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生活リズムの変化を語った患者―一宮信人さんの事例―

第六章 鍼灸治療の「場」と患者の語り

第四節 生活リズムの変化を語った患者―一宮信人さんの事例―

第一項 一宮さんの在宅療養と鍼灸治療

一宮信人さんは30代の男性である。今回筆者が会った患者の中では圧倒的に年齢が若い。

妻のゆかりさんも同年代で、2歳と0歳の子どももいる。この年代でガンに罹り末期の状態

174 部位に関する詳細な記録はなかったが、腰部に流れる経絡上の、下肢の末端にある経穴を選択したようである。

と伝えられた今、受けている鍼灸治療が一宮さんにとってどのようなものなのか、初めて 伺う際にはとにかくそれが気になった。同年代のためだろうか、あるいは同じくらいの年 齢の子を持つ自分の立場に重ねたからか、『今、自分がこの時に末期がんであったなら最期 をどう過ごすだろうか、特に鍼灸「なんて」するのだろうか、鍼灸「なんか」やって意味 があるのだろうか』と一宮さんのカルテを見ながらそのことばかり考えた。一宮さんの情 報を目にし、それまで漠然と抱いていた鍼灸の限界と関わる意味への懐疑が、鍼灸師であ る自分の中にはっきりあることを自覚した。一宮さんの鍼灸治療期間は、在宅療養期間と 緩和ケア病棟入院期間を通じ、約5ヶ月間と長く、かつ治療回数も24回(うち在宅での治 療は19回)と多かった。また、一宮さんは最終的に緩和ケア病棟で看取られたが、亡くな る一週間前まで病棟でも平岡氏の鍼灸治療を受け続けた。一宮さんは、倉田さん同様、鍼 灸を「生活リズムの変化をもたらすもの」と語ったのである。

一宮さんは、2014年7月に右上顎癌の診断を受け、導入化学療法後、手術療法、放射線 療法を行った。しかし同年12月に右大腿骨・左恥骨転移・左肋骨転移が見つかる。本人も 家族も追加の化学療法は希望せず、除痛のための放射線照射のみ実施となり、年明けより 在宅療養となった。この段階で一宮さんは、すでに医師から「化学療法をやめれば余命半 年が平均」と言われていた。本人は「もう助からない」ことを覚悟しており、「苦しまず、

できるだけ家族と過ごしていきたい」と在宅療養を選択した。在宅療養開始時の一宮さん のPSは1〜2程度でADLは概ね自立していた。外には出かけられるうちに出かけたいと いう思いがあり、在宅療養中も時々近所に外出していた。一宮さんの身体愁訴は、骨転移 による疼痛、また術後や体力低下に伴う筋痛が中心であった175。股関節周囲の痛みについ ては突発的に痛みが出ることがあり、いつその痛みが来るのか不安になることがあるとの ことだった。また退院時に肺炎にかかったこともある通り、在宅開始時にも咳嗽、黄色い 痰の喀痰など易感染性の状態にあった。加えて顔面部の術後の影響からか口腔内の状態も 悪く適宜消毒が必要な状況であった。一宮さんに対するひろせクリニックの医療介入の主 目的は疼痛緩和および感染予防にあった。

医師・看護師の初回訪問時に症状緩和の一手段として鍼灸治療について説明があり、そ の際一宮さん本人、あるいはゆかりさんが治療に関心を持っていたのか、初診時の医師カ ルテには「希望時鍼灸導入」と記載されていた。その翌日には、早速ゆかりさんから「肩 の痛みに対して鍼灸勧められたが、やってみようと思うがどうしたらいいか」とひろせク リニックに電話が入った。担当医師・看護師との調整が済んだ 2 日後に、平岡氏は初めて 一宮さん宅を訪問することになった。

