2 ドナーへのインプリケーション 3 今後の課題
4. その後の展開
その後の東部臨海開発計画をめぐる動きは、基本的に1985年12月24日のタイ政府の決定 の枠の中で進んだといえる。以下に、レムチャバン港・工業団地、マプタプット港・工業 団地、NFC肥料工場という三つの主要な構成要素について、その後の推移をレビューした い。
(1) レムチャバン港・工業団地
東部臨海開発計画の実施が実質的に凍結状態に陥っていた1986年9月に、大来佐武郎元 外相を団長とする日本政府ミッションがタイを訪問した。その際、スノーNESDB長官は、
「レムチャバン港と工業団地は、輸出志向型の中小企業関連であり特に問題がないし、日 本など為替が切り上がった国々からの直接投資の受け皿としてもニーズが大きい」と述べ て、近日中に実施が解禁になるとの見通しを示した28)。これは、東部臨海開発計画をめぐ る環境が好転しはじめたことを物語るもので、スノーの予測どおり、1986年10月15日の東 部臨海開発委員会は、レムチャバン港の事業実施にゴーサインをだした29)。これによって、
レムチャバン地区の事業群は最終的に実施の軌道にのり、これ以降、大きな障害はなくな ったのである。
タイ側の変化をうながした最大の要因は、プラザ合意の円高効果が顕在化するとともに 増加しはじめた日本からの直接投資である。ただ、現地で円高による直接投資の波の高ま りが認識されるまでには、ある程度の時間が必要であった。1986年4月のジェトロ・バン コク事務所の報告は、1986年は依然としてタイ経済の景気低迷が続くと予想しており、直 接投資の急増する予兆には触れていない30)。
変化が現れたのは1986年の後半になってから、つまりプラザ合意から一年ほど後のこと である31)。1986年10月に、タイ投資委員会(BOI)は、「7月に日本からの大型投資案件の申 請があり、その結果、1986年1−7月の日本からの投資申請額が対前年同期比で47パーセン トの急増となった」と発表した。9月にバンコク日本人商工会議所が行った日系企業に対 する景気動向調査の結果でも、「新規投資を考慮中」と答えた企業が57パーセントとなり、
2月の調査時点の48パーセントから上昇した
32)。このころから、タイ経済は明らかに上向きに転じはじめ、テクノクラートの関心も直接投資受け入れのためのインフラ不足の懸念へ と向くようになったのである。
(2) マプタプット港・工業団地
レムチャバンの場合と異なり、マプタプットをめぐる環境はなかなか変化しなかった。
前述の大来ミッション来訪時に、スノーは、「NFC肥料工場以外のプロジェクトは、マプタ プット港がなくとも支障なしに運営できるので、マプタプット港の建設が必要かどうかは
NFC肥料工場が実現するかどうかによる」との見解を述べている
33)。つまり、この地区での重化学工業の発展可能性をほとんど考慮せず、マプタプット港はNFC肥料工場のための
28 The Nation,September 19,1986
29 The Nation,October 16,1986
30 「通商弘報」1986年4月19日
31 「通商弘報」1989年2月7日
32 「通商弘報」1986年10月28日
33 The Nation, September 19,1986
港湾であるという、きわめて狭いスコープで位置づけたわけである。マプタプット港をこ のような狭い形でとらえるテクノクラート(の一部の)姿勢は、当時の世界銀行にも共通し たものであった34)。このような見方がマプタプット地区の事業実施にとって大きな障害に なっていたわけである。
1987年2月になって、東部臨海開発委員会はマプタプット工業団地の建設に関する国際
競争入札の実施を、実施機関であるタイ工業団地公社(IEAT, the Industrial Estate Authority of
Thailand)に指示することを決定した
35)。この方針変更の背景について、当時、計画推進の中核的役割を担っていたサウィット東部臨海事務局長
(Savit Phothivihok,
現在、首相府大臣) は、現地英字紙のインタビューに答えて、マプタプット工業団地に立地するNPC(NationalPetrochemical Company)
36)の工場建設が軌道に乗ったことが好材料となったと述べている37)。 こうして、工業団地に入居する大型プロジェクトが軌道にのり、タイに対する直接投資の 増加が進んだことは、マプタプット港に関する論議の流れを徐々に変える方向に働きはじ めた。1987年8月にサウィットは、国際協力銀行に対して、「7月27日の東部臨海開発委員会 で、従来のNFC肥料工場の問題の解決までマプタプット港の取り扱いを保留する
方針 から踏み出して、マプタプット港とNFCを切り離して検討することとなった」と伝えたが、これはタイ政府の方針転換への重要な一歩になった。
1988年1月に、タイ政府は、マプタプット港の事業実施の凍結を正式に解除し、1年後の 1989年1月に工事が着工された。三閣僚委員会による見直しから、すでに3年以上が経過し
ていた。(3) NFC肥料工場
この事業が東部臨海開発計画の中で最も困難な部分となった背景は複雑であるが、それ らを整理すると二つの主要な要因が浮かび上がる。第一は、NFCについてタイの民間部門 が好意的でなく、事業の運営に不可欠な協力が十分にえられなかったことであるが、その 背景には、後述のように、タイ最大の企業グループの一つであるバンコク銀行(Bangkok
Bank)グループの持つ既得権益が関連していたとされる。第二は、事業の収益性に関する不
確定性が大きかったことであるが、とくに、プラザ合意以降の円高が、コスト増につなが って収益性に大きな負担となったことが見逃せない。円高は直接投資の急増とタイ経済の 活性化を通じてレムチャバンやマプタプット地区での凍結解除に大きく貢献したが、NFC
