさらに大腸内視鏡検査を行い横行結腸 がんの診断を受けた。右半結腸切除術施行するも、術中所見にて結腸の所属リンパ節を超 えて根治手術不可能と判断された。最終的に胆管がんの結腸転移、リンパ節転移と診断で あることが判明した。2014年1月のCT検査でリンパ節転移の増大を認めたため、2月よ り抗がん剤を開始した。6月まで治療継続するも、造影CTで両側胸水、腹水の増加、多発 リンパ節転移の増大を認め緩和医療に移行する方針となり、ひろせクリニックに紹介とな った。微熱と労作時の息切れを認めるものの、左胸水が著しく貯留しているとはいえない ため経過観察中であった。しかし、近いうちに胸水増加により呼吸困難を起こすことが予 想される状態であった。佐藤さんは、自宅で過ごすことが難しくなった場合、病院での看 取りを希望していた。
2014年7月中旬より在宅療養が開始された。佐藤さんの状態はPSにて3、症状は腹部 の張り、ガスの出づらさ、息切れおよび呼吸苦であった。また時々動悸を伴っていた。腰 痛もあり体動時の痛みが特に強い状態だった。在宅酸素療法を行っており、在宅療養開始 時で 4 リットルであった。ひろせクリニックは腹部症状と痛みの緩和、また浮腫の改善に 対して介入することとなった。在宅療養開始からすぐに平岡氏の鍼灸治療も導入となった。
佐藤さんのバイタルレベルは日に日に低下し、特に呼吸苦の程度が日毎増悪していた。角 野医師は8月に入ると「いつ逝ってもおかしくない」と家族に説明していた。
平岡氏の鍼灸治療は 7 月下旬から開始となった。鍼灸治療が始まった理由は、腰痛、下 肢の浮腫、腹部膨満感の緩和のためであった。佐藤さん本人が最も辛さを訴えていた症状 は腰痛であった。平岡氏のカルテによれば、腰部に明らかな圧痛は認めないが、第 4 腰椎 あたりを中心に腰部全体の痛みを佐藤さんは訴えていたようである。筋性の痛みだけでは なく骨転移による痛みも混在している可能性があった。平岡氏は施術開始の際に「浮腫、
腰痛含め腹部の状態(排便)が大切である」ことを伝え、腹部の治療も積極的に行った。
初回治療後は著明な変化はないものの、「なんとなく軽くなり気持ちは良かった」と佐藤さ んはコメントしており、週 2 回の施術で継続していくこととなった。なお、ハツさんも腰 痛と膝痛で治療を受けることを希望し、2回目以降に佐藤さんと同時に治療することになっ た。
2回目以降、腰痛は「なんとなく軽減」している様子だったという。しかし下肢の浮腫は 不変ないし増悪、また日増しに呼吸苦が強くなっていき、酸素吸入を行いながら施術する 日もあった。疲労感も増悪していたようだ。また、排便が滞りがちになり始めたため、腹 部施術の刺激を少しずつ上げるようになった。筆者が訪問したのは 6 回目の鍼灸治療の時 からである。
第二項 鍼灸治療の「場」
[1]治療現場①
本橋市の中心部から少し離れた住宅街の中の、入り組んだ細い道をしばらく走ったとこ ろに佐藤さんのお宅はあった。駐車場に車を停めた際、昼前の暑さが酷い時間帯のため平 岡氏は車のフロントガラスにサンシェードを置く。車を降りて、駐車場の奥にある玄関に 歩いて行く。暑いせいか、玄関は開けっ放しになっていた。「こんにちはー」と中に入ると、
家の奥から妻のハツさんの「どうぞー」という声が聞こえてくる。玄関を入って正面に短 い廊下がまっすぐあり、廊下を挟んで右側が居間、左側に佐藤さんの寝室があった。佐藤 さんは居間でテレビを見ていたようで、平岡氏と筆者が玄関で待っていると、佐藤さんが 居間から歩行器でゆっくりと歩いてくる。鼻には在宅酸素のチューブをつけており、ちら っと一瞬筆者の顔を見るも、歩くのが大変なせいか、すぐに自分の足下に視線を戻す。一 見して状態はよくなさそうだ。体全体で呼吸し、覇気がなく、顔色もくすんだ黒い色をし ている。佐藤さんが部屋に入った後に、平岡氏と筆者が後に続いた。佐藤さんが療養して いる部屋は 4 畳半の部屋で、奥にベッドがあり、その他在宅酸素の機械等が所狭しと置か れている。この場所に大柄な平岡氏が入り、空いているスペースでハツさんも一緒に治療 をする。佐藤さんの身の回りは妻のハツさんが看ている。家には佐藤さんとハツさんの他 に、長男夫婦とその次男が住んでおり、計5名の世帯であった。
平岡氏に促され、筆者はベッドの奥の窓取り付け型エアコンの脇のスペースにいること になった。平岡氏は佐藤さんを支えながら横向きにする。痛みが強いのか、臥位になるの もかなりつらい状況の様子である。部屋の入口でハツさんが見守る。改めて佐藤さんの顔 を見ると、やはりかなり状態は厳しいようだ。名刺をお渡しして挨拶をするも、返事もそ ぞろであった。平岡氏はいつもの通り、道具箱を開けて鍼の準備をする。居間からは甲子 園の放送音が聞こえてくる。
右横向きの状態で平岡氏は両手の脈を診る。佐藤さんの一番つらい症状は腰痛であった。
