本章の構成は以下の通りである:まず 6.1.にて,語形成(もしくは派生接辞)に関するロシア 語の教材を概観して,その問題点を指摘する.そして,本章の分析から得られる客観的指標が教 材作成においてどう活かせるのかに言及する.続く 6.2.では,各派生接辞の生起頻度と実質的生 産性を計測する.その結果を 6.3.にて詳細に分析し,どのような派生接辞が語彙学習上有益であ るのかを考察する.そして,6.4.にて語形成の知識を用いた語彙学習の課題について言及し,最後 に,6.5.にて本章の総括を行う.
うか.日本の教材では派生接辞はほとんど扱われておらず,主に移動動詞の項目で接頭辞が,体 のペアの項目で接頭辞・接尾辞が若干言及されるのみである (e.g. 戸辺 1990; 佐藤 2001; 前木 2004; 中澤 2010; 安岡2011; 東, 東 2012; 古賀, 鴻野 2012; 沼野他 2012; 秦野, トルストグゾフ 2012; 西中村, 朝妻 2017).
(55) 教材で導入されている接頭辞・接尾辞の例
a. 移動動詞:到着を意味する接頭辞при-の例 ехать → приехать
ehat' priehat'
go-IPFV. arrive-PFV.
「(乗り物で)進む」 「(乗り物で)着く」
b. 体のペア
1) 接頭辞с-の例 2) 接尾辞-ва-の例
делать → сделать встать → вставать delat' sdelat' vstat' vstavat'
do-IPFV. do-PFV. get_up-PFV. get_up-IPFV.
「する」 「する」 「起きる」 「起きる」
宇多 (2009: 235)が言うように,a.の移動動詞と接頭辞の関係は,他の一般動詞と接頭辞のそれよ りも(意味的な)規則性が高いため語彙力を増やす上で重要である.また,b.の体のペアにおけ る接頭辞と接尾辞は,大半の動詞に関わる重要な文法事項であるため,多くの教科書で導入対象 となっているのであろう.ただ,これらは,語彙力増加ではなく,あくまで文法の理解のために 導入されているという側面が強い.くわえて,上記移動動詞と体のペアを除けば,日本のロシア 語教材の中に語形成の記述はほぼ見受けられない.
一方,ロシアで出版されている教材には語形成に焦点を当てたものが少なからず存在する.だ が,これらの教材には,1) 大量の派生語が一挙に導入されている,2) 派生接辞に関する説明が 欠如している,という問題が存在する:1) Амиантова (ред.) (2016)やКиселёва (2016)といった語形 成を扱った教科書は,派生語を一挙に提示しているため,どの語が重要なのかを把握しづらい.
また,これらの教科書はほとんど使うことのない派生語まで例として記載している.例えば,
Амиантова (ред.) (2016)は,бить/bit'「打つ」に接頭辞,接尾辞,後接辞-ся/-sâが付いた派生語を 48個導入しているが,そこには生起頻度が低いものも含まれている.Киселёва (2016)は重要な本 源形として9つの動詞を挙げ,同様にこれらの派生語群を大量に列挙している.また,その内の
本源形の1つであるгадать/gadat'「占う」はそもそも生起頻度が低く,RNC-Mの高頻度5,000語 内には含まれていない.くわえて,その派生語群の多くが低頻度語に属しており,それらを覚え ることが学習者にとって有益であるかどうかは不明瞭である.2) Амиантова (ред.) (2016)では,
бить/bit'「打つ」, брать/brat'「取る」, говорить/govorit'「言う」といった重要な本源形とその派 生語群に焦点が当てられており,派生接辞に関する説明が非常に乏しい.Киселёва (2016)も同様 に,派生接辞に関する体系的な解説は欠如しており,数多くの派生語に触れながら帰納的に派生 接辞の意味と用法を学ばなければならない.
Козлова (2014)は,Тихонов (1985)の記述に基づいて作成された語彙学習用の語形成辞典である.
この語形成辞典は,TORFL-1級(CEFRにおけるB1に相当)の語彙を基礎としているが,固有 名詞,新たなレアリアを反映している語,そして日常的・文化的に意味のある語を含めることで その内容を拡張している(収録語数はレマ換算で3,700語,WF換算で1,920語に昇る).Козлова (2014)も数多くの派生語を一挙に導入しており,この提示の仕方ではどの派生語が重要なのかが 不明瞭である.また,この語形成辞典も派生語群に焦点を当てているため,派生接辞の解説は欠 如している178.
他にも,動詞接頭辞に特化した教材 (Эндрюс 2014; Барыкина, Добровольская 2015)も存在するが,
これらにはнад-/nad-, недо-/nedo-, обез-/obez-, пред-/pred-といった,出会う頻度が極端に少ないと 感覚的に推測される動詞接頭辞まで含まれている.時間的制約の厳しいロシア語教育において,
これらの接頭辞を導入するべきかどうかは判断が難しい(なお,後述の6.2.の分析から,RNC-M
とRNC-Sにおいてこれらの接頭辞が付加された派生動詞は数が非常に少ないことがわかった).
このように,どの派生接辞を優先的に学ぶべきなのか,また,派生接辞をどう提示すべきなのか,
といった問いの答えは,経験的・主観的な判断によって決められているところが大きい.
この問題を解決するには,当該の派生接辞を導入するかどうかを判断する際の指標となる客観 的なデータが必要となる.ロシア語の教授者であれば,抽象名詞を形成する-ост’/-ost'や,「〜す る人」を意味する接尾辞-тел’/-tel'の頻度が高いことは経験的に想像できる.このような主張を裏 付ける数量的なデータは,派生接辞を教材や授業へ導入する際の根拠として,また,学習者が実 際に覚えるべき派生接辞を選定する際の根拠として役立つ.本章ではこのようなデータの獲得を 目指す.
178 日本の学習環境では,語彙学習に割り当てられた時間が限られているため,数多くの派生語に触れて,
そこから帰納的に派生接辞の意味を習得させるやり方は難しいと思われる.そのため,教材に派生接辞 の説明がまったく欠如しているのは問題であろう.ただ,帰納的・演繹的アプローチのどちらで派生接 辞を導入するのが良いのか,といった議論には実証研究が求められる.これは今後の課題としたい.