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「無いと困る」鍼灸治療―戸坂彰さんの事例―

第六章 鍼灸治療の「場」と患者の語り

第二節 「無いと困る」鍼灸治療―戸坂彰さんの事例―

第一項 戸坂さんの在宅療養と鍼灸治療

戸坂彰さんは60代半ばの男性で、膵体部がん末期の患者であった。戸坂さんの在宅療養 期間は約1年におよび、ひろせクリニックの平均の在宅療養期間に比べ長いものであった。

戸坂さんは、医師からの鍼灸治療の勧めを当初は拒んでいたものの、数日悩んだ後に鍼灸 治療を受け始め、結果的に11ヶ月半の間、亡くなる10日前まで鍼灸治療を受け続けた。

筆者が戸坂さんの治療の場の参与観察を行ったのは、鍼灸治療が始まって 3 ヶ月目であり

(亡くなる7ヶ月前)、戸坂さんはベッド上で過ごすことが多かったものの、通所のリハビ リに通うなど、比較的ADLも保たれていた時期であった。戸坂さんにとって鍼灸治療は「動 けるようになるためのもの」であり、「無いと困るもの」であった。食べ物の話を嬉しそう に話し、満足そうに治療を受ける戸坂さんの治療空間は、どこか「前向き」なものであり、

同席する筆者が不思議と元気になるものであった。

戸坂さんは、2013年3月に起こした脳卒中のリハビリ入院時、スクリーニング検査でた またま膵臓病変が疑われ、6月に行われた諸精査の結果「膵体部がん」と診断された。当初 家族だけに病状説明がなされ、その際家族は戸坂さん本人に予後について伝えることを希 望しなかった。しかしその後戸坂さん本人と妻の詩子さんが医師と面談した際、戸坂さん は自ら担当医師に予後についての質問を投げかけた。医師からは「抗がん剤の効果が認め られれば余命は 1 年を越えられるかもしれない。ただし最初に使う抗がん剤164が有効でな いとわかった時には身辺整理することを勧める」と説明を受けた。幸い抗がん剤の効果が 見られ半年以上が経過した。しかし2014年3月頃から徐々に状態が低下し始め、4月に入 るとそれまで使用していた抗がん剤の効果が出なくなり、新たな抗がん剤に変更したもの の汎血球減少症になってしまったため抗がん剤治療自体延期となってしまった。戸坂さん は抗がん剤に希望を持ち続けており、予後が悪いこと自体を受け止めたくない様子であっ たという。一方で、状態の低下に伴い家族の介護負担が増し始めていた。戸坂さんは入院 を希望しなかったため、主治医が戸坂さんと詩子さんに発熱などに備える目的で訪問診療 を導入することを勧めたところ、受入れ良く訪問診療が開始された。戸坂さん本人はでき るだけ家で過ごしたいと思っていたようだ。

く問題なく活動できる。発病前と同じ日常生活が制限なく行える。、「1」が「肉体的に激しい活動は制限されるが、歩 行可能で、軽作業や座っての作業は行うことができる。」、「2」が「歩行可能で自分の身の回りのことは全て可能だが作 業はできない。日中の50%以上はベッド外で過ごす。」、「3」が「限られた自分の身の回りのことしかできない。」、「4」

