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年以上継続した鍼灸治療―倉田実さんの事例―

第六章 鍼灸治療の「場」と患者の語り

第三節 1 年以上継続した鍼灸治療―倉田実さんの事例―

第一項 倉田さんの在宅療養と鍼灸治療

倉田実さんは70代半ばの男性である。倉田さんは悪性褐色細胞腫であったが、病巣が局 在的で進行のスピードが比較的穏やかであったことから、在宅療養は実に 2 年以上におよ び、筆者が参与観察を行った中では最も長い療養期間の方であった。療養期間の長さもあ り、鍼灸治療の継続期間も 1 年以上と長いものとなった。お話をするのが大好きだった倉 田さんは、ひろせクリニックのスタッフのどのメンバーが来ることも楽しみにしており、

スポーツの話で盛り上がる角野医師と平岡氏の訪問は特に楽しみにしていた。経過の長さ もあり、唯一筆者が調査の2期間(2014年3月および8月)とも訪問調査を行った方でも ある。倉田さんが楽しそうに平岡氏と話をする姿は印象的であったが、その一方でインタ ビュー時には「主訴は鍼をしてもあまり変わらない」と語っていた。長期療養の中で症状 の変化が得づらかった倉田さんが継続的に鍼灸治療を受け続けた理由はどこにあったのか。

2012年に原因不明の腰痛に悩まされていた倉田さんは、精査の結果悪性褐色細胞腫と診 断された。手術適応外の診断を受け、抗がん剤治療を継続していた倉田さんは、2013 年1 月に在宅療養を開始することとなった。退院時のPSは3で、腰部から殿部の痛み、軽度の 腸閉塞による消化管症状、倦怠感や歩行時のふらつきが出現していた。在宅療養中のひろ せクリニックでの対応症状は、腫瘍の肥大化に伴う腰から殿部の痛みが中心であった。痛 みに対しては定期的にオキノームを使用していたが、倉田さんは服用の回数を増やすこと に対して抵抗感を持っており、医師や看護師との間で、服用の方法についてもめることも しばしばあったようだ。在宅療養が半年以上経過した2013年10月に、腫瘍の増大によっ

て出現し始めた左大腿後面の痛み171に対して、担当の小久保看護師が倉田さんに鍼灸治療 を提案すると、倉田さんは治療を受けることを希望した。担当医の角野医師の確認の後、

鍼灸治療が導入されることとなった。

平岡氏の鍼灸治療は、左大腿後面の痛みと排便調整を目的に開始された。初回の施術後 は「足が少し軽いようだ」と受け入れも良かったようだ。翌日の看護師のカルテによれば、

「昨日はじめて鍼灸を受けた。直後は足が軽くなったが、その後は変わりないなあと。継 続で変化見られるかもしれないのでしばらく様子を見る。」と記載されており、ここから倉 田さんの鍼灸治療が継続的に行なわれることになった。その後の治療も初回と同様、直後 は「楽だ」が、すぐに元に戻ってしまうというのが繰り返される状況であった。しかし治 療開始後 1 ヶ月の段階で小久保看護師から治療継続の意向を問われると、倉田さんは「し ばらく続けてみる」と返事をしたという。

当初「病気が一段進んでしまっているという印象になる」とオキノームの回数を増やす ことに抵抗を示していた倉田さんは、定期服用から疼痛時服用に変更した所、痛みのコン トロールが当初より上手くいくようになった。倉田さんの在宅療養の前半は、この「痛み」

