(表−4)タイの対外借入の構成
Ⅵ. タイ政府の選択に関する評価
東部臨海開発計画は、日タイの双方で全体として高い評価をえているといえよう。今回 の総合評価における各事業の評価結果も、また、その過程で行われたタイの有識者のイン タビューの結果も、それを裏書きするものとなっている。本稿では、視点を変えて、当時 のタイ側の主体性と制度能力を検証するために、1985年11月以降の東部臨海開発計画の変 遷の中でタイ政府が行った、三つの重要な意思決定の妥当性を検討する。三つの意思決定 は以下の通りである。
i)
世界銀行の提案(当面はレムチャバン、マプタプットの両港を建設せず、既存のバンコク、サタヒップ両港の能力増強で対応する)を採用せず、当初計画のスコープを維持して、レ ムチャバン、マプタプットとも建設することとした選択。
ii)
しかしながら、結果的に両港の着工を大幅に遅らせた選択iii) NFC肥料工場について、
「民間部門の自主的な判断にゆだねる」方針を採用して、事業の実質的な凍結、廃止に道をひらいた選択
東部臨海開発計画を分析する際に注意を要するのは、プラザ合意の帰結としての直接投 資の急増が、事業効果を強力に押し上げた点である。1980年代後半からのタイの経済発展
56 1998年11月3日のブンヤラーク元NESDB総合計画局長の発言
57 1998年11月4日のパイサン元ファー・イースタン・エコノミック・レビュー誌記者(Paisal Sricharatchanya、 のちバンコク・ポスト編集長、現在、「チャンネル7」のアンカーマン)とのインタビュー
の加速を、直接投資の急増の結果として説明する(後述のように、ややミスリーディングな) 論議があるように、東部臨海開発計画の成果も、たまたま直接投資の波が高まった結果で あるという主張も予想されうる。そこで、本稿では、プラザ合意による円高がなかったと いう仮定のケースについても、併せて検討したい。
1. 世銀提案 vs
タイ政府の選択まず、港湾建設に関するタイ政府の判断と決定を評価する目的で、世界銀行の提案とタ イ政府の選択という二つの選択肢を比較してみたい。
(1) レムチャバン港
1987年に、タイ経済は9.5パーセントの成長率を記録して本格的回復をアッピールし、さ らに翌1988年には成長が加速して13.3パーセントという高い率になったが、経済活性化は、
バンコク首都圏のインフラ面のボトルネックを一段と深刻化させ、投資家は不満と懸念の 声をさらに強めた。
1988年7月のジェトロ・バンコク事務所の報告によれば、クロントイ
(バンコク)港の能力
不足と混雑に対する批判が強まり、6月中旬にプレーム首相みずから現場を視察して、早 急のクレーン増強、コンテナヤード建設などを指示するとともに、レムチャバンにも足を のばして事業の進捗ぶりを確認したという。これに先立ち、閣議で「投資の増加、経済の 拡大に対処すべく、インフラ整備、人材養成等を検討する」よう、関係各省に緊急指示が 出され、NESDBも、ピシット副長官のイニシアティブの下に、急遽「インフラ投資の リ アセス 」作業に入った58)。クロントイ港の取扱貨物量の70パーセントを占めるコンテナ貨物は、1986年から年率20 パーセントを超えるペースで急増し、1988年のコンテナ取扱量が79万TEU59)に達して、同 港の能力(72万TEU)を超えてしまった。また、1988年4月のバース占有率、待船率は、それ それ80パーセントと60パーセントを超えた状態であったが(表−5)、これは、通常の許容レ ベルとされる64パーセントと12パーセントをはるかに上回る水準で、クロントイ港の逼迫 した状況を示している60)。
「レムチャバン港を建設する代わりに、バンコク港にコンテナ処理施設の増強などマイ ナーな投資をすれば十分」61)という世界銀行の提案は、現実の進展によって棄却されたので ある。
58 「通商弘報」1988年7月23日
59 TEU(twenty-foot equivalent units、20フッター換算単位)とは、国際標準化機構(ISO)の20フッター・コンテ ナを1、40フッター・コンテナを2として計算するコンテナ取扱量の単位
60 下村恭民、角川浩二、高橋良晴、小田島健(1990)「タイ・マクロ経済調査報告書 −海外からの直接投 資の急増はどのような変化を引き起こしたか」、海外経済協力基金、p.35-36