平岡氏は、筋の痛み症状の緩和、および排便状態が悪かったことからその改善も目的に 鍼灸治療を開始した。状態の低下に伴い鍼灸の刺激方法や治療部位は若干変化しつつも、

筋性の疼痛緩和を目的としたアプローチが最後まで継続していた。一宮さん本人は、体調 が良い時、また痛み症状が強くない時には積極的に外出をしていた。咳嗽症状や食欲の低 下なども一時軽減し、身体的には良好な状態が継続する。外出後に痛み症状や筋系のこり

175 カルテを参照すると、股関節や腰部周辺の痛みについては骨転移による痛みという評価がなされている。また一宮さ んが訴える肩甲間部の痛みについては、画像所見上転移性の痛みではなく臥床姿勢による筋性の痛みであろうと評価さ れていた。ちなみに角野医師へのインタビューにおいては痛みの評価は非常に難しく、「この痛みは100%、〇〇による 痛み」と断定することはできないという。

症状などが増悪することがしばしばだったため、当初はそれを軽減することを目的とした 鍼灸治療が中心となる。在宅療養開始から2ヶ月間は、医師の介入は1ヶ月に1回、看護 師の介入は2週間に1回、鍼灸師の介入は週に1回となっており、鍼灸師の平岡氏が最も 関わる頻度の高い医療職種であった。

在宅療養開始から 1 ヶ月半が経った頃から、外出後の痛み症状が頻繁、かつ強いものに なってきた。ただ、一宮さん本人は鍼灸治療をすると症状が緩和するという認識を強く抱 いており、後のインタビューの際に本人が語っていたことだが、鍼灸治療の前に外出のス ケジュールを詰めて、治療後少し休む、というように「生活リズムを作るもの」として鍼 灸治療を位置づけるようになる。一宮さん本人がこれまでの週1回の治療を2 回に増やし たいと平岡氏に相談したのもこの頃だ。医師カルテにも、動いた後の筋痛に対しては、痛 み止めの服用もいいが、鍼灸やマッサージのほうが効果的である旨が記載されており、一 宮さん同様、担当の角野医師もその効果を認識している様子が伺える。筆者が一宮さんの 治療の場に立ち会ったのはちょうどこの頃である。一宮さんが亡くなる約 3 ヶ月前で、タ ーミナル前期に該当する時期であり、疼痛マネジメント、その他の症状マネジメントが患 者に対するケアの主目的になる時期であった。ひろせクリニックの一宮さんへの主たる医 療介入目的も疼痛緩和であり、また鍼治療の主目的も疼痛緩和であった。この頃の一宮さ んのPSは2程度で、在宅開始時に比べ少しずつ状態が悪化して始めていた。

第二項 鍼灸治療の「場」

[1]治療現場

一宮さんの治療の約束は、水曜日の午前11時からとなっていた。近所の駐車場に車を止 め、雨の中傘をさして 3 分ほど離れたマンションまで歩く。市の中心部よりも少し離れた ところにある一宮さんのマンションは、工場地帯に入る手前の住宅地の片鱗に位置した場 所にある。近くを走る国道には、トラックが多く走っており、周辺の立地の特徴が伺える。

マンションそのものは国道から少し入った閑静な場所にある。平岡氏と雨に濡れぬよう足 早にマンションに入った。5Fまでエレベーターで上がり、エレベーターを降りて2つ目の 扉が一宮さんのお宅であった。

インターホンを鳴らすと一宮さん本人が出てきてくれた。一宮さんは今回の訪問調査を

「一度だけなら」と引き受けてくれた。どのような心境で筆者を出迎えてくれるのか非常 に緊張しながら入室したが、とても穏やかな表情と、少し気恥ずかしそうな顔をして筆者 を出迎えてくれ、小さいが優しい声で「どうぞ」と声掛けをしてくれた。平岡氏が先に玄 関を上がり、筆者も後に続いて部屋に入った。廊下を数メートル歩いた突き当りにリビン グがある。マンションの間取りは2LDKだろうか、リビングに入る右手前に部屋が一つと バスルームがあり、リビングの脇に引き戸を挟んでもう一部屋ある。一宮さんは普段居間 のこたつの脇に布団を敷いてそこで寝起きしている。リビングの窓は東向きで、午前中は 光が入ってとても明るい。