が「全く動けない。自分の身の回りのことは全くできない。完全にベッドが椅子で過ごす」となっている。

164 以下本章においては、特別な場合を除き抗がん剤は具体的な薬名は示さず、「抗がん剤」と表記する。

ひろせクリニックによる戸坂さんの在宅療養は2014年の5月から始まった。戸坂さんは

Ⅱ型糖尿病も患っており、またがん発覚の3ヶ月前に脳梗塞を発症していた。その後遺症 で左半身の不全麻痺がありADLに若干の支障を来していた。在宅療養開始時の戸坂さんの PSは3程度で、日中はベッド上で過ごすことが多かった。腹部膨満、腹水貯留、両下肢浮 腫が認められたものの、夜間の咳嗽以外ADLを障害する顕著な自覚的症状は無かった。そ れもあってか、当初戸坂さんは自身の病状に対して前向きであったという。角野医師の介 入は、夜間の咳嗽、排便の調整および浮腫の改善を目的に始まった。角野医師の介入以外 に、週に2回は外部の訪問看護ステーションから看護師が訪問に来ており、その際に手足 の軽いリハビリを行い、それとは別に週に1回デイサービスに通っていた。戸坂さんは妻 の詩子さんと二人暮らしであったが、病気になってからはほぼ連日のように長女が孫を連 れて泊まりに来たり、長男も頻繁に帰省してくるようになっていた。

角野医師は初回訪問時から戸坂さんに腹水・浮腫の改善を目的とした鍼灸治療を勧めた。

その後2回あった外部の訪問看護師の記録には、「鍼灸に対して恐怖心があった」「鍼灸 は痛そうだからまだ気が進まない」と記されていた。「恐怖がある」「痛そう」という割に は、それが記録に残る時点で、戸坂さんが治療手段の一つとして鍼灸治療を気にしていた ことを想像させる。2度目の角野医師の訪問時、咳嗽も落ち着き状態が安定していた戸坂さ んは「鍼はやったことがないのでイメージがつかない。鍼は太い?痛くないのかな?先生 がどうしてもって勧めるなら1回だけやってみっかな」と角野医師に鍼灸治療を試みる意 志を示した。

その翌日から両下肢浮腫の緩和を目的として平岡氏の鍼灸治療が始まった。「鍼が怖い」

という戸坂さんに対し、平岡氏は皮下に刺さない接触鍼でも対応できることを説明し、戸 坂さんの同意を得てから施術を開始した。また、「浮腫に関しては局所的な施術よりも全身 のリンパの流れが大切であることなどから、セルフケアとして両肩の回旋運動やストレッ チなどが大切になる」ということを伝えて、治療のみならず日常生活指導も行った様子が カルテには記されている。翌日の看護カルテには、「昨日鍼灸を行い体が楽になったと話し ていた(足や腹部のむくみが引いたような感覚になり、足の上がりも良かった。)」と記載 されていた。鍼を開始した最初の5回程度は、「鍼灸はものすごく良いね!」など鍼灸に対 するポジティブなコメントがなされたことが、看護カルテや医師カルテには度々記載され ていた。その文面からは、戸坂さんにとっては他職種に伝えずにおれないほど鍼灸治療の

「効果」を実感したことが解る。戸坂さんにとっての「効果」とは「浮腫がとれること」

であり、「痛み」が緩和することであったようだ。初めて鍼灸治療を受けた戸坂さんにとっ ては、治療前の恐怖感と治療後に得られた「効果」のギャップがかなり強いものであった のだろう。事実、調査時のインタビューでも、その様子が語られている165。この後、筆者 が訪問するまでに週に1回の頻度で約3ヶ月間鍼灸治療が行われていた。その間、下腿部 の蜂窩織炎、尿路感染症およびそれに伴う熱発など、いくつかの症状が出現するもその都 度緩解し、また抗がん剤の効果が上がり、腫瘍マーカーが下がるなど、戸坂さんも詩子さ んも非常に前向きな様子になったようである。一方で両下肢浮腫は徐々に増悪傾向となり、

165 ただし、これ以後は他職種による鍼灸に関するカルテ上の記述は無くなる。状態の低下が少しずつ進行し当初程の鍼 灸の効果が得られなくなり始めたこと、また週替りで出現する発熱症状や尿路症状、皮膚症状、腹部症状などが徐々に 増えてきたために、本人も他職種もそれどころではなくなっていったのであろう。

また腹水の状態も悪化するなど、全体的には少しずつ状態の低下が起こり始めていた。平 岡氏は下肢浮腫に対する治療に排便調整を目的とした腹部への鍼灸治療も加え、少しずつ 治療時に刺激する箇所を増やして対応している。鍼灸治療が始まって 3 ヶ月経った頃、筆 者は戸坂さんのお宅に訪問した。

