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第 5 章 自発

5.2 各ジャンルにおける自発表現の集計結果およびその分析

5.2.2 文学(地の文)

表5-4に示されている「文学(地の文)」のデータを「新聞記事」のデータと比べると、

似ているところもあるが、大きな相違点もあることが分かる。「新聞記事」と似ているの は、自発表現が「主節」に来るのが依然として大多数となっていることである。そして大 きく異なっているのは、両形式ともに三人称主体と過去テンスが著しく増えてきたことで ある。

5-4 「文学(地の文)」における二種類の自発表現形式の統計データ

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「新聞記事」において、(ラ)レル形式(全部で28例)は三人称主体文が1例、過去 テンスが2例、そして可能動詞形式(全部で6例)は三人称主体文が0例、過去テンスが 1例しかない。しかし「文学(地の文)」(全部で30例)においては、両方とも逆転して いる。三人称主体文は21例もあり(たとえば(154)の「葵」、(155)の「滋子」、(156)

の「キシベ」など)、過去テンスは22例もある。

文学には三人称小説というものがある。この三人称小説においては、全知的な存在とし ていわゆる「神の視点」で作中世界の全般を把握する語り手の存在を介し、普通なら人称 制限のかけられる感情や心理活動などの内面描写も、三人称の登場人物について描くこと が可能になる。それゆえ、「文学(地の文)」で三人称主体の自発文が増えるのももっと もである。また、小説は普通「実際のことであれ、架空のことであれ、すでに起きた過去 の出来事として作者によって整理され、構成されて描かれたものである」(守屋1992:98)

ため、過去テンスの増加も容易に理解できる。

(154)そんな気分が、どこにも出口を見つけられないまま鬱積していっているよ うに、葵には感じられた。(『対岸の彼女』)

(155)ただでさえ難しいものを、テレビカメラの前でやろうというのは、やや無 謀のように滋子は感じている。それに、もうはるか昔のことのように感じら れるが、坂木達夫との約束も、心に残っていた。(『模倣犯』)

(156)キシベは、既に四十代後半になっていた。#ペルーに来て、二十数年がかり で築き上げてきた人生のすべてが、足元から崩れていくように思えた。(『新・

人間革命』)

ただし、ここで一つ言及に値するものがある。それは、同じ三人称主体の文といっても、

2種類に分かれていることが観察できることである。というのは、(154)のように三人 称主体が作中の登場人物である場合もあれば、(157)のように語り手が主体となって物 語の背景的知識を説明する場合もある。さらに(158)のように、シーンに登場する人物 が一人しかなく、その人物を含むシーンの全般を描写する文の場合、主体は紛れもなく語 り手であり、読者はその語り手の目と知覚を通して物語の世界を感受し理解している。文 学は、このように出来事に直接かかわる人物のほか、語り手という虚構の存在がある点に おいて、他のジャンルと大きな違いがある。

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(157)仏教は、インドから西域を経て中国、朝鮮に入り、六世紀半ばまでに、東 漸の終着駅ともいうべき日本に伝えられた。 韓・朝鮮半島では、既に四世紀 には、仏教が入っており、日本への渡来人のなかにも、仏教徒はかなりいたも のと思われる。(『新・人間革命』)

(158)机の上のポータブルCDプレーヤーからは、ブライアン・アサワの歌うア レッサンドロ・スカルラティのカンタータが流れている。#そのゆったりとし たテンポは身体の激しい動きとは異質なように思えるが、彼は音楽の流れにあ わせて、微妙に動きをコントロールしている。(『アフターダーク』)

「新聞記事」との二つ目の相違点は、「自発の型」にある。「新聞記事」では判断型が 圧倒的主流であるのに対し、「文学(地の文)」では感情生起型と想起型が大幅に増えて いる。

堀川(1992:172)によると、「感情生起型」の自発は「何らかの感情・気持がひとりで に生じてくる」ことを表し、「~スル気持ニナッテクル」「~スル気持ガ浮カンデクル」

という意味を表す。典型的な動詞として、「惜シム・懐カシム・悔ム・恨ム・案ズル・危 ブム・気遣ウ・危惧スル・懸念スル・願ウ・念ジル」などが挙げられている。そしてこれ らの動詞のほかに、堀川は「形容詞(形容動詞)の連用形+思ワレル(感ジラレル)」の 形もこの型に含めている。登場人物の心理・感情などの内面描写を重要な一要素としても つ文学において、こうした感情生起型自発が常用されるのも当然の帰結であろう。

今回の資料には、感情動詞そのものを使った自発表現はいずれも姿を現しておらず、出 ているのは後者ばかりで、しかもすべて(13例)「感ジラレル」を使うものである。たと えば「形容詞の連用形+感ジラレル」の(159)と、「形容動詞の連用形+感ジラレル」

