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満洲国における蒙古人に対する学校教育

第 5 章 満洲国における蒙古人の人材養成

3 満洲国における蒙古人に対する学校教育

建国初期、興安総署(興安局)はまず各旗の蒙古人学校の建設に力を入れた。蒙古人学校 の系統は主に初等教育と中等教育からなり、初等教育には私塾、初級小学校、高級小学校 があり、中等教育には師範学校などがある。初等教育においては、「少なくとも一旗一校以 上は之を設ける20」という方針のもと、1934 年の段階で、すでに 79 校の小学校が開設され、

学生 3860 名、教員 280 名21を有した。その後、学生数は年々増加する一方で、1936 年にな

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中等教育においては、1934 年の時点で、奉天の国立興安第一師範学校とチチハルの五旗 が共立した竜江蒙旗師範学校(後に、興安東省立師道学校と国民高等学校の二校に改編)の 2 校があり、学生は合計 500 人で、蒙古人総人口の 1 万分の1、2 に相当する割合であった23。 1935 年、興安第一師範学校が廃止され、その代わりに国立興安学院が設立された。蒙古人 の中等教育以上の教育に対しては軽視されていた。その理由としては、従来蒙古人は遊牧 生活を営み、牧畜業のみが重要視されたことが挙げられる。

教育方針、及び教育要綱に関しては、満洲国の建国初期において、前述したように、蒙 古人に対する教育は民族協和、建国精神を基本とすると決められたが、教育法令などのよ うな細案はまだ定められていなかった。初等教育学校は旗公署に管理され、その経費は旗 より負担された。初級小学校は年齢が 9 歳以上の児童を対象とし、修業年限は 4 年で、「主 として蒙文教科書を使用し簡単なる満文(漢文)を併せ教授24」した。高級小学校は、初級小 学校の修了者またはそれと同等学力を持つものを対象とし、修業年限は 2 年で、「満文教科 書を使用し農耕畜産に関する初等実業教育を併せ行う。希望者に限り簡単なる日文を教授 する25」と決められた。すなわち、初等教育の低学年においては、蒙古語の教育を中心とし、

その上に漢文が加えられ、そして、高学年になると、満文教育を教育の中心とし、それと 同時に、農耕畜産のような実用性がある技術科目が加えられ、場合によって日本語も設け られるという 3 言語の付加教育となっている。

一方、中等教育については、1934 年までの興安学院は興安総署の直轄下(1937 年より、

民生部に移管)に置かれた蒙古人の中堅指導者を養成する機関であり、本科と師範科の 2 部 から構成された。本科は高級小学校卒業生またはそれと同等学力を有する者を対象者とし、

師範科は本科卒業者またはそれと同等学力を有する者を対象者とする。本科の修業年限は 3 年で、師範科の修業年限は 1 年である。本科においては「中等程度の満文教科書を使用し 主として農林産に関する実業教育を行ふ。師範科に於ては小学校教員たるに必要なる教育 を行ふ。本科及び師範科に於ては簡易なる日文を併せ教授す26」と定められた。初等教育と 比べ、中等教育では、漢文と日本語が重要視され、それと同時に、実業技能が教授された のである。

上記の蒙古人に対する初等・中等教育方針より、以下の 4 点が窺える。①蒙古人の児童 教育の修学年齢が漢人より高い。②蒙古人の初級小学校より蒙古語と漢語の教育を同時進 行させ、初級小学校では蒙古語を中心とし、高級小学校以上になると、漢語を中心とする。

さらに中等教育になると、蒙古語の代わりに、日本語の教育が求められていた。ここより、

満洲国のほかの民族と比べ、蒙古人の人材養成には、民族語である蒙古語のほかに、漢語 と日本語の 2 言語能力が同時に求められたと窺える。③漢人と同じく、実業教育の実施が 教育の中心である。④師範教育、つまり教員の養成が重要視された。たとえば、「初等教育 教師の資質向上と再教育のため、1938 年度より新京の教育講習所に年々教師を選抜入校せ しめた27」。この点においては、漢人に対する教育に類似しているとみられる。

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1938 年、満洲国では、学校教育を統一するために、新学制が実施された。蒙古人の学校 教育もほかの民族とともに、新学制の規定によって改革されるようになった。1937 年に発 布された「学制要綱」により、「日本語ハ日満一徳一心ノ精神ニ基キ国語ノ一トシテ重視ス

28」と決められ、これまで中等教育で普遍的に実施された日本語教育は蒙古語とともに初等 教育の「国民科」に入り、国民学校(小学校)の 1 年より実施されはじめた。その使用教科 書は「旗制施行ノ地域内ニ於テハ日語ニ依ルモノ及蒙古語ニ依ルモノヲ採定シ旗県並制ノ 地域内ニ於テハ日語ニ依ルモノ及省長ノ定ムル所ニ依リ満語ニ依ルモノ又ハ蒙古語ニ依ル モノヲ採定スベシ29」と定められた。また、各語学科目の教授時間数は表 5-1 のとおりであ る。

表 5-1 新学制後の蒙古人初等教育国民科教授時間数 (単位:時間)

国民科 国民学校 国民優級学校

第一学年 第二学年 第三学年 第四学年 第一学年 第二学年

日本語 6 6 7 8 8 8

蒙古語/漢語 7 8 8 9 8 8

(民生部教育司『学校令及学校規定』1937 年 79 頁、127 頁より、筆者が作成した)

