肥料の国際市況は、以前から需給バランスの頻繁な変動によってきわめて不安定な動き を示してきたが、とくに、1986年当時は、市況のどん底にあり、尿素肥料の場合、約一年 前のトン当たり140ドル(東欧、FOB)の水準から75ドルまで低下していた。肥料価格とプロ ジェクトの収益性の関連に関するIFCの見解をまとめると表−2のようになる。
1986年に入ってから、NFCの事業が困難に直面しているという報道が続き41)、4月には推 進派と反対派の間のブレイン・ストーミングが行われたりしたが42)、ソンマイ蔵相とカセ ム会長は、関係者に精力的に働きかけながら実施スキームの作成に努めていた。ところが、
5月になると局面が急展開した。まず、 5月1日にプレーム政権の連立与党のうち最大の勢
力を持つ社会行動党に内紛が発生し、反主流派が野党と組んで政府提出の議案を否決する というハプニングが生じた。首相は直ちに国会を解散し、
7月末に総選挙を行うこととな
ったが、この結果、プレーム政権の性格は、当面の間、選挙管理内閣となり、これによっ てNFCについても事態解決の推進力が失われるとの観測が高まった。このような空気を反 映するように、IFCTが円借款受け入れを返上する意向との報道がなされた43)。他方、IFC理事会はNFCプロジェクトへの出資と融資を承認し44)、すでに引退の決意を固 めていたと思われるソンマイ蔵相が、 剛腕 ぶりを発揮する形で、商業銀行8行の首脳と のトップ会談の結果、NFCに対する保証を取り付け45)、IFCTの円借款受け入れを受諾させ た上で、7月に訪日し、国際協力銀行との間での借款契約調印にこぎつけてしまった。
しかしながら、第5次プレーム内閣成立(1986年8月)後もNFCに対する批判が終息する気 配は見られず、10月15日には、東部臨海開発委員会が、チラユ工業相の反対を押さえ込む 形で、「NFCは民間企業であり、したがって肥料工場の実施に関わる意思決定は、政府の 手にはなく、NFC自身にゆだねられるべきものである。」との結論を下した。現地英字紙の 表現によれば、タイ政府は「NFCから手を(日本流にいえば 足 を)洗った」のである46)。 政府の姿勢が消極的な方向に転換した一つの重要な要因は、ソンマイ蔵相が引退し、ステ ィー副蔵相(1985年末の三閣僚委員会のメンバー)が後任となった(一連の人事でマナット財 政政策局長も異動)ことによる大蔵省の姿勢の変化であった47)。この決定に続いてカセム会 長も退任し48)、NFCの推進力はほぼ完全に失われた。
その後も、日タイ両政府間でNFCの実現に向けた協議が続けられたが49)、困難な問題が 多いため解決を見ないまま時間が経過し、結局、NFC肥料工場は実現しないままに終わっ た50)。
41 Bangkok Post,January 13,1986, Nation,February 17,1986, Far Eastern Economic Review,February 20,1986など
42 The Nation,April 10,1986
推進論の発言者の中心はチラユ工業相(Chirayu Isarangkun Na Ayuthaya、王族の経済者で、のち王室財産 管理局長)、批判的な発言の代表はウィラポン首相経済顧問((Virabongsa Ramangkura、のち蔵相、通貨危機 直後の短期間、副首相)であった。
43 Bangkok Post, May 2, 1986
44 The Nation, June 28, 1986
45 The Nation, June 17, 1986
46 The Nation, October 16,1986
47 マナット元局長とのインタビュー(1998年11月10日)
48 The Nation, October 15,1986
49 Bangkok Post, October 17,1986, The Nation,November 25,1986
50 その後、全く別な企業体が、同じ会社名(NFC)を持つ肥料メーカーを設立し、同じプラント・サイトで 肥料生産を行っている(商業生産開始:1998年2月)。ただ、本格生産に移行した時はタイ経済が金融危機の ダメージを受けていたので、現時点では業績は思わしくない。(1998年11月2日のNFC社長とのインタビュー および11月5日の工場見学)
Ⅴ. 推進派と批判派の分布
これまで、東部臨海開発計画をめぐる論議のレビューにおいて、やや漠然と「推進派」
