第 6 章 敬語
6.2 各ジャンルにおける敬語表現の集計結果およびその分析
6.2.2 文学(地の文)
表6-2における「文学(地の文)」のデータを見ると、敬語表現の数が依然として少な いが、「新聞記事」より敬語形式の種類が豊富であることが分かる。そのうち、特に恩恵 敬語の数が目立ち、あわせて全体の7割以上を占める。そして「敬語対象」による統計デ ータを示す表6-4を見ると、またⅢ人称敬語とⅡ人称敬語がほぼ半々の状況であるが、「新 聞記事」とは逆で、Ⅲ人称敬語よりもⅡ人称敬語のほうがすこし優位であり、そのうち、
特に「直接引用文中のⅡ人称敬語」が多いのは注目される。
表6-4 「文学(地の文)」における各敬語表現形式の「敬語対象」による統計データ
まずは本論文の主要考察対象の(ラ)レル形式を見ていく。(202)の1文しか現れて おらず、しかもそれは手紙からの引用である。奥山(1976)によると、「手紙文は文章の
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中でも最も話し言葉に近いもの」(236頁)であり、「手紙文の敬語は話し言葉よりも一 段上の敬語を使うのがふつう」(247頁)である。それにここで言う「山本先生」は、創 価学会のメンバー(文中の「エイコ・リッチ」および手紙の受け手)が尊敬し憧れる存在 である。以上の二点をあわせて考えると、ここは諸形式の中で最も敬度の低い(ラ)レル 形式を使うべきではない。しかし、ここの「山本先生」は手紙の直接受け手ではなく、た だ話題に上ってくる人物である。Ⅱ人称者の場合に比べて、Ⅲ人称敬語はもともと少ない という(菊地1997:117)108ので、それに比例して敬度の低い形式が選ばれるのも納得で きよう。
(202)千九百六十五年(昭和四十年)の十月上旬に、エイコ・リッチから手紙が きた。 そこには「間もなく、山本先生が、ヨーロッパを訪問されるそうです」
と記されていた。だが、その日程については、彼女もわからないようだった。
“なんとしても、先生にお会いしたい!” 彼女は思った。そして、真剣に祈 り続けた。(『新・人間革命』)
次に唯一の「オ/ゴ~ニナル」形式について見てみよう。(203)を読めば分かること だが、ここの「お生まれになる」は尊敬や相手を立てるという敬語本来の意味を一切持っ ておらず、むしろ皮肉や軽蔑の気持ちが込められている。敬語のこうした働きについて、
大石(1975:67)は「一種の優越感をもって敬語を使う使い方に属し」、そしてこの優越 感はまた「敬語が教養性のことば」であることから生じていると解説するが、まさにその とおりである。
(203)四十名の大注目を浴びて入ってきたのは、気持ち悪いほどオドオドしたデ ブだった。ベッタリとしたワカメヘアーを載っけたデカ過ぎる頭、その額には じんわりと脂が浮かび、デザイン性ゼロ機能重視の大きなメガネを顔面にめり 込ませ、サイズちょっと小さいんじゃないですかのムチムチブレザーにズボン、
顔は…これはもう残念な顔にお生まれになったとしか言いようのない絵に描 いたようなブ男だった。(『野ブタ。をプロデュース』)
108 菊地(1997:117)の部分は主に話し言葉について論じているが、(202)は話し言葉に近い手紙 文なので、同様に適用できると思われる。
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さて、上の2例はいずれもⅢ人称敬語であるが、議論の都合上、つづいては形式にとら われずこれと同じ機能のほかの例も一括に検討しておく。上の2例を含め、あわせて9例 ある。(204)と(205)は『新・人間革命』からの用例で、二つとも登場人物の心理活動、
あるいは内心独白である。これは声に出せば独り言になるが、また文字に書けば日記にな るのであろう。こうした「場」はいずれも自分のためのものであり、その内容を聞くか読 む相手はいない。そのため、本来敬語など必要はないが、例文を見れば、心理活動の主体 が敬語対象を強く意識し((205)において、敬語対象はまさに目の前に存在している)、
なおかつ厚い尊敬や憧憬の思いを抱いていることが伝わってくる。それでたとえ内心の独 白であっても、敬語を使わずにいられないのであろう。敬語表現はもともと書き手や話し 手の場や人間関係に対する捉え方を反映するものなので、その気持ちに左右されるのもも っともだと言えよう。
(206)から(208)は木藤亜也という少女が闘病中に手が動かなくなるまで書き綴った 日記をまとめた109ノンフィクション『1リットルの涙』からの用例である。病気のせいで 体がだんだん不自由になっていく過程の中で、作者は助けてくれる他人のやさしさを普段 よりもいっそう強く感じるのであろう。それを日記に記したとき、「~テクダサル」で恩 恵を受けた人への感激の心境を表すのは、いたって自然なことである。これが(209)で は「~テイタダク」にかわっているが、理屈としてはまったく同様である。
(204)だが、伸一の言葉が、この高等部員の心を変えていくことになる。 指導 を聞いて、彼は考えた。 “ぼくは、一日も早く沖縄から離れたいと思い続け てきた。でも、それでは、誰がこの沖縄の現実を変えていくのか。それを成し 遂げていくのが、沖縄に生まれ育った、ぼくたちの使命だと、先生は教えてく ださった。 また、この世界に、第二、第三の「沖縄」をつくってはならない。