と「服薬」の間での葛藤が中心となっていたことが、医師カルテや看護師のカルテから伺 える。

第二項 鍼灸治療の「場」

[1] 治療現場①

倉田さんのマンションは本橋駅から車で10分ほどの住宅街の中にあった。管理人に駐車 許可証を渡された平岡氏は、マンション駐車場の一角に車を止めて、フロントガラスのと ころにその許可証を置く。倉田さんご夫婦のお部屋はマンションの 2 階にあった。平岡氏 が倉田さんのお宅の玄関にあるインターホンを押して数秒待つと、妻のコトエさんが出迎 えてくれた。コトエさんは白髮の短髪で可愛らしい方だった。トーンの高いハツラツした 声で「こんにちは〜、どうぞ〜」と我々を迎え入れてくれた。廊下を進むと正面に明るい 光が差し込む居間があり、その居間に隣接した和室にあるベッドの上で倉田さんは寝てい た。居間にはピーちゃんというインコがおり、時々鳴き声や羽を動かす音が聞こえる。平 岡氏はベッドの奥側の方、倉田さんの左側に行き、挨拶を交わしながら早速鍼の準備を始 めた。筆者も一言挨拶をし、調査の概要を説明する。薄いブルーのパジャマにグレーのカ ーディガンを羽織った倉田さんは、パッと見はさほど具合は悪くなさそうに見えた。話を する時には、痰の絡みのせいか、少し口をモゴモゴさせるような動きをしながらお話をす る。平岡氏はまず最初に大腿部の痛みについて問診し始める。患部を触り場所を確認して いると、倉田さんが温めると楽という話をし始める。

倉田:そのへんから(痛みが)くるんだよ。温めるといいんだよな。こたつなんかに 入るといいんだよ。今日はもう朝からこっちの方も痛いしさ。こっちの方にあれ

171 倉田さんの痛みについては後述の通り神経障害性疼痛と考えられていた。日本緩和医療学会編集の『がん疼痛の薬物 療法に関するガイドライン』[2014:18-28]によると、神経障害性疼痛は、痛覚を伝える神経の直接的な損傷やこれら の神経の疾患に起因する痛みのことである。また神経障害性疼痛は、難治性で鎮痛補助薬(主たる薬理作用には主たる 薬理作用には鎮痛作用を有しないが、鎮痛薬と併用することにより鎮痛効果を示す薬物)が必要になることが多いとさ れている。

を貼ってさ。

平岡:モーラステープ?

倉田:いや、モーラスじゃなくてあの熱でるの。

平岡:あ、カイロ?

コトエ:ホッカイロ。

倉田:ホカロン。

コトエ:ホカロンでしょ。お父さん。

倉田:ホカロンか。それをこっちで貼ってんのね。

平岡:貼ってどうですか?

倉田:少しは楽だよ。温めりゃいいんだよな。

平岡:今から温めます。(笑い)

倉田:んだよ。だからもぐさでも燃やしてくれよ。(笑い)

倉田さんは冗談を交えながら、自ら大きな声で笑いながら答える。「ホッカイロ」、「温め る」、「少し楽」という内容が最終的に「もぐさ」に繋がった会話である。筆者が訪問した 時点ですでに 1 年近い治療期間を共有している倉田さんと平岡氏であるが、最後の平岡氏 の「今から温めます」の言葉に「灸」という補語が入ることを倉田さんは読み取っており、

「もぐさでも燃やしてくれ」と返している。互いに文脈を読み取りあう関係であることを 示す会話であるとともに、「もぐさ」が二人の治療関係を構成するツールであり、「温める」

という治療概念をもたらす象徴的なツールにもなっていることがわかる。最後の「燃やし てくれよ」という表現には、冗談もありながら、この症状をどうにかしてくれという倉田 さんの現状に対する思いも見え隠れする。

平岡氏は鍼の準備を終え、倉田さんの枕元のサイドテーブルに鍼の入ったシャーレをお いた。両手で脈診を行う。数秒間脈を見た後、舌を診る。舌に着色があったようで、直前 の飲食の状況を確認する。その後平岡氏は、食欲、睡眠について確認し、倉田さんの腹部 を開けながら排便について確認する。