については逆に、深刻なマイナスの影響を与えたのである。a) まず、NFCと民間部門の関わりについてレビューしたい。1984年7月にNFC肥料工場に
関する円借款の交換公文(E/N)が調印された時に、タイ政府は、NFCを官民合弁(政府のシ ェア−46パーセント、民間のシェア−54パーセント)の民間企業から政府が70パーセント以 上のシェアーを持つ国営企業に変更する予定であった。しかし、交換公文の調印直前に明 らかになった国際入札の結果が、コンサルタントであるフォスター・ウィーラー社の作成34 World Bank(1986), op cit p.137
35The Nation, February 27, 1987
36 ガス分離プラントで生産されるエタンとプロパンを利用して、エチレン(年間31.5万トン)とプロピレン (年間10.5万トン)を生産。タイ石油公社(PAT, the Petroleum Authority of Thailand)が49パーセント、王室財産 管理局(the Crown Property Bureau) が2パーセント、世界銀行グループの国際金融公社(IFC)が9パーセント の株式を所有。
37 The Nation, February 27, 1987
した見積価格の半分程度であったことから、「収益性が高く国営企業にふさわしくない」と の批判がだされ、民営化政策に沿って民間企業のままとすることが決定された38)。
NFCが国営企業でなく民間企業となったことに伴って、幾つかのテクニカルな問題が発 生した。まず、民間企業は円借款の借入人になれないため、NFCへの円借款供与は不可能 に な り 、 下 記 の よ う にNFCに 代 わ っ て タ イ 産 業 金 融 公 社
(IFCT, the Industrial Finance Corporation of Thailand)
が借り入れ、NFCに転貸することになった。国際協力銀行 −−−−−−> IFCT −−−−−−> NFC (円借款) (転貸)
これによって、第二の問題が発生した。IFCTでは、貸付リスクの分散のため、一企業への 融資額はIFCTの自己資本の25パーセント(当時、約6億バーツ)を超えないようにしていると ころ、IFCTからNFCへの転貸額はこの限度額の約5倍の規模であり、この差額について第 三者の返済保証を取る必要があった。タイ政府が保証することが最も望ましかったが、そ れが法律的に難しかったため、地場の商業銀行にシンジケートを組んで保証してもらう方 法を指向したが、この交渉が難航し、最終的にソンマイ蔵相
(Sommai Hoontrakool)
が銀行首 脳との直接折衝を繰り返して、商業銀行8行からの保証を取り付けた39)。最も困難な問題は、事業実施に必要な資本金の確保であった。当初の資本金額2億バー
ツから
22.5億バーツに増資し、そのうちタイ政府が33.3パーセントのシェアーを保有し、
タイの金融機関および肥料流通業界とIFCが37パーセント、外国投資家が30パーセントを 保有する構想であったが、出資を依頼されたタイの金融機関、とくに最大の商業銀行であ るバンコク銀行が非常に消極的で、増資のメドがなかなか立たなかった。この背景要因と しては、後述の収益性に関する不確定要因も見逃せないが、当時、バンコクで指摘されて いたのは、バンコク銀行と密接な関係をもつタイ最大の商社「メトロ・グループ」がタイ の肥料輸入と国内の流通をほぼ独占していたことである40)。肥料の国産化が進むとメトロ・
グループの商権が脅かされることは明らかで、それがバンコク銀行の消極姿勢を生み、金 融機関全体の消極姿勢につながっているとの見方が有力であった。
事態を懸念したタイ政府は、大蔵省のチャトモンゴン局長
(M. R. Chatumongol Sonakul, 1997年の通貨危機発生時の大蔵次官、のち中央銀行総裁)が兼任していたNFC会長に、タイ
石油(Thai Oil)
のカセム会長(Kasame Chatikavanij
、元工業相、元タイ電力公社総裁)を起用し て難局打開を図った(1986年2月)。 スーパーK の異名をもつ敏腕の大物経営者であるカセ ム氏を起用したことに、東部臨海推進派の意欲と危機感をみることができる。カセム会長 をサポートするために、ソンマイ蔵相の腹心であるマナット大蔵省財政政策局長(ManasLeevirapan)が大蔵省を代表する形でIFCTの役員となった。
b) このころ、以前から議論の多かったNFCの収益性をめぐって新たな難問が発生してい
た。円高によるコスト増加である。すでに述べたように、世界銀行は、国際金融公社(IFC) の作成したF/Sの結果に基づいて、一貫してNFCがフィージブルな事業であるとの立場を 取っていたが、同時に、この事業に幾つかの無視できない不確定要因(肥料の国際価格に関 する不安定性、等)が伴っていることを認識していた。38 下村・大橋(1986)前掲文献 p.109-110
39 下村・大橋(1986)前掲文献 p.111
40「日本経済新聞」1987年9月8日 なお、今回行ったインタビューで、TDRIのアマル元所長 (Ammar Siamwalla)が同様の点を指摘した(1998年11月10日のインタビュー)
肥料の国際市況は、以前から需給バランスの頻繁な変動によってきわめて不安定な動き を示してきたが、とくに、1986年当時は、市況のどん底にあり、尿素肥料の場合、約一年 前のトン当たり140ドル(東欧、FOB)の水準から75ドルまで低下していた。肥料価格とプロ ジェクトの収益性の関連に関するIFCの見解をまとめると表−2のようになる。