• 検索結果がありません。

第 5 章 自発

5.1 自発表現の定義および形式

本節では、自発表現にまつわる先行研究を紹介したうえで、「自発表現」およびその形 式について定義を行う。

5.1.1 自発表現の定義

自発表現の定義について、諸研究はだいたい似たようなものを提示している。例えば岩 淵ほか編(1989:136)には、「自発とは、そうしようと思わなくても自然にそうなるとい う言い方のことである」という記述がある。また小池ほか編(2002:174)では、自発表現 は「主体の意志に関係なく、ひとりでにある動作をとるに至っていることを表す表現」で あると定義している。

この二つの定義は、一見同じようにみえるが、細かいところで違いがあると思われる。

岩淵ほか編(1989)の定義における「そうしようと思わなくても」という言い方に、「主 体の意志に関係なく」という含みのほか、「主体の意志に反して」という含みも読み取れ ないわけではない。実際、この二つ目の含みを定義にはっきりと反映させている研究もい くつか存在し、たとえば渋谷(2006)、吉田(2010)、川村(2014)が挙げられる。

渋谷(2006:48)は動作主体の意志を拠り所とし、自発を「「通常は動作主体の意志の 発動によって行う/行わないはずのある動作が、動作主体の意志とはかかわりなく、ある いはときにそれに反して、起こる(肯定文の場合)/起こらない(否定文の場合)」とい ったことを表す動詞の文法的なカテゴリー」と定義し、そのうち特に「話し手の意志や期 待に反して行為が起こる/起こらない」場合の表現が「典型的な自発」(52頁)であると 主張している。川村(2014:258)も同様な角度から、「通常意志的に行われる行為が、行 為主体が意志しないのに(意志に反して)実現すること」を自発の意味としている。両者 の違いは、渋谷は否定文の場合も含めて考察しているのに対し、川村はそうした点に触れ

89

ていないところくらいである78。そして吉田(2010:95)も、「そうしようと意識・努力し ないで、自然にそうなってくる。ひとりでに催されて、止めることができない意味を表す」

と、言葉遣いを少々変えているが、「動作主体の意志に背く」という意味を包含している 点で基本的に前述の主張と一致している。

そこで、この「動作主体の意志に反して」という規定がはたして必要であるか否かを考 えてみたい。寺村(1982:271-272)は、「Xガ V(他動)-e-(ru)」という自発構文の意 味を、「あるもの(X)が、自然に、ひとりでにある状態を帯びる、あるいはあるXを対 象とする現象が自然に起きる」と定義し、この表現の本質は、「V-の主体を不問に付した、

あるいはそれが意識に存しない」というところにあると主張している。この動作主体(へ の意識)の不要という主張は、橋本(1969:266)、森田(2007:41)、堀川(1992:172, 179, 180)など、定義の中で動作主体への言及すらない研究によって支持されていると考えら れる。また澤田(2006:265)における「自発文とは、心理主体に、ある心的作用(感情・

知覚・思考など)が自然に生じるさまを表す構文の集合である」という定義では、心理主 体は言及されているものの、単に心的作用の発生の場としての役割しか持たず、その意志 性は関係していない。

よく考えてみると、「動作主体の意志に反して」というのは、自発表現の一義的な意味 ではなく、それを文脈や世間一般の常識に照らし合わせた結果、生じてくる意味合いであ ると理解したほうが適切のようである。すなわち、自発表現の置かれる文脈から、その出 来事が動作主体の意志や期待にそぐわないという読みが出る場合、「普通は動作主体の意 志によって発動される動作が、動作主体の意志に関わりなく発生してしまう」ことに付随 して、「動作主体の意志に反して」という意味合いが生じてくる。これは、例えば「忘れ ようとしているのに、あれを見ると、どうしても昔のことが思い出される」という文を考 えてみるとよい。この文からは確かに「動作主体の意志に反して」という意味が読み取れ る。ところが、「忘れようとしているのに」という部分を外したとしても、自発部分の意 味はほとんど変わらない。そのほか、自発表現に「テシマウ」を伴う場合も、「動作主体 の意志に反して」という意味合いが生起することがあるが、これも「テシマウ」の付加に よるところが大きいのは、言うまでもなかろう。