の(160)が挙げられる。そして(159)と類似した表現として、「名詞ニ+感ジラレル」

構文の(161)と、「名詞トモ+思エル」構文の(162)のような用例もある。時間に対す る心理的感受を表しているところが(159)と共通しているので、感情生起型自発に該当 する。これらの例文からも実感できるように、一人称の感情生起型が自発のプロトタイプ とされているのは、思考・判断と異なり、感情が最も人間の意志的制御の範囲からはみ出 しているからであろう。

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(159)植村は手元の資料に目を落としている。その時間が長く感じられた。(『半 落ち』)

(160)この微笑ましい光景に、メンバーは、山本会長という存在が身近に感じら れ、嬉しくなった。(『新・人間革命』)

(161)それは、十秒ほどの出来事であったかもしれないが、彼には、途方もなく 長い時間に感じられた。(『新・人間革命』)

(162)永遠とも思える時間、祖父はだまって戸口に立っていた。(『ダ・ヴィン チ・コード』)

一方、想起型の自発にあてはまる「感ジラレル」文もある。堀川(1992:179)は「想起 型」の自発を「ある対象が、自然に意識にのぼってくる、想起されてくる」ことを表すと 定義し、典型的な動詞としては「思イ出ス・思ウ・窺ウ・感ジル・考エル・連想スル・想 起スル・思イ起コス・偲ブ」などを挙げている。今回の資料でいえば、(163)(164)が この型に該当する。「想起型自発には何らかの外的条件が必要」(180頁)という特徴を 考えると、特に(164)は典型的な例であると言えよう。『現代日本語書き言葉均衡コー パス』(BCCWJ)からダウンロードできる例文の語数に制限があるため、詳しく知るす べもないが、おそらく「着物」と「雪の日」との間に何らかの関連が存在しているのであ ろう。それで着物を早く作ってもらおうと母親にねだろうとするたびに、「雪の日」のこ とが頭に浮かんできているのであろう。ここの「外的条件」とは、つまり二つの物事の間 に存在する「関連」だと言えよう。

(163)可愛らしい顔立ちの女の子だった。それこそ流行の言葉で言う“小顔”タ イプだ。明かりの少ないところだからはっきりとは言えないが、化粧気も無い に等しいように見える。ジーンズに包まれた足はすらりと長く格好良く、スタ イルの良さがうかがわれた。(『模倣犯』)

(164)約束した着物は、いつになっても縫い上がらなかった。何度もおきみは母 親にねだろうと思った。そのたびに、悟郎とおきみを…と吐き捨てた雪の日が 思い出された。(『あかね空』)

全部で9例ある想起型自発に、動詞「感ジル」はまた7例という高い割合で登場してい

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る。ただしこの動詞は、ほかとすこし異なった性質をもっている。「思イ出ス・連想スル」

などの動詞の場合、対象が想起されるのは意識領域でしか起こらない。それに対し「感ジ ル」の場合、対象が頭で想起される形も、または肉体で感知される形もあり得る。という のは、「感ジル」は精神面における感情・気持ちにも使えるし、物理面における振動・触 覚にも使えるからである。精神面での「想起型」はある対象が想起されるのに対し、肉体 面での「想起型」はある肉体感覚(実在する対象)が知覚されることになる。たとえば(165)

において、主体「ハリー」の意志に関わらず、光の玉が滑ってくるにつれて、杖の振動は 自ずと感知されるようになる。(166)における歌の音も、目に見えないけれど振動によ って発生しているという意味では確実な存在であり、その音がさらに大きく強力なものに なったら、内臓まで共振してくるとかいうことも十分想像できる。よって、肉体的感覚と 捉えていいと思われる。また(167)における幹部の「揺れに揺れている」感覚も、確実 なものだと捉えられる。

(165)光の玉がゆっくり、着実にハリーの杖のほうに滑ってくると、ハリーの手 の中で杖が身震いするのが感じられた。(『ハリー・ポッターと炎のゴブレッ ト』)

(166)その歌が、ハリーの周囲にだけではなく、体の中に響くように感じられた

…(『ハリー・ポッターと炎のゴブレット』)

(167)地元のメンバーは、今日の海は穏やかであると語っていた。しかし、東京 から伸一に同行してきた、船に乗り慣れない幹部にとっては、揺れに揺れてい るように感じられた。(『新・人間革命』)

こうした例は想起型の典型からだいぶずれているようにみえるが、「感情生起型が、何 らかの「感情」が生じてくる意味を表わすのに対し、想起型は、「対象」そのものが想起 される」という両者の違い、および「感情生起型が可能形に置き換えられないのに対し、

想起型は、それが可能なことである」(堀川1992:179)という判断基準によれば、やはり 想起型に振り分けたほうが適切だと思われる。ただし、周辺的用法として位置付けてよい であろう。

ところが、その感覚が抽象化すると、特に「~ヨウニ+感ジラレル」構文をとる場合、

「~」部分に入る感覚はより感情・気持ちに近い存在となり、可能形にも置き換えにくく