平岡氏は腰痛に関する問診を幾つかする。佐藤さんは呼吸を苦しそうにしながら小さな声 で答える。筆者がいる場所と反対を向いているのもあり、佐藤さんがなんと答えたかを聞 き取ることが難しい。鍼の入ったシャーレをベッドに置き、右手に切皮のみ、また左の肘 関節前面の反応を数回細かく見た後切皮し、数mm刺入して置鍼した。鍼を刺したと同時 に「お腹を動かすような鍼です」と平岡氏は説明を付け加える。その後腹部を触診し数カ 所に刺鍼する。刺鍼した一箇所は深く刺入し何度か雀啄術を繰り返した。ハツさんから、「暑 さで蒸れてかぶれるため、紙おむつを外してパンツで生活している」と一言ある。鍼を終 え、右手の脈診をする。
「しばらくこのまま鍼置きますね」と佐藤さんに告げ、平岡氏は今度はハツさんの治療 に移る。佐藤さんのベッドに対して垂直に、部屋の入口に頭が来るように仰向けになるハ ツさん。ハツさんが平岡氏に「(佐藤さんが)ポータブル(トイレ)にしてから3,4回夜中 にトイレにいくようになる。よく熟睡できない」と訴える。平岡氏は「うーん」とだけ応 える。しばらくの沈黙の後、高校野球の話になる。佐藤さんは無言で横向きで休んだまま だ。呼吸をする背中が上下しており、見るからに苦しいのがわかる。ハツさんの膝周りに 鍼を刺し、再び佐藤さんの方へ移動する平岡氏。今度は背中側の治療を行う。ハツさんに は温灸が付けてあり、平岡氏はハツさんに「熱かったら言って下さい」と伝える。
佐藤さんの腰の治療に移る。平岡氏は、エアコンの風があたって寒くないように足と上 半身に毛布とタオルケットをかける。左肩甲骨周囲部を手根部で軽く揉捏し、後頚部を母 指で圧迫する。そのまま腰背部の筋を背中から腰にかけて母指で揉捏し、さらに手掌全体 で軽く圧迫を加える。その間ハツさんが「お灸が熱い」と言ったため、筆者がハツさんの 灸を外しに行った。
平岡氏は佐藤さんの腰の手技が終わった後、左大腿部の手技を始めた。両手掌で把握す るように軽く揉み上げる。その後下腿の浮腫の状態を確認し、下腿部を両手で把握するよ うにマッサージする。平岡氏は一旦佐藤さんの足部に毛布をかけて、佐藤さんの足の上を 跨ぎハツさんの鍼を抜く。ハツさんをうつ伏せにして腰部の鍼を行っているようだ。その 間、佐藤さんは同じ姿勢のまま少し休んでいる。
ハツさんの刺鍼を終え、佐藤さんの治療が再開した。両手と腹部の鍼を抜き、両手の脈 診をする。佐藤さんを仰向けにし、右下肢の手技をはじめようとするも、佐藤さんはかな り腰が痛い様子である。そこで、反対側の横向きに姿勢を変えた。体位を変換し左横向き になった途端、佐藤さんは咳をして少し苦しそうにしている。咳が落ち着くのを待ち、平 岡氏は右側の腰部のマッサージを始める。「この姿勢で 10 分ほどいられますか?」と佐藤 さんに確認する。佐藤さんは力なく頷く。腰部に数カ所切皮し、そのまま置鍼する。佐藤 さんはベッドの手すりにつかまっている。呼吸が少し苦しい様子だ。手すりをつかむ右手 の位置もなんとなく定まらなさそうで、少しずつ位置を変えている。平岡氏は殿部のマッ サージを始めた。その後、大腿後面のマッサージを行う。平岡氏は時々佐藤さんの顔の様 子を見ながら施術を行う。佐藤さんは目を閉じた状態でいる。平岡氏は一端マッサージを 中断し、ハツさんの鍼を抜きに行く。その間佐藤さんはペットボトルの水を一口含む。呼 吸が少し荒くなっているようだ。呼吸が苦しいのか、鼻につけている吸入の管を自ら調節 している。
ハツさんの鍼を抜き、平岡氏は佐藤さんの治療に戻った。佐藤さんの腰の鍼を抜いて下 腿部のマッサージを始める。ハツさんは治療を終えて部屋を出ていく。サンダルの音が外 から聞こえたので、玄関から外に出たのだろう。マッサージを受けている間も佐藤さんが 時々微かに体を動かす。平岡氏は、その動きの都度手を止めて佐藤さんの顔を見る。呼吸 苦と痛みを考慮してか治療の時間は全体にして30分ほどで、筆者が見た他の患者に比べあ まり長い時間はかけなかった。「終わりまーす」と佐藤さんに伝え、治療が終了した。佐藤 さんは一度ベッドの端に腰掛ける。平岡氏が腰の痛みの状態を聞くと「やはり痛い」と答 える佐藤さん。平岡氏は坐位のまま腰部を軽く擦る。「大丈夫」と擦るのを遠慮するように して小声でささやく佐藤さん。そのまま歩行器をつかみ、居間の方へ移動した。治療開始 から終わりまで佐藤さんが言葉を発する時は殆ど無かった。平岡氏が痛みの確認をする際 に一言答えるのみ。治療後にはすぐさま居間に移動してしまった。佐藤さんの治療にはど んな意味があるのか。佐藤さんはどんな意味を感じているのか。症状の変化も得づらく、
かたやこれまで見てきた他の対象者の方々から聞いた直後の「軽さ」のような反応、ある いは筆者から見た直後の変化が全くと言っていいほど見られなかった。ハツさんの治療も 平行して行っていたせいか、治療空間全体がどことなく「落ち着かない感じ」もあり、筆 者自身もなんとなく「しっくりこない」感覚も覚えた。「鍼灸治療によって終末期には穏や かな時間が提供できる」という筆者の思い込みが強いせいだろうか。穏やかでもなんでも