第 4 章 可能
4.2 可能表現の分類についての先行研究および本論文での分類基準
4.2.2 可能の条件による分類
日本語記述文法研究会編(2009: 280)は可能構文を、「その動作を実現することが可 能・不可能である条件・理由によって、大きく、能力可能と状況可能」という二つに分け ている。その上で、「能力可能は能動主体の能力に理由があるものであり、状況可能は能 動主体の能力以外に理由があるものである」と定義し、次のような例を挙げている。
(66)僕はインド料理なんて作れない。(能力可能)
(67)日本では材料がそろわないから、インド料理は作れない。(状況可能)
こうした「能力可能」と「状況可能」の二分法を採用している研究はかなり多く、ほか にも奥田(1986:188)(「能力可能」と「条件可能」)、井島(1991:157)(「内因可能」
と「外因可能」)、尾上(1998b:93)、川村(2004:117)などが挙げられる。
また、渋谷(1993a, 2005)はこの「動作主体にそなわっている能力」による可能表現 をさらに「心情可能」・「能力可能」(狭義)・「内的条件可能」という三つのタイプに 仕分け、それぞれ次のように規定している(渋谷2005:34、下線は筆者)。
心情可能:主体内部に永続的に存在する心情的・性格的な条件によって可能・不可能 であることを述べるもの。一人称主語が典型であり、三人称の場合は感情移入があ るときにこのタイプとなる。「夜中にお墓に行くなんてこわくてできない」など。
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能力可能:主体内部にほぼ永続的に存在する能力的な条件によって可能・不可能であ ることを客観的に述べるもの。「100メートル10秒では走れない」など。
内的条件可能:主体内部の、病気や気分などの一時的な条件によって可能・不可能で あることを述べるもの。「今日は気分が悪くて行けない」など。
以上の四分類のほか、渋谷(1993a:29-30)は「実現可能」にもう一つ「条件を無視し て単に実現の有無(結果)だけを問題にする用法がある」と主張し、それを「結果可能」
と名づけ、次のような例を挙げている。確かにそのとおりであるとは思われるが、こうし た「結果可能」は実際の使用上でかなり場面が限られており、「可能」の体系において周 辺的なものと捉えたほうが適切であろう。
(68)(鉄棒で、今までできなかったわざをはじめて成功させて)できた!
(69)(今まで泳げなかったのが泳げるようになって)泳げた!
また、ここでもう一つ考察を加えるべきものとして、問題とされる非情物の属性を表わ す可能文がある(例文は森田1977:477より、下線は筆者)。
(70)この起重機は六トンまで(物が)上げられる。
(71)D51は貨車六十両も牽引できる機関車だった。
森田(1977:477)はこのような「機械・道具類における性能・許容能力」による可能表 現も人間の能力によるそれと同一に扱っている68。しかし、中井・呂(2014:7-9)が指摘 しているとおり、「有情物の能力と異なり、機械の性能の具現は機械それ自身によって制 御できないため」、両者を別物として扱ったほうが適切であると考えられる。中井・呂は この種類の可能表現を「属性可能」と名づけ、その属性には、「事物の本来の性質」「機 械などの性能」「事物に対する評価・事物の価値」といった三種類があるとしている。そ れぞれの例として、次のようなものを挙げている(例文は中井・呂2014より)。
68 渋谷(1993a:36)は明確には述べていないが、例文に対する類分けの注釈から、森田(1977)
と同じ捉え方をしていることが分かる。
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(72)温帯性の植物である桜は亜熱帯地域では気温が20度を少し下回ってようや く咲くことができる。(性質)
(73)この車は時速100キロで走ることができる。(性能)
(74)この茸は毒がないから食べられる。(評価)
(75)このペンはすらすらと書ける。(評価)
事実このように非情物を問題とし、その属性や評価を表わす可能文が一定の数で使われ ていることから、「属性可能」を一つの下位分類として立てるのは正当であると思う。ま た、その非情物の性質や性能が、行為・状態の実現が可能か否かの条件となっている点か らすれば、これも可能の条件による分類の一つとして捉えられよう。
最後に金子(1980:70-72)によって打ち出された「認識の可能」について触れたい。そ れはつまり「みこみの存否についてのべる可能」、また換言すれば「可能性」を表わす可 能表現である。金子によると、この「認識の可能」を表現できる可能表現形式は「動詞連 用形+ウル・エル」形式に限っており、ほかの可能表現形式で言い換えることはできない。
たとえば次例がそうである。
(76)美が自分を護るために、人の目をたぶらかすということはありうることであ る。三島由紀夫「金閣寺」(新潮文庫・1972)(金子1980:72)
井島(1991:177)も金子の「認識の可能」に言及し、それが表わす「可能性」と「可能」
の相違について、「命題の中か外か、それとともに〈意志〉が関わるか関わらず客観的に みているか」と述べている。すなわち、金子のいう「認識の可能」はすでに「可能」の中 心的意味からずれてしまい、たとえそれを「可能」の一種類と認めても、周辺的なものと してしか位置づけられないであろう。
本論文は現代日本語の六つのジャンルにおける可能表現の特徴を見出すことを狙って いるため、ただ「能力可能」(広義)と「状況可能」に大まかに分類するよりは、さらな る細かい類分けを行ったほうが、より分析に役立つ。例えば文学やドラマなど登場人物の 内面描写、個人の心理や気持ちを描く表現が多いと思われるジャンルでは、「心情可能」
が多く出てくると予想される。従って本論文は主に「心情可能」・「能力可能」(狭義)・
「内的条件可能」・「状況可能」・「属性可能」という五つの分類を立て、そして「結果
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可能」および「認識の可能」を周辺的なものと位置づけ、統計と分析を進めていくことに する。