だから、その苦しみを知るぼくたちこそが、世界の平和のために、貢献してい かなくてはならないんだ”(『新・人間革命』)
(205)伸一が船のデッキに立って手を振ると、「ワーッ」と、唸り声のような歓 声がわき起こった。多くのメンバーは、伸一の来島を聞かされても、直接、姿
109 ウィキペディア(Wikipedia)の「1リットルの涙」項目(https://ja.wikipedia.org/wiki/1リッ トルの涙、最終アクセス日2017年4月6日)による。
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を見るまでは半信半疑であった。直前まで、台風四号の影響で海は荒れ、鹿児 島からの定期船は欠航していた。また、飛行機も、予定通り運航するかどうか 心配だったのである。 “山本先生は、本当に来てくださった!” この瞬間、
皆の喜びは爆発したのだ。(『新・人間革命』)
(206)秋田病院に入院することになった。 馴れない病院で緊張する。 小柄な おばあちゃんが、わたしの世話をして下さることになった。(『1リットルの 涙』)
(207)ボタンかけの練習を必死でやる。 リハビリで、寝返りや膝立ちの練習も 必死でやる。 おばあちゃん、わたしの姿に感激して応援してくれる。そして、
トレパンと上着を買って下さる。もっと、ガンバロウゼ…。(『1リットルの 涙』)
(208)またも先生に救われたと思ったら、涙があふれてきた。母も泣いていた。
相談した結果、知立市の秋田病院へ山本先生が月二回診察に行くから、そこを 紹介すると言って下さった。 「病室の手配ができ次第早急に入院しましょう。
それまで待っていてね。亜也ちゃんはわたしの目の届く所にいてほしいから」
と先生に言ってもらい、ほっとする。(『1リットルの涙』)
(209)通園が始まってまもなく、先生から、学園での生活をしていくうえで秋雪 の体のことをきちんと理解したいので、できれば診察に同席させてもらい、主 治医と話をしたいとの申し出があった。そんなことまでしてくれるのか、と正 直驚いた。早速、医師の承諾をもらい、小児医療センター・循環器科の診察を 受けるとき、二名の先生に同席していただく。秋雪の学園生活における具体的 な注意点は何かを、医師から直接聞いてくれた。(『たったひとつのたからも の』)
さらにⅡ人称敬語の用例を見てみよう。奥山(1976:223)によれば、小説は「表出文」
と「言い立て文」にまたがっている文章であり、書き手は読み手をあまり意識していない か、それが不特定多数の場合が多いためか、敬語はきわめて少ない。しかし、(210)は 明らかに読者に訴えるような口調であり、むしろ「訴え文」に属する文章である。なお、
敬体で綴られているのも、読者を強く意識している裏付けであろう。障害を持つ作者にと って、自分のことを受け止め、さらには共鳴し共感してくれることは、生きていくうえで
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大きな励みになるのであろう。その恩恵への感謝、感激の気持ちが、敬語「~テクダサル
/イタダク」の使用に繋がっていると思われる。
(210)私が語れば語るほど、私は子どもや脳障害のことを知らない人たちに出会 うのです。これは、たぶん私が生きている間中、続くことでしょう。私は、で すから、手放すことを覚えました。私は語り続けますが、共鳴し、共感してく ださるかたに語るだけにしたのです。(中略)人の心は、こちらからどう伝え ても変わらないときがあるからです。それは、その人の生い立ちに負うところ が多いので、その人自身が変わろうとか気づこうとしない限り、変えることは できないのです。だから私は手放すのです。私の言葉を文章に乗せて、ただ流 すのです。そして、それを受け止めてくださるかたがいれば、その人たちと共 鳴し共感し合うだけでいいと思っているのです。(中略)そういった生き方を 求めて、実践しようとする人が増えたとき、人々の心に穏やかな革命が起こり、
その周りには光の〈わ〉ができてくるでしょう。 そして、その〈わ〉があち こちででき、それらがつながって網のように広がったとき、世界中をその光が 包み込むことでしょう。 そのサンプルとして、私の存在を知っていただけた らうれしく思います。(『ひとが否定されないルール』)
一方、これらとまったく異なる特殊な用例がある。(211)と(212)のような発話の直 接引用や、(213)と(214)のような手紙文やその直接引用は、登場人物でも読み手でも なく、それぞれの発話や手紙の直接相手に対する敬語である。こうした用例を普通のⅡ人 称敬語と区別し、「直接引用文中のⅡ人称敬語」と呼ぶことにする。(215)は(204)と
(205)同じく内心独白であるが、「先生!」という呼び掛けの言葉から、それを声に出 していないだけで、実のところは話し言葉同然のものであると分かる。そのため、話し言 葉からの「直接引用文」として扱うことにした。
このように、一口に地の文といっても、(204)と(205)のような独り言に近い心理活 動の描写もあれば、(210)のような読み手に訴える文章、また(211)から(215)のよ うな発話や手紙からの直接引用など、実に様々なものがある。読み手の存在感が薄い「文 学(地の文)」において、これらは敬語の存在が可能になる特別な「場」をなし、その使 用を生み出しているのである。