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細やかな対応をする鍼灸師への思い―山岡みすずさんの事例―

第六章 鍼灸治療の「場」と患者の語り

第六節 細やかな対応をする鍼灸師への思い―山岡みすずさんの事例―

第一項 山岡さんの在宅療養と鍼灸治療

山岡さんは70代後半の乳がん末期の女性である。山岡さんは6ヶ月半の在宅療養の中で、

ほぼ最初から最後まで継続的に鍼灸治療を受けていた。筆者が山岡さんの治療現場に訪れ たのは、亡くなる 3 ヶ月半前の一度だけであったが、平岡氏が浮腫への対応の為、姿勢に ついて細かなアドバイスをした際にとても喜んでいたことが印象的だった。インタビュー においても、平岡氏の対応の細やかさが嬉しいと語っていた。治療そのものは然ることな がら、医療者の細かな気配りの必要性と、的確に患者のニーズを把握することの重要性を 考えさせられる事例であった。

182 こうした平岡氏の工夫も、第四章第三節で触れた「戦術」の一種と解釈できる。

山岡さんは、左乳がんのため2011年7月に左乳房全摘術施行した。しかしその後、2013 年2月に肝転移が、2014年1月には骨転移があることが判明した。化学療法は山岡さん本 人が拒否し、ホルモン療法のみ治療継続した。また、下垂体腫瘍のため下垂体機能低下が あり、ステロイドを内服していたがその影響か体調不良を訴え、1〜2 週間の入退院を繰り 返していた。しかし肝転移も進行し、全身状態としては緩和ケアを考える段階にあったこ とから、2014年の5月から在宅療養開始となった。初診時の山岡さんのPSは2〜3程度で あった。骨転移の影響もあってか、長く座っていたり、立っていたり、歩くと左腰部から 殿部にかけての痛みが出現していた。その為家事ができず、ご主人の浩史さんが家事全般 を行っていた。山岡さんは浩史さんと二人暮らしであった。浩史さんも慢性疾患を患って おり、全身状態が良好ではなかったが、山岡さんの状態もあるため懸命に家事をこなし、

山岡さんのケアを献身的に行っていた。市内に娘さん夫婦が住んでおり、1〜2 週間に一度 程度の頻度で様子を見に来てくれていた。山岡さんは腰痛以外にも、下肢浮腫および便秘 症状を伴っていたため、ひろせクリニックからは医師や看護職の介入に加え、初期から鍼 灸治療を導入することとなった。

在宅療養開始から 4 日目に初めての鍼灸治療を行った。主目的は腰痛の緩和と便通の改 善であった。山岡さんは鍼灸治療を受けるのが初めてで、初回は大分緊張していたようだ った。平岡氏の初診カルテによると、排便の内容が中心に書かれており、治療後の排便の 状況によって鍼灸治療の継続や回数について検討する旨が記載されていた。その後山岡さ ん本人から鍼灸治療継続の申し出があり、週に2回の頻度で治療を継続することになった。

最初の数回は緊張して「鍼にはまだ慣れていない」ということであったが、看護記録には

「鍼灸を昨日しているが体が軽くなったと感じる」という記載も見られ、導入当初は山岡 さんにとって鍼灸治療がポジティブなものとして受け入れられている様子であった。薬剤 との併用もあり便通については若干の症状緩和が見られていた。6月に入り、今度は下肢浮 腫が急性増悪したとのことで、その時期からは浮腫への対応を中心とした治療になる。ま た、排便困難が再び増悪したために併せて治療を行った。3〜4日間隔で1ヶ月間ほど連続 して治療すると浮腫の軽減が得られたため、山岡さん本人から一旦治療中止の申し出があ った183。ところが治療終了予定であったその日に、数日前から自覚していた両足のシビレ 症状に対し施術を加えた所、改善が認められたところから、再度治療を継続することにな った。さらにその数週後から一旦緩和した浮腫が再度増悪し始め、排便も滞りがちになっ てしまったため、週に1回の定期的な鍼灸治療はそれまで同様に継続となった。鍼灸治療 を始めて3ヶ月目のタイミングで、筆者は山岡さんのご自宅を訪れた。

