5.1の分析・考察から,ロシア語で理解の伴った言語活動を行うには,英語よりも多くの語数が 求められることがわかった:ロシア語は,英語よりもコーパスの高頻度語・基本語によるテキス トカバー率が大幅に低い.例えば,仮にTORFL-2級の学習用語彙リストに含まれる語をすべて知 っていたとしても,RNC-M のテキストの約 73%しか既知語にはならない.可読性の研究からわ かるように,このカバー率では理解の伴った言語活動の実現は難しい.
続く 5.2.では,このロシア語のテキストカバー率の低さを,概念・語彙素の形成における分析
的・統合的度合いの観点から言語学的に考察した.結果,ロシア語は新しい概念・語彙素を形成 する際の統合的性質(接頭辞,接尾辞などの付加による派生)が強く,結果的に派生語の数が多 くなってしまうため,1,000語,2,000語といった特定語数によるテキストカバー率が低くなって いるという考えに至った.つまり,ロシア語は派生語の含有量が多いのである.
ただ,高頻度語に分析対象を絞った場合,これらの中にはどれだけの派生語が含まれているの かは不明瞭であり,派生接辞の知識がどの程度語彙力増加に寄与するのかもわからない.そこで,
5.3.では,RNC-MとRNC-Sの高頻度5,000語を対象に,レマ単位の頻度データ (Ляшевская, Шаров
2009)をWF単位で数え直し,テキストカバー率の上昇度合いを確認した.分析の結果,WF化に
よって1,000語,2,000語といった特定語数によるテキストカバー率は大幅に上昇することがわか
った(表50参照).この結果は派生接辞の知識が語彙力増加に効果的であることを数量的に示し
ている.
本章の冒頭で掲げた(31)の研究設問に答える:a. ロシア語は語形成における形態的手法が豊か である.そのため,言語学的な観点から,派生接辞の学習は語彙力増加に効果的であると言える
(5.2.4.).b. その効果の度合いに関してであるが,例えば,WF化したRNC-Mの高頻度約2,500 語(972WF+1,500 レマ)はそのテキストの約8 割をカバーする.この数値は,レマ単位の 4,927 語によるカバー率に相当する(5.3.2.).他にも,RNC-Mの上位500語(レマ単位)は,テキスト
の53.0%をカバーするが,WF化後の500語によるカバー率はそれを約10%も上回る.RNC-Sも
同様に,WF化後の高頻度500語はテキストの76.2%をカバーし,この数値はレマ単位の1,132語 に相当する.なお,WF化した高頻度500語の中には,RNC-MとRNC-S共に派生語持ちWFが 数多く含まれており,かつ,それぞれのWFは平均して5語(レマ)の構成員から成る.
総括すると,WF単位でコーパスの高頻度5,000語を捉え直すことで,特定語数のテキストカバ ー率は大幅に上昇した.つまり,ロシア語の語彙の全体の中には無数の派生語が存在しているが (cf. Тихонов 1985: 4),頻繁に使われる語彙に対象を絞ってもその中で数多くの派生語が確認され た.したがって,派生接辞の知識は語彙力増加に大きな役割を果たすと言える.時間的制約の厳 しいロシア語教育において,派生接辞の学習は効率的に語彙力を伸ばす一つの手段である.
これまで教員の経験則やロシア語の言語的特徴から,語形成の知識は語彙学習に有益であると されてきたが,その効果を数量的な言語データに基づいて示した研究は存在しない.本章の分析 結果は,派生接辞学習の有効性を示す客観的な指標として用いることができよう.
6章. 学習価値の高い派生接辞の選定
5章ではコーパスが提示する頻度データ (Ляшевская, Шаров 2009)を用いて,派生接辞の学習が 語彙力増加に効果的であることを言語学的に,かつ,数量的に確認した.具体的には,RNC-Mと
RNC-Sから得られたレマ単位の頻度データを,本源形とその派生語群を1語として捉えるWF単
位(2.1.4.参照)で数え直した.その結果,特定語数によるテキストカバー率は大幅に上昇した.
これは,派生接辞の知識が語彙力増加に寄与することを示唆している.これまで経験的に語形成 の知識は語彙力増加に効果的であると考えられてきたが,5 章における分析・考察によりそれが 客観的に確認された.
ただし,現段階では,この成果を学習に応用するところまでには至っていない.5 章の分析か ら派生接辞の学習が語彙力を効率的に伸ばし得るということはわかったが,実際にどのように学 ぶのか,どのような派生接辞を学べばいいのか,といった問題は未解決のままである.西川 (2006) には288の英語の派生接辞(接頭辞と接尾辞)が提示されているが,語形成における統合的な度 合いが強いロシア語には,より多くの派生接辞が存在すると推測される.例えば,Ефремова (1996) の研究は,約1,900の語形成要素を挙げている.