布団に座り込んだ一宮さんの顔を改めて見ると、疲労しているのか状態が悪いのか、明 らかに辛そうな顔をしている。発語にも力がなく、筆者が名刺を差し出して挨拶をするも

受け取らず、返事もうつろな感じだった176。上顎洞癌の摘出術の影響で右の眼球摘出をし ているため、右目には眼帯、そして上気道感染が起こりやすいため、マスクをしている。

肌の色は白く、褪せている。抗がん剤の副作用だろう、頭髪は脱毛していたのがわかる状 態だ。取り急ぎ研究説明を行い同意はいただくものの、この状況を描写していいのか、正 直迷いが生じた。少なくともこの段階で、今日インタビューするのは無理だと思っていた。

一通り筆者が説明を終えると一宮さんは仰向けで横になった。平岡氏は一宮さんの右脇で 無言で鍼の準備をしている。

一宮さんと平岡氏のやり取りは「疲労」に関する会話から始まった。

平岡:どうですか?

一宮:体が疲れて、疲れが抜けないですね。

平岡:疲れが抜けない。

その後平岡氏は一宮さんの右側に座り脈診を行う。数秒間脈を診る。脈を診た後、まず は一宮さんの手指を 1 本ずつ掴んで上下に振戦するマッサージを始める。長女で2歳のも えちゃんが側によってきて、平岡氏と一宮さんに向かって「にゃにゃ、ちゃーちゃ」と話 しかける。一宮さんは優しい声で、うん、と応じる。平岡氏は一宮さんの手の方に集中し ているようだ。平岡氏は手指の振戦を行いながら、足の症状やその部位に関する問診も合 わせて行う。また、前回治療時に訴えていたという足の状態を確認する。一宮さんの膝を 曲げ、股関節をゆっくりと屈伸しながら痛みの出方を確認する。もえちゃんが平岡氏の横 で「ママ、こっち」と隣室を指差しながら言う。どうやら隣室には妻のゆかりさんがいる ようだ。

一宮さんの足の状態を確認した後、平岡氏は一宮さんの左側に座り腹診を始めた。まず は打診を行う。次に、手掌で軽く腹部全体を触ってから四指で触診を始める。鍼を刺す場 所の目安を付けたのか、用意していた鍼の入ったシャーレから鍼を一本取り出し接触鍼を 行う。刺し手も押手もそのままにし、接触させた鍼を数秒間当てたままでいる。鍼を終え てシャーレに戻し、再度手掌全体で触りながら腹部の状態を確認する。平岡氏は一宮さん の右側に移り、手関節に接触鍼を行う。鍼先を同部位に当てながら、鍼の回旋と鍼体をは じく動作を繰り返す手技を行う。仰向けで寝ている一宮さんは開眼したまま天井を見つめ ている。接触鍼を終え、平岡氏は右前腕部を掴むようにマッサージを始めた。右前腕部の マッサージを終えると、平岡氏は一宮さんの左側に移動し、まずは左の脈診をした。

時々もえちゃんが声を出して何やら訴えている。不思議と騒々しい感じはない。一宮さ んは残された時間を家族と過ごしたいと在宅療養を選択した。ただし一宮さんが一日家に いる状況になり、なおかつ乳飲み子がいる状況で、家族が常に穏やかな時間を過ごすとい うことではないようである。隣室にいるゆかりさんは顔を出してこない。最期は家族で穏 やかに幸せに、という一宮さんの思いがあるも、現実はそう簡単ではないようだ。一宮さ んの思いもあるが、ゆかりさんにはゆかりさんの思いがある。平岡氏が創りだす「一宮さ

176 調査に対して否定的ということではなく、体の辛さが強いため挨拶どころではない、というような感じであった。