こう見てくると、自発表現の定義については、「主体の意志に関係なく自然に出来事が 発生する」という点こそが、諸研究に共通している部分であり、自発の本質的な意味であ

78 自発の否定形に関しては、後述する。

90

ろう。というわけで、本論文においては、「自発表現」を「主体の意志に関係なく、自然 に出来事が発生する意味を表す表現」と定義することにする。

5.1.2 自発表現の形式

森山(1988: 122-123)によると、自発表現の形式(以下は「自発形式」と略す)に関 する扱いは、主に①助動詞(ラ)レルの自発用法のみ、②自動詞的な -eru のみ、③その 両方を含むもの、を自発形式とする、という三つの考え方がある。

(ラ)レルが自発の助動詞としての位置づけがほぼ共通の認識となっている現代日本語 において、それを自発形式の一つに数えるのが至極当然のように思われるなか、上の考え 方②の特異性は際立つものに感じられよう。事実、管見のかぎり、この立場をとる研究は 寺村(1982)しか見当たらないようである。寺村(1982:272)は他動詞のうちの「五段活 用をする動詞の語幹に‘-e-(ru)’という形態素がついたもの」を自発形式の標準の形と規 定し、「聞コエル、思ワレル、泣ケ(テク)ル」などを「標準から外れる形」、そして一 段活用動詞の「見エル、煮エル」などを例外的な自発形式として考えている。この規定の もとでは、「切レル、折レル、売レル、割レル、砕ケル」などはすべて自発形となる。し かし、庵ほか(2000:85)に指摘されているように、これらの動詞は現在「他動詞に対応 する自動詞とする考え方のほうが一般的」である。また、自発文は「動作主体を文構造の なかにもっている」のに対し、これらの動詞は「もともと動作主体は文構造のなかに含ま れていない」という渋谷(2002:30)の指摘をあわせると、それを自発形式の一種として 立てる妥当性はさらに薄くなってしまうであろう79

考え方①の支持者といえば、森山(1988)、堀川(1992)、渋谷(2002)などが挙げ られる。渋谷(2002:30)は、-e(ru) 形を自発形としない理由について、上に述べたもの のほか、「可能動詞と同じかたちをとる自発形式」は、「テシマウやテクルのような補助 動詞や、副詞イツノマニカなどの、自発であることを表す別の形式のサポートがないと、

可能に解釈されることが多く、単独で自発を表す力は弱い」ことを挙げている。また堀川

(1992:171)は早津(1987)の指摘を援用し、「割レル、焼ケル、切レル」などにみられ る「自然にそうなる」という意味は、他の有対自動詞と共通の特徴であり、「語幹に -eru がついた形のもの(可能性と同形)だけを別に取り出して、自発という生産的なカテゴリ

79 この点については、杉本(1988:220)が語彙確立の歴史の角度から行った反論も参考になる。

91

ーとして独立させる根拠は薄い」ということから、(ラ)レルのみを自発形として扱って いる。

考え方③をとる研究については、「両方を含む」といっても、実は -eru 形の一部だけ を含めるのが一般的である。例えば小池ほか編(2002:174)では、自発表現には、「動詞

+レル・ラレルの形」と「可能動詞の一部」とが包含されている。「この種の可能動詞は 意外と少なく」と述べてあり、用例としては「思エル、笑エル、泣ケル、読メル、知レル」

などが挙げられている。松村編(1971:301)や杉本(1988:217-219)、岩淵ほか編

(1989:136-137)、川村(2014:258)なども、これと同様な立場である。

本論文は、二つの理由により、考え方③に従うことにする。第一に、現代日本語におい て、助動詞(ラ)レルの自発用法はすでに市民権を得たものであり、当然自発形式の一つ とすべきだからである。第二に、「泣ケル、笑エル、読メル、思エル」など可能動詞形の ものは、一般の自動詞の類に属せず、自発形式として認められる場合が多いため、実証的 研究を目的とする本論文にとっては、集計して比較する価値があると思われるからである。

また、動詞「見エル・聞コエル」はよく自発の範疇内のものとして捉えられるが、以上の 二種類とまったく違う特有の性質を持っており、現代語においては「単独の動詞」と判断 される(杉本1988:218)ため、本論文では考察対象から外すことにする80