第六章 鍼灸治療の「場」と患者の語り
第九節 「私の知らない部分が広くある」ものとしての鍼灸治療―宮静江さん の事例
第一項 宮さんの在宅療養と鍼灸治療
宮静江さんは80代半ばの女性で、肺がん末期の方である。宮さんの治療には一度しか同 行できていない。下腿浮腫改善の目的で鍼灸治療開始となったが、治療開始まもなく容体 が急変し、ドクターストップがかかり鍼灸治療は中断となった。約二ヶ月の在宅療養期間 の中で、鍼灸治療は実に二回しか行われなかった。筆者が治療に同行したのはその二回目 の治療時である。二回目の鍼灸治療の2週間後に宮さんは息を引き取った。施術中に訴え ていた痛みによる苦悶の表情とは裏腹に、鍼灸についてお話する時の優しい顔を忘れられ ない。初めて鍼灸治療を受けた宮さんにとって、鍼灸治療はとにかく「知らなかった新し いもの」であり、一方で「状態が悪くなってからするもの」という認識のものであった。
2007年12月肺がんStageⅠの診断を受け手術療法を行った。術後外来にて経過観察して
いたが、2012年に腫瘍マーカーが上昇、精査の結果右肺に小結節を認めた。また、右鎖骨 上窩リンパ節、縦隔リンパ節、肝臓、骨盤、胸椎に転移が認められた。2013年1月から抗 がん剤を開始、一時腫瘍マーカーが減少したが、2013年12月頃から再上昇を認めた。2014 年 3 月に疼痛の強い骨盤および胸椎に放射線照射を行い、骨盤部の疼痛は改善した。その 後も外来で抗がん剤療法をしながら経過観察されていたが、徐々に病状が進行する。2014 年6月23日に全身状態悪化となり一時入院した。その際抗がん剤の継続も困難と判断され る。ご家族より在宅医療の希望がありひろせクリニックの紹介となった。放射線により疼 痛が激減した経緯もあり、今後疼痛が出現した際には適応があれば除痛目的の放射線照射 は行いたいという希望があった。宮さん本人は肺がんであることは知っているがそれ以上 の詳しい病状までは知らされていなかった。
その後、宮さんの在宅療養は2014年7月から始まった。在宅療養開始時は PSが2〜3 で、日中は居間のソファでゆったりと過ごすことが多かった。宮さんの最も強い訴えは、
全身がだるく思うように動けないことであった。また、長年腰痛があり、10 年ほど前から 最近まで近医の整形外科で時々ブロック注射をしていた。2014年5月より、骨粗しょう症 の注射を10日に1回施行していた。
筆者の参与観察の3日前が宮さんの初回の鍼灸治療であった。平岡氏のカルテによれば、
宮さんの主訴は腰背部の痛みと下腿浮腫であった。鍼灸治療を受けるのは初めてであった 宮さんは、終始緊張している様子だったようだ。仰向けの姿勢でいると腰痛の訴えがある ため、治療自体は横向きの姿勢を中心に行われた。施術直後には腰背部の痛みは軽減、下 腿の浮腫は不変とのことであった。初回介入2日後のカンファレンス記録では、「浮腫に対 して鍼灸介入で効果期待」と記載されており、他職種にとっては鍼灸治療導入目的が「浮 腫の軽減」であったことがわかる。
第二項 宮さんの治療の「場」
[1]治療現場
宮さんの自宅は本橋駅から車で 5 分ほどの場所に位置する。医師であったご主人が他界 し、一人暮らしを続けていたが、病気の進行に伴い一人暮らしが困難となり娘夫婦の家に 同居することとなった。調査時には、宮さんは長女夫婦と3人暮らしで、猫も3匹飼って いた。宮さんの自宅は 3 階建ての大きな住宅である。この日は先に角野医師らが訪問に訪 れていた。ちょうど玄関から出てきた角野医師らに挨拶をする。娘の登紀子さんが玄関で 角野医師を見送っているところであった。角野医師と入れ替わりで平岡氏と共に宮さんの 自宅にお邪魔する。車いすが余裕を持って方向転換できる程に広い玄関で、車いす用のス ロープも付いていた。玄関を上がってすぐのところにはエレベーターがある。宮さんが普 段過ごすのは2階であった。階段をあがって正面にある6畳間に宮さんはいた。上を見上 げると、書棚に本がたくさん並ぶ。ご主人の立派な写真がある。ご主人は医師で、数年前 に脳幹出血で他界している。部屋の各所には登紀子さんやお孫さんの写真がたくさん置い てある。普段は隣室の居間のイスに座って過ごすことが多いというが、この日は治療の為 にベッドに移動していた。宮さんはベッドの端に腰掛け、ベッド脇の椅子の上に足を伸ば して乗せていた。ご挨拶すると満面の笑みで歓迎してくれた。平岡氏は私の紹介をした後、
ベッドの脇で鍼の準備を始める。筆者は宮さんと娘さんに今回の調査内容の簡単な説明を し、ベッドから少し離れた部屋の壁際に座った。少し耳が遠いせいか、大きい声で話さな いと聞こえない。平岡氏は治療開始前に宮さんに痛い場所の確認をする。そばに寄り、大 きな声で話す。腰の治療をする予定だが、ワンピースのため難しい、と話す。宮さんにワ ンピースを上げて治療部位を露出する旨を確認する。宮さんは大丈夫です、と頷く。楽な 姿勢について平岡氏が尋ねると、「仰向けが一瞬だけど一番楽なんです」と宮さんは答えた。
姿勢を見ると仰向けというよりは、背もたれをした長坐位の状態に近い。姿勢が落ち着い たと同時に宮さんは目を閉じた。平岡氏は鍼を準備する。その後平岡氏は脈診と舌診をし ながら初回の印象を尋ねる。
平岡:脈から見せてください。前回の後だるくなったりしました?