平岡:ふーん。(数秒沈黙して腹診)なんか、この辺(上腹部あたりを触りながら)す ごいですね。ポーンと。

倉田:はは、炸裂しそうか。はっは。

平岡:鍼してプスーと抜ければ一番いいんですけど。

倉田:そうだよな。はっはっは、

平岡:そういうわけにもいかないんで。

倉田:太い鍼ねえの。

平岡:うーん、それができるんなら角野先生がもうやってると思うんですよ。

平岡氏と倉田さんの間にはこのような鍼灸に関する冗談交じりの会話がしばしばなされ た。ここにも灸の行と同様、「鍼してプスー」という表現からは鍼というデバイスが持つ「刺 す」「抜く」というイメージが象徴された表現が共有されていることがわかる。

このやり取りの後、平岡氏はサイドテーブルにあったシャーレを手元に置き、腹部に鍼

を刺し始める。切皮をし、鍼の回旋と母指で鍼体を弾く動作を繰り返す。上腹部と下腹部 に一点ずつ同じ手技での刺鍼を行う。その後、左腹部に深く刺入鍼を行う。しばらく右手 の刺手をそのままにし、時々雀啄術を行う。倉田さんはフーっと大きいため息を付く。

倉田:その辺(鍼)すると足の方に響いてくるのな。

平岡氏:はい。深く鍼ここ刺しますので。

平岡氏は鍼と足の方への感覚の具体的な関連性については一切言及していない172。ただ平 岡氏の返答は、足の方に響くことを意図した刺激であるかのような返しであり、鍼刺激と それによりもたらされた感覚が関係しているという解釈を倉田さんに与えうる返しをして いる。

腹部の鍼は置鍼したまま、再度両手の脈診を行う。その後左前腕下部外側、左手の尺側 に切皮、捻転と母指で弾く動作を繰り返す。右手に対しても同様の手技を行う。手の鍼が 終わった後、足の鍼を行う。右外果下部、右足趾間部に切皮、捻転、母指で弾く動作を繰 り返す。その後、右下腿外側前面と右足関節部に切皮して置鍼した。平岡氏は足が寒くな いようにするために倉田さんの下肢全体にフワリと優しく布団をかける。

一通りの刺鍼を終えると、神経痛が出ている左下肢のマッサージを始める。「倉田さんの 症状には冷えが一番悪いから」と説明しながら、足を毛布からは出さず、自らの手を毛布 の中にくぐらせてマッサージを行う。平岡氏は痛い場所を確認しながら手技を行う。

平岡:ふくらはぎから来てます?膝裏?

倉田:そうそう、そのへん(おそらく膝裏外側)かな。

平岡:この辺から。

倉田:それが痛いね、それね。結局そこが神経の終点だってことか?

平岡:そうですね。こうおしりから出たところが下に出て。

倉田:(神経が)下から出てくるわけねぇから。

平岡:膝のところでちょっとまた別れて、はい。

倉田:だから夜寝るときはその辺を温めると寝やすいんだよな。

平岡:あ、でも冷えは下から上に行くので。

倉田:そうそう、そうだよ。下から来るんだ。

平岡:倉田さんは冷えがかなり悪さをすると思うから。足元しっかりガードしておく っていうのがとても良いと思いますので。

平岡氏は、坐骨神経走行上の疼痛を訴えていた倉田さんに対して、体を触りながら具体 的に神経走行について説明し、痛みの原因と場所について説明を行う。倉田さんはその説 明を受け、温めて症状が和らぐことの意味を理解している。平岡氏はその理解を、言うな れば「利用」しながら冷えないようにすることの重要性を伝えている。

172 倉田さんが語ったこのような発言を鍼灸師はしばしば経絡現象として捉える場合がある。経絡現象は、経穴あるいは 病巣部と効果器との間の関連する生体現象であるとされる[兵頭 1980]。経絡現象に関する報告は一時期日本において も盛んに行われていた[北出 1983;1984、神野 1987;1991]。