第二項 鍼灸治療の「場」

[1]治療現場

山岡さんの自宅は、海沿いの工場地帯に向かう国道が目の前にある美容室の隣にあった。

美容室の裏手にある駐車場に車を止め、玄関に向かう。玄関は、いわゆる典型的な日本家

183 この時のことを振り返り、平岡氏は「ある時は継続したいと言ったり、状況が良くなり始めているその時に限って治 療を止めたいと言ったり、正直山岡さんの思いがよくわからなかったですね」と語っていた。山岡さんからすれば、急 性増悪した浮腫が改善したため、治療が必要なくなったと判断したのかもしれない。末期から終末期にかけて鍼灸を導 入すると基本的には継続的に治療を行い続けるという平岡氏の「従来のパターン」とのズレが当時の平岡氏の違和感を 生じさせているのかもしれない。

屋の玄関で、有に畳 2 畳分位あるほど土間が広く、その玄関の幅の広さのまま廊下がまっ すぐ奥へと続いていた。廊下の先にはリビングがあり、廊下との間仕切りの扉をしめてい ないため、玄関からリビングまでが一気に見通せた。平岡氏とともに、玄関を上がり廊下 を進んでいくと、ちょうどお手洗いを終えた山岡さんが浩史さんの支えを得ながらベッド に向かうところであった。山岡さんは、笑顔で筆者を迎え入れてくれた。カルテと平岡氏 の話の通り、全身の浮腫で体が辛い様子は一見して明らかであった。薬物治療の影響もあ り顔面部の浮腫が強く、また下肢浮腫の強さのためか足取りもゆっくりでかなり慎重であ る。リビングの東側の明るい窓の下に山岡さんの休むマットレスが敷かれていた。部屋の 中央にダイニングテーブルがあり、北面の西側にキッチンがあった。山岡さんをベッドに 寝かせると、浩史さんはダイニングテーブルに腰掛けて、何やら作業を始めた。

平岡氏は早速山岡さんのベッドサイドにしゃがみ込み、下腿部の毛布をめくって下腿の 浮腫の状態を確認する。平岡氏と山岡さんのやり取りは、浮腫、便通についてのやり取り から始まった。浮腫の状態は変わらないこと、便通は自力で排便できすっきりしたことが 山岡さんから語られた。その後、食欲や睡眠の状態が問題ないことを確認し、数秒間両手 の脈診を行う。同時に舌診も行う。そこで山岡さんの上肢の浮腫についてのやり取りがな された。

平岡:左手のほうがちょっと浮腫み強いですね。

山岡:そうなの、ひどいの。どんどん張って、夜寝る時こっちのほうが腫れているか ら、こうちょっと腰の下にこうしてやると。

平岡:あ!

山岡:だめ?

平岡:だめ。逆のほうが、ここ(肘の下を指して)にね、座布団。これを(肘の)下 に敷いて。

山岡:あ、そう表に出した方がいいの?

平岡:(腋窩の部分を指しながら)ここに、リンパ節があって、ここに水が集まってく るから、こういうふう(肘を伸ばす)じゃなくて、こういう、ちょっと肘は曲げ て。こういうふう(リンパの流れを指で示しながら)にここ(鎖骨部を指差しな がら)に血管があるんだけど、下半身の浮腫みもそうだけど、水が全部ここに集 まってくるの。ここに集まってくるイメージで。だからこう、特に左肩なんかを 回しててくださいっていうのは、水の流れを良くするため。こういう姿勢のほう が戻りやすい。

山岡:はいはい。そいでこの腕は夜は出して寝ていいの?

平岡:出してと言うか、上にね。出すっていうのは?