宮:しません。
平岡:腰が余計にだるくなったりとかもしません?
宮:しません。
平岡:今日角野先生とどんな話したんですか?
宮:私、忘れる方だから。
(二人で笑う)
平岡:変わりないですって?
宮:はい。
平岡:宮さん、舌見せてもらっていい?べろ。
宮:鍼というもの全然知識がないから。どういうものか。
平岡:鍼をみてみますか?鍼見ます宮さん?
宮:そうだねぇ。
平岡:いいですよ、触ってもらっても。ここ持って、ここ。
(鍼体持たせて、鍼先の部位を触らせる)。
宮:ああ。こんなに細いのねぇ。
平岡:これをね1mm とか 2mm、刺すか刺さないか位。
宮:ああそう、全然感覚無いんですよね。鍼刺してるなんてね。髪の毛くらいの細さ ですね。
平岡:そうですね、おんなじ位ですね。
右手の脈診をしながら前回の治療後の確認をする。今回で 2 回目の宮さんはまだ少し緊 張している様子なのだろう。平岡氏は宮さんの顔を見て丁寧に鍼の説明をする。平岡氏は 下肢のだるさの緩和のために前回よりも刺激量を上げる旨を宮さんに伝える。排便の状態 を確認すると少し便秘気味であるということ、浮腫みの状態については午後のほうが浮腫 みやすいとのことである。ひと通り会話が終わった後、上肢の鍼を始める。右前腕前面の あたりを数回触り、切皮、母指で弾く動作を数回繰り返し、直ぐに抜鍼。表情からはなん となく宮さんが緊張しているように見える。治療が始まると誰からともなく喋らなくなり、
聞こえるのはエアコンの音と鍼がシャーレに置かれる「カラン」という音、そして時々姿 勢を変える平岡氏の動く音だけになった。平岡氏は宮さんの足の方に移動し、タオルをめ くる。足部外側のあたりを数回撫でて押さえ、切皮、母指で弾く動作をした後、抜鍼する。
また、右足部を把握しながら浮腫の確認をする。見た目にも右側のほうが浮腫が強いよう だ。その後「ちょっとお腹ごめんなさいね」と、腹部の触診を始める平岡氏。その後「ち ょっとお通じを出したい」とのことで、少し深めの鍼をする。
平岡:痛いですか?大丈夫?
宮:ああ、これは痛いですね。
平岡:お通じをもうちょっと出したいので。大丈夫ですか?
宮:大丈夫です。
腹部に数カ所刺入鍼で単刺をする。そのうちの一箇所では、右手の刺し手では鍼を掴ん だまま、左手の押し手では鍼を支えたままにし、数十秒間鍼を振戦させる手技を行った。
鍼を抜き、右手の脈診を行う。治療を始めて 5 分ほどしたところで平岡氏は宮さんに姿勢 について尋ねる。そうすると宮さんは痛みがあるとのことで、左を下にして横向きになっ た。
平岡氏は右背中全体を手掌で圧迫し、筋の状態を確認する。さらに右殿部を数回圧迫し て筋の状態を確認した。その後、左内果、右外果周囲に単刺を行った。一旦鍼をシャーレ に置き、母指で殿部を圧迫する。一時退室していた登紀子さんがベッド脇に座った194。平 岡氏は立膝になり無言で施術を行う。腰部から殿部を圧迫する手技を続ける。ここで宮さ んが少し体を動かした。平岡氏が腰の痛みを確認すると、「痛い」と宮さんが答える。姿勢 を反対の横向きにすることになった。痛みが増悪しないようにゆっくり体位変換を行う。
すぐに平岡氏は痛む部位の確認をおこなう。平岡氏の触診ではピンポイントに見つけられ
194 登紀子さんは筆者のことを調べたようで、研究の内容について筆者にいくつかの質問をした。