表 5-1 より、新学制後の蒙古人の初等教育において、日本語と蒙古語または漢語の共住 時間数がほぼ同じであるが、新学制実施前の蒙古語と漢語を中心とした語学教育の仕組み がすでに日本語と蒙古語、または日本語と漢語に変更したことが窺える。次に中等教育に ついてみてみよう。中等教育においては、日本語と蒙古語と漢語が「国語」という学科に 括られ、3 つの言語の実施方針は初等教育と同じく、日本語と蒙古語、または日本語と漢語 となった。ただし、その教授時間数が初等教育と異なって、蒙古語と漢語の教授時間数が さらに減少され、下表 5-2 に示されているように、日本語の教授時間数の約半分である。

5-2 新学制後の蒙古人中等教育国語科教授時間数 (単位:時間) 国語 第一学年 第二学年 第三学年 第四学年

日本語 6 6 6 6

蒙古語/漢語 3 3 3 3

(民生部教育司『学校令及学校規定』1937 年 151 頁より転載)

以上、新学制実施後の初等教育と中等教育における語学の教育状況から、日本語教育が 強化された一方、蒙古語と漢語の教育は弱体化されたとみられる。

3.2 教科書の編纂

満洲国成立初期、蒙古人向けの教科書はなかったため、1938 年までに蒙古語の科目に中 華民国政府の教科書を援用していた30。教科書の不足に対して、興安総署の文教科では蒙文 教科書編審委員会を成立し、初級と中等教育機関の教科書を編纂させた。蒙文教科書編審 委員会により編纂された教材は初級教育用教科書『蒙文』、『算術』、『自然』、『修身』と『国 民読本』がある31。この教科書の編纂により、1938 年まで、蒙古人の初等教育には蒙文、算

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術、自然、修身と『国民読本』を使用する教科が設けられていたことが推定できる。この 教科の設置は漢人の初等教育と類似するとみられるが、教科書編纂の担当者により、「各民 族の文化の度合、風習、言語の相違から生ずる本来的制約があった。(中略)ことに蒙系に は高度の文化用語が存在しなかったので、表現の方法に苦しむ場合が少なくなかった32」と の記述から判断すれば、蒙古人向けの学科目の難易度は漢人より低いと推定できる。

1938 年以後、満洲国の学校教育では国定教科書の使用が決められた。張(2014:98-99)に よると、蒙古人初等教育機関で使用された教科書は日本語を除いて、蒙文、国民道徳、自 然、地理の教科書のほとんどは漢人向けの教科書の蒙語訳本である。日本語は小学校 1 年 から実施され、教科書は満洲国民生部編纂『国民学校日語国民読本』(全 8 巻)・『国民優級 学校日語国民読本』(全 2 巻)などの教科書が使用された33。内容は 50 音図、片仮名、平仮 名、単語、短文という順序で進められ、特に短文には「桃太郎」、「浦島太郎」、「乃木大将」、

「建国宣言」、「即位詔書」、「御訪日」34などのような満洲国と日本文化に関する知識で満た されていたようである。以上の教科書の編纂により、蒙古人に対する教育は他の民族と同 様、建国精神の教育を中心とし、その上に蒙古語と日本語教育を実施し、特に日本文化の 伝授が重要視されたことが窺える。

満洲国の蒙古人に対する指導方針には、一般教育より指導者の養成が優先されると明示 されたが、蒙古人の人材はいかに養成されていたのだろうか。次節では、蒙古人の人材養 成機関である興安学院で実施された教育について検討する。

3.3 興安学院

1935 年 7 月 30 日、勅令第 82 号を持って興安学院官制が公布され、同年 9 月に「蒙古子 弟をして将来への登竜門として絶対的学習機関35」である興安学院(王爺廟興安学院)が設立 された。興安学院官制の規定により、興安学院の教育目標は実業に従事する者に必要な知 識と技能を教授することと、蒙古人初等教育教員を養成することの 2 つと決められている。

また、1937 年 4 月 21 日付の蒙政部令第 15 号を持って、獣医と加工(畜産、皮革など)を技 能とする産業開発を担当・指導する人材を養成36する機関であるハイラル興安学院が設立さ れた。この王爺廟興安学院とハイラル興安学院の 2 つの教育機関の教育方針は一致してい る。本節では、後に民生部の直轄下に置かれ、蒙古人の人材養成のための代表的な機関と なった王爺廟興安学院を中心に、そこで行われた蒙古人人材の養成について考察する。

王爺廟興安学院は高級小学校卒業またはそれと同等の学力を有する 12 歳から 25 歳まで の蒙古人男子を対象者とし37、修業年限は 5 年である。王爺廟興安学院は開校してから、第 1 期から第 3 期までは毎期 50 名の学生を招集しており、第 1 期と第 2 期の学生は人数配分 によって各旗より推薦されたものであり、第 3 期より試験採用となった。第 4 期より、毎 期の入学人数の定員は 100 名から 120 名となった。1938 年より、学生を甲班と乙班の 2 つ のクラスに分け、甲班を実業班、乙班を教育班とした38。甲班卒業生に委任官資格を授与し、

乙班卒業生に教員資格を授与した39。つまり、王爺廟興安学院の卒業生は満洲国官吏の待遇 を享受し、これにより、満洲国の蒙古人官吏及び教員が確保されたと考えられる。