山岡:お布団かけないで、何もかけないで?

平岡:それはどちらでも。暑かったり寒かったりで。

山岡:ああ、そう。ああそうなんだ。

平岡:下に敷くと、血流を遮断しちゃうから。

山岡:ああ、だめね、そうやってたの。

平岡:いかに全身を流して、そしてやっぱり最終的にはおしっことして出す、まずそ

の第一段階で肩のところに全身から水が戻ってきて、心臓に戻ってきて、心臓か ら腎臓、腎臓からおしっこが作られて水が出て行くっていう、こういうイメージ を作ってもらえば、はい。

山岡:逆のことやってたのね。

平岡:聞かなければたぶんね。右手も少しむくんでるんだったら、こっちもこう座布 団一二枚ここに、(肘の下に座布団を敷いて)こういう感じ。

山岡:ここにね。

平岡:こんな感じ。

山岡:こっち(右)はね、こっち(左)に比べれば大したことないんだけど、こっち

(左)がひどいの。

平岡:それはおそらく、右はちなみに、このへん(右上半身を示しながら)だけで独 立してるんです。右はこんだけしか水関係しないんです。左は、あとお腹かから 下全部ここに集まるから、なんだろ、こっちのほうが負担がかかるって言ったら 変な言い方かもしれないけど、逆にこっちの方がこの辺に流れ悪いと、あと足と か手の浮腫みもね。右はここら辺の問題だけなので。

山岡:聞いといてよかった。

平岡:いえいえ。

平岡氏は、冒頭の「だめ」というはっきりした否定の表現に続き、それを丁寧に補うよ うにリンパの流れについて解剖学的にわかりやすく説明し、山岡さんに正しい肢位をとっ てもらう理由を説明する。山岡さんは平岡氏の説明を受けている時には、納得したような 表情で何度も頷きながら話を聞いていた。後のインタビューでも、こうした指導をしても らえること自体がすごくありがたいと山岡さんは語っていた。

まず平岡氏は数分間かけて右上肢のマッサージを行った。右上肢のマッサージを終えた 平岡氏は、左上肢の浮腫の確認をする。平岡氏は山岡さんのベッドの頭上にまわり、頭上 から左肩のマッサージを始める。上肢を掴んで山岡さんの肩を屈曲させ、前腕部を手掌全 体で把握してマッサージをする。さらに挙上の肢位を高くし、肩関節周りをマッサージす る。上腕を軽擦して肩関節の方に擦り下ろしていく。左上肢をベッドに戻し、平岡氏は山 岡さんの右側に移動した後、再度右手の脈診をする。

次に平岡氏は山岡さんの腹部を手掌で軽く触診する。両手の手掌で挟むようにして、腹 部全体を触診する。シャーレから鍼を取り出し、腹部に切皮し置鍼する。ここで平岡氏は 浩史さんに「お父さん換気扇回させてもらいますね」とひと声かけ、灸の準備を始める184

「山岡さんお腹に灸しますね。熱くなったら言ってください。」と声をかけながら、もぐさ を取り出し小豆大の知熱灸を作る。平岡氏は山岡さんの上腹部を数回触診し、そこに点火 した艾を置く。「熱いです」という山岡さんの声と同時に、直ぐに平岡氏は灸を取り外し、

専用の瓶の中に入れる。「じゅっ」という音が響く。「お腹あと一回灸します」と言いなが ら2壮目を同箇所に置く。腹部から煙が立ち上る。

184 ある日娘さんが灸をしていた時に訪ねてきて、「何?!この臭い?やめてよ、もう!」とご主人に直接、また同席し ていた平岡氏に間接的に訴えてきたことがあった。以来、平岡氏は灸を行う際に必ず換気扇を回すことにしている。娘 さんの発言には鍼灸治療への思いが凝縮されている。娘さんは鍼灸治療を行うことには抵抗感があったのである。