と「批判派」
(
あるいは「反対派」)という言葉を使ってきた。具体的には、どのような人々
がどのような立場を取ったのだろうか。東部臨海開発計画をめぐる意見の対立は、基本的にテクノクラートの問題であったとい える。政治家や軍人(当時のタイにおける最も強力なグループ)の発言がなかったわけでは ないが、この問題に関する限り、彼らの関与ぶりは控えめであったし、強い利害関係の存 在を示唆するような発言も少なかった。この計画の推進や反対のために動いた人々の大半 が官僚(政府機関の関係者を含む)か民間エコノミスト(金融マンを含む)であった。これらの 人々の意見は、必ずしも所属する組織によって色分けされるわけではなく、属人的な性格 も重要であった。テクノクラート体制の中核に位置していた大蔵省とNESDBの内部で意見 の対立があったのが典型である。
東部臨海をめぐって対立した二つの立場を分ける座標軸は単一ではなく、複数の座標軸 が相互に関連していたことに留意する必要がある。恐らく最も基本的な座標軸は、難しい 経済状況の下で、「どれだけ財政支出を引き締め、どれだけ対外借入を抑制するべきか」に ついての立場の相違であったろう。いいかえれば、「マクロ経済均衡を優先するか、長期的 な国づくりを重視するか」という優先度の問題である。タイは、シャム王国の時代から、
途上国としては極めて例外的な保守的(あるいは消極的)財政金融政策を堅持してきた国で あって51)、伝統的に、テクノクラートの間に、成長や産業育成よりも通貨価値や物価の安 定(いいかえればマクロ経済均衡の維持)を重視する姿勢が強かった。その伝統に世界銀行 の構造調整融資の政策パッケージの経験が加わって、1980年代前半からの経済的停滞の中 で、緊縮財政への回帰が重要な流れとなっていたが、それを経済発展の長期ビジョンとど のように調和させるのかが争点となったわけである。
次の座標軸は上記の点に関連している。それは、「長期的な国づくりの方策としての 大 型開発事業 をどう評価するか」という点である。タイ経済は1950年代後半から持続的な 発展を達成してきたが、その歴史は国土開発のグランド・デザインとか大型の工業コンビ ナート建設には無縁であった。その意味で、東部臨海開発計画はタイにとって非常にユニ ークな試みだったわけであり、それだけに意見の相違も大きかったのであろう。当時も今 も、東部臨海についての論争を「エコノミストとエンジニアの対立」としてとらえる見方 があるが52)、このような視点は、正統テクノクラートとして君臨してきたエコノミストた ちにとって、東部臨海のような大型の地域開発計画というコンセプトが持っていた違和感 を反映しているといえよう。
さらに、以上の二点に比べるとややマイナーではあるが、見逃せない要因として、当時 の世界銀行が直面していた微妙な立場に留意する必要がある。
1950年代後半に、サリット
首相(Sarit Thanarat,
在位1958-63)
の下でタイが近代経済成長を開始して以来、世界銀行は資 金供給者として、また政策アドバイザーとして重要な影響力を持ってきた。1980年代初め には、二度にわたる構造調整融資によって、その地位はさらに確固としたものになったが、51 hristensen S., D. Dollar, Ammar S., Pakorn V.(1993), The lessons of East Asia Thailand The Institutional and Political Underpinnings of Growth, Washington D.C., The World Bank, p.22 池本幸生(1994), ラーマ四世期の
「消極的」経済政策 、「東南アジア研究」、第31巻4号 p.319-322
52 たとえば、1998年11月3日のインタビューにおける、ブンヤラーク元NESDB総合計画局長(Bunyaraks Ninsananda、現在バンコク銀行執行副社長)の発言
その後は、ハードな融資条件(IBRD条件)が制約となって、タイの対外借入に占める比重は 急速に低下しつつあった(1982年7億ドル、1984年1.2億ドル)。表−4は、第5次5カ年計画か ら第6次5カ年計画にかけて、タイにおけるトップ・ドナーの地位が世界銀行から日本に移 行したことを示している。第5次5カ年計画から第6次5カ年計画にかけて、世界銀行の比重 は半減し、日本のODAの比重は倍増したのである。1985年にタイ政府は対外借入限度枠を