表53. Ефремова (1996: 9)におけるロシア語の語形成要素一覧(著者が表記の一部を変更)
品詞 接頭辞 接周辞171 接尾辞 合計
名詞 60 168 690 918
形容詞 54 191 201 446
動詞 173 127 68 368
副詞 19 70 71 160
合計 306 556 1,030 1,892
これらすべての接辞を覚えることは時間的にかなり難しい.そもそも日本ではロシア語の授業の コマ数が少ないという環境的な問題が存在する (cf. 金子 2016; 黒岩 2016; Подалко 2016;
Хаясида 2016).また,大半の学習者が大学入学時からロシア語を始めるが,英語のようにそれま での知識の貯蓄がないため,ロシア語教育は基礎学習に時間を費やさなければならない.
171 接周辞(циркумфиксы)とは,«接頭辞-...-接尾辞»という形式で示される接辞を指す (Ефремова 1996:11). 例えば,на-...-ся/na...-sâは不完了体動詞に付いて,その動作をかなりの程度に行うことを表す
(Ефремова 1996: 27):есть/est'「食べる」にна-...-ся/ na-...-sâが付加されたнаесться/naest'sâは「たくさ ん食べる,飽食する」を意味する.本稿は,Ефремова (1996)に倣い,このような派生接辞に対して接周 辞という用語を用いる.
なお,Ефремова (1996)は-ся/-sâを後接辞ではなく接尾辞として扱っている.だが,本稿はАН СССР (1980)などに倣って-ся/-sâを後接辞に分類する.
このような状況下では,学習の導入項目の数や質に制限を設けなければならない.そのため,
もし派生接辞による語彙力増加を検討するのであれば,それらに学習上の優先順位をつける必要 がある.つまり,時間が限られた環境では派生接辞を「学習価値が高いもの」,「学習価値が中程 度のもの」,「学習価値が低いもの」に区分した上で,前者から学習者に提示していくべきである.
例えば,英語においてun-(否定を表す),-ly(容態・様子を表す副詞を形成), -ness(状態や特 徴を意味する名詞を形成)は数多くの派生語の中に含まれており,語彙力増加の目的でこれらを 覚える価値は高いと言えよう (cf. 太田垣 1999: 44; Nation 2001: 8).一方で,接頭辞agri-はギリシ ャ語の名詞agrosに由来し,「土」,「畑」を意味するが (西川 2006: 10-11),un-, -ly, -nessといった 頻繁に出会う派生接辞よりも学習優先度は低い (cf. Bauer, Nation 1993)172.ロシア語で言えば,主 に形容詞から抽象名詞を形成する接尾辞-ост’/-ost'173に出会う頻度が高いことは感覚的に理解で きるが174,学習上これを覚える価値が高いと推測される.一方で,動詞の不定形語幹に付いて,
その動作を行う女性を表す-лк-/-lk-175は,この接尾辞を含んだ派生語には滅多に出会わないことか ら考えて,覚えなくても良いと判断できる.
だが,これはあくまで経験的な意見にすぎない.そこで,6章では,5章の言語学的な成果をよ り学習に適した形で提示できるように,以下の研究設問に取り組む.
(54) 6章の研究設問
数ある派生接辞の中から,具体的にどれを覚えることで効率的に語彙力を伸ばせるのかを確認 する.
本章では,数ある派生接辞に学習上の優先順位をつける客観的なデータの獲得を目指す.具体的 には,5章に引き続きRNC-MとRNC-Sにおける高頻度5,000語を分析対象として,これらに含 まれる派生接辞をすべて抽出する.そして,各派生接辞の生起頻度(当該の派生接辞が含まれる 派生語の生起頻度の合算)と実質的生産性(当該の派生接辞が含まれる派生語の個数)を計測す る.この分析結果の数値が高い派生接辞は,実際に学習者が出会う機会が多いため,語彙力増加 の目的で覚える価値は高いと言える.
172 Bauer, Nation (1993)は,学習価値の観点から英語の接辞を7つにレベル分けしていった研究である.そ
の中で,接頭辞agri-は学習優先度が一番低いレベル7に分類されている.Bauer, Nation (1993)の研究は
6.2.1.にて詳細に言及する.
173 1章で言及したが,本稿の派生接辞の表記方法は,主にЕфремова (1996)の記述に倣う.
174 例えば,形容詞мягкий/mâgkij「柔らかい」に接尾辞-ост’/-ost'が付いて,名詞мягкость/mâgkost'「柔ら かさ」が形成される.
175 例えば,動詞гадать/gadat'「占う」に接尾辞-лк-/-lk-が付いて名詞гадалка/gadalka「(女性の)占い師」
が形成される.
本章の構成は以下の通りである:まず 6.1.にて,語形成(もしくは派生接辞)に関するロシア 語の教材を概観して,その問題点を指摘する.そして,本章の分析から得られる客観的指標が教 材作成においてどう活かせるのかに言及する.続く 6.2.では,各派生接辞の生起頻度と実質的生 産性を計測する.その結果を 6.3.にて詳細に分析し,どのような派生接辞が語彙学習上有益であ るのかを考察する.そして,6.4.にて語形成の知識を用いた語彙学習の課題について言及し,最後 に,6.5.にて本章の総括を行う.