61 World Bank(1986), op cit p.137
(表−5)クロントイ港東岸壁におけるバース占有率および待船率
1987年 1988年11月 12月 1月 2月 3月 4月 バース占有率(%) 72 62 79 74 76 81 待船率(%) 13 11 27 22 45 64 待船平均待ち時間(時間) 9 6 11 12 20 25
出所:下村恭民、角川浩二、高橋良晴、小田島健(1990)「タイ・マクロ経済調査報告書 −海外からの直 接投資の急増はどのような変化を引き起こしたか」、海外経済協力基金、p.36
円高による投資ブームや経済回復がなければ、このような厳しい状況は回避できただろ うか。少なくとも二つの理由から、クロントイ港を中心とする海上輸送体系からの脱却は 不可避であったと判断される。第一は、クロントイ港の構造的な問題点である。クロント イは、シャム湾に流れ込むチャオプラヤ河に沿った河川港で、水路が曲がりくねっている 上に上流から流れ込む土砂で水深が浅くなっており、寄港する船舶の規模が1万2千DWT、 コンテナ量で650TEUまでに制限されたため、世界的なコンテナ化の流れから取り残されて いた62)。第二に、その一方で、コンテナ輸送量は増加を続け、増加率は
1980年代前半の年
率16パーセントから1985年には(前述のような経済停滞にもかかわらず)17.4パーセントに上 昇していた。バンコク船主協会は、年率12パーセントという控えめな増加率でも1988年に はクロントイのコンテナ取扱能力は限界に達すると予想していたが63)、この予測が、経済 見通しが最も悲観的だった1985年のものであることに留意する必要がある。プラザ合意や直接投資の影響を除いて考えても、代替港レムチャバンの建設は急務だっ たことが明らかで、タイ政府の選択は適切であったと判断される。
(2) マプタプット港
タイ政府と世界銀行の基本的な見解の相違は「サタヒップ港でマプタプット港を(少なく とも数年)代替できるか」という点にあったが、サタヒップ港の活用は、幾つかの技術的な 問題点から制約されていた。まず、港と工業団地が
25キロ離れてしまい、臨海工業基地と
してのメリットが減少するという基本的な問題があったが、その他に、軍港という性格か ら、出入りのチェックが厳しかったことに加えて後背地が限られており、幹線道路からの 数キロの取り付け道路が片側一車線で、その両側を海軍の保有地に囲まれていて、交通量 が増えた場合の対応の余地が乏しかった。緊急の場合の例外的な使用はともかく、サタヒ ップ港を商業港として恒常的に使用する案は現実的とはいえない。これは、現地を知る人々 の共通の認識であった64)。世界銀行の提案の背景には、「マプタプットはNFC肥料工場のための港湾」という認識が あり(IV章2参照)、スノーNESDB長官の発言にうかがえるように、タイのテクノクラート の一部にも、この前提が共有されていたが(IV章4参照)、
1986年当時でも、 NFCの他に、 NPC、
62下村、角川、高橋、小田島(1990)前掲文献 p.36
63Paisal S.(1986c), "At last beginning, Bangkok finally commits to ESP projects", Far Eastern Economic Review, October 30, 1986
64Paisal S.(1986), op cit p.44 および1998年11月4日に行われたインタビューでのパイサン元ファー・イース タン・エコノミック・レビュー誌記者の発言
ダウンストリームの低密度ポリエチレン・プラント
(TPE,Thai Petrochemical Industry
、建設 済み)、高密度ポリエチレン・プラント、ポリプロピレン・プラントなどが予定されており65)、「NFC以外のプラントはサタヒップ港を利用する」案は妥当性を欠くといわざるをえない。
現実には、タイ経済の成長加速と直接投資の急増によって、マプタプット工業団地の工 業用地5030ライ(約800ha、1ライ=0.16ha)のすべてが契約済みとなっており、操業中の企業 も、1991年の14社から1993年24社、1995年34社、1998年48社と順調に増加している66)。大 半が石油化学プラントで、若干の鉄鋼製品工場が含まれている。さらに、隣接する民間工 業団地の入居状況も順調で、たとえば、ヘマラート土地開発