第二項 鍼灸治療の「場」

[1]治療現場①

まだ新しい家が目に入る。3台か4台止められるだろうか、駐車場が広い一戸建てのお宅 だ。大通りから少し細い道に入って数百mほど走った住宅街の中にそのお宅はあった。訪 問時は昼前の日差しが強い時間帯で、かなり外は暑い。玄関を入ると、「どうぞー」と詩子 さんの声が聞こえてくる。先に平岡氏が中に入ると、今度は戸坂さんであろう大きな声が 聞こえてくる。玄関を上がりすぐ右側にあるリビングダイニングに入ると、部屋の右手の 窓側に戸坂さんのベッドがあった。戸坂さんは、ベッドの上に少し前かがみの姿勢であぐ らをかいて座っていた。無精髭が頬から顎にかけて生えており、一見した感じ、少しくた びれている様子だった。平岡氏が筆者のことを紹介し、一言挨拶を交わす。部屋の左手に は座卓があり、たくさんの書類が山積みになっていた。座卓だけでなく部屋中に書類や書 籍が山積みにされている。また、よく見ると部屋の各所にお孫さんのおもちゃが置いてあ る。この日はお孫さん、娘さんも同じ部屋にいた。

平岡氏が戸坂さんの右側のベッドサイドにしゃがみ込む。戸坂さんは、1週間前に急性 腰痛166になった平岡氏を心配し「大丈夫か、先生」と声をかける。平岡氏は自身の腰痛の 話をしながら、まずは戸坂さんが座ったままの状態で脈診を行う。その後戸坂さんを仰向 けの姿勢にし、すぐさま平岡氏はタオルケットを剥いで下肢の状態を確認する167。特に下 腿の皮膚状態を確認する際には顔を近づけてしばらく凝視した後、触って確認する。「少し 浮腫が強い」と伝える平岡氏に対して、戸坂さんは「うん」と応える。左手の脈診を数秒 間行う。続いて右手の脈診も行う。次に戸坂さんの体温を測る。戸坂さんは蜂窩織炎や尿 路感染症や感冒の引きやすさなど、これまでにも熱発を繰り返すことが多く、こまめに体 温チェックをすることが重要となっている。筆者が訪れた午前の時間帯は平熱になること がほとんどで、この日も発熱はしていなかった。詩子さんに発熱の状態を確認しながら、

平岡氏は腹診を始めた。手のひらを腹部に軽くのせ、全体を触った後に下腹部を四指で軽 く押し込むようする。同時に「舌を出して下さい」と舌診を数秒間行う。平岡氏は排尿や 排便に関する話を詩子さんとしながら、戸坂さんの右上肢のマッサージを始める。片方の 手で戸坂さんの前腕部を掴み内外に回旋させながら、もう片方の母指で戸坂さんの前腕部 外側あたりを押圧する。一度戸坂さんの手指および指の間を揉んだ後、前胸部あたりを母 指で圧迫する。そして戸坂さんの右肩周囲全体を掴みゆっくりまわすように揉む。右上肢 のマッサージが終わった後、戸坂さんに右側を下にする横向きになってもらい、右上肢に 行った手順で左上肢にも同様の手技を行う。戸坂さんは目を閉じた状態で施術を受けてい る。一通りの手技が終わった後、平岡氏は左手の脈診を数秒間行う。

166 平岡氏は1週間前に急性腰痛(いわゆるぎっくり腰)になり、戸坂さんのお宅に訪問できなかった。

167 浮腫の状態確認だけでなく、蜂窩織炎の有無を確認している。これまでに戸坂さんは蜂窩織炎を繰り返してその都度 熱発していたため、早めの対応をできるように小さな炎症所見も見逃さないよう、平岡氏は細